白い手 [断崖の罪人たち]

 

 足が地を踏んでいないようだった。
 朝からそわそわ落ち着かず、同輩に冷やかされた。
 仕方ないじゃないかと信介は思う。
 今日は三回目の逢瀬なのだ。町をぶらつくには少し陽気が暑くなってきたから、今日は木陰の多い神社にでも詣でようか、それとも水辺で涼をとろうか。どこへ行くにしろ……今日は三回目の逢瀬なのだ。
 彼女の細く白い手を、今日こそは握るのだ!
 ……もし、もし彼女が嫌がったらどうしよう。驚いてしまうかもしれない。怒るかもしれない……いや、怒るぐらいなら、三度も会ってはくれないだろう。
 大丈夫だ、きっと彼女は怒らない。……少しは驚かせてしまうかもしれないが。
 彼女の華奢な手を思い、信介ははやる気持ちを押さえて、待ち合わせの場所へと急いでいた。


 約束の橋のたもとに、彼女は立っていた。
 女らしい曲線を持ちながら、すらりときれいな立ち姿に信介の胸は躍る。
「ユキさん!」
 思わず駆け足になって近寄れば、
「信介様」
 彼女は愛らしい笑みを浮かべて振り返った。


 同じ城の中で見かけて、どうしても忘れられなかった。城の台所を手伝う端女(はしため)と知って、たびたび台所をのぞくようになった。意図に気づかれて古参の女中に笑われるようになってから、ようやく口をきく機会がもてた。
 だからこうして町中を、肩を並べて歩くだけでも信介の心ははずむ。
「きょ、今日は天神様に、お、お参りでもしようかと思います」
「はい」
「で、でもその前に、あ、甘味などいかがです。その……白玉がうまいと評判の店があるらしいのです」
 信介の言葉にユキはにこりとほほ笑む。
「甘いものは大好きです」
「あ。お好きですか、甘いもの」
「ええ、好きです」
「そうですか! いやあ奇遇ですねえ、私も甘いものには目がなくて……」
 どうしても緊張が取り切れないけれど、なにやらふわふわして取り留めのない会話を続けながら、人込みの中を行っている時だった。
 後ろから。
「ユキ!」
 力のある響きのよい声が、信介の連れを呼んだ。


 旅装の少年だった。信介がはっとするほど、その容貌は整っている。
 華やかにけばだつ美しさではないが、端正に整った目鼻立ちにどことない甘さがあって、女性に片恋している信介でさえドキリとくる。きりっと目尻の上がった瞳が、見る者にさらにその少年を強く印象づける。
 その。旅役者かと思われるような顔立ちの、年の頃はユキと変わらぬほどと見えるその少年は、人懐こい笑みを浮かべて片手を上げた。
「よー元気か」
「ちょっとなによ、アンタ、こんなとこでなにやってんの!」
 思いもかけぬ相手に会った驚きからか、ユキが大声を上げた。すぐと恥ずかしげに口元を押さえて続く言葉を飲む仕草をしたが、十分に親しい相手であるのはその短い言葉から、信介にも知れた。
「近くまで用事で来てさー。ついでに……」
 少年がちらりと信介の顔に視線を投げた。
「ついでに姉貴の顔でも見てこうかと思ってさ。どう、城勤め、慣れた」
「……ほっといてよ、わたしはアンタと違ってしっかりしてますからね、大丈夫に決まってるでしょ」
「ならいいけどさ。……なに、今、デート中?」
 信介とユキを等分に見比べながらその少年に聞かれて。
 なぜだか強く、信介は「そうだ」と胸を張った。
「そっか。じゃあお邪魔虫は早いとこ消えねえとな」
 少年はそう言うと、ぴっと背筋を伸ばして信介に向かい、
「ども、お邪魔しました! 姉貴、よろしくっす」
 と頭を下げ、
「んじゃな、ユキ。……も少し、色の明るいもの着ろよ、老けてみえるぞ」
 遠慮のない口をきいて、あっさり去って行こうとした。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
 慌てたらしいユキは呼び止めてから、ちょっとバツが悪そうに信介を見上げた。
「あの……ごめんなさい、信介さま。すこし、あの、弟と話を……」
「ああ、いいですよ、私はここで待っています」
 顔が引きつるのを覚えながら、信介は答えた。


 人の流れから外れた道の端に、ユキは少年を引っ張って行った。
 何事か話している……そのうちに、つっとユキの手が少年の頬に向かって伸びた。
 信介が憧れた細く白い手が、心配気に少年の顔に添えられている。
 信介は朝からのわくわくと楽しい気分が一瞬で冷えて行くのを感じていた……。


「いいのかよー、彼氏だろー?」
 悄然と肩を落として去っていく信介の後ろ姿。
「よさげな人じゃん。顔もそこそこいいしさ。ちょーっと頼りなげなのがイマイチ?」
 しらしらとそう言う口調が憎たらしくて、ユキは思い切りきり丸の背中を叩いた。
「悪いと思うなら突然現れないでよ!」
 わり、とまた首をすくめて見せるのは常と変わらないけれど。
 そう。常と変わらず見せているその下で。今日のきり丸は、なんだか困った犬のような風情がある。耳を横に倒して、尻尾を下のほうでぱたぱたやって、気弱く飼い主にあまえかかろうとしているような、そんな風情。
 ――男がこういう寂しげな、自信なげな風をする時は。
 ユキはさりげなく町外れに誘い出そうとするきり丸にため息をつきながら、思う。
 ――こういう時の男は、女にあまえたがってる。
「学園も今日は休みの日?」
「夏休み前で、もう授業が半日ずつになってんだ。きのうの授業が終わってから出てきた」
 ――そんなふうに、ちょっと無理して男が都合をつける時は……。
「……なあ」
 町を抜け、人の目が少なくなったとたんに、きり丸が腕を回して来た。
「なによ」
「……ユキ、冷たい」
 道を外れて夏草の茂る河原のほうへ降りて行きたがるきり丸を、再三かわす。
 ――わかってる。慰めてもらいたいのだ。話を聞いてもらうのでもなく、優しく味方の言葉を聞かせてもらうのでもなく、男はただ、女の身体に慰めてもらいたいのだ。女の潤んだそこに自身を埋没させて、受け止めてもらいたいのだ。女が自分を本当にはどう思っていようと、その時の男には関係ない。ただソコを……女の柔肉に包んでもらえれば……男は自分のすべてを受け入れてもらえたような気になれるのだ。
「なあ……!」
 ついに業を煮やしたらしいきり丸に、少しばかり強引に、草むらへ連れ込まれた。


 足元の危うい土手の中腹で簡単に押し倒された。
 こういう時のきり丸は、さすがというか何というか、素早く無駄なく動く。強引と言えば強引なのだが、間合いが悪くなる前にさっと距離を縮める技を、もう少し世の男も学べばいいのに、ともユキは思わないでもない。
 ……身体の脇で、汗ばんだ指を握ったり伸ばしたりしていた信介の顔が浮かぶ。……手を握る機会をうかがっているとは知れるけれど。迷う前に、大きな手ですっと握りこんでくれればいいのだ。手を触れるくらいでわたしが怒るとでも思っているのだろうか。必要とあれば誰にでも身体を開ける。開いて来た。そんな自分に、なにを遠慮してくれているのだろう……。身体を張って生きているくのいちだなどと、彼は知らない。彼にとっては自分は普通の娘と変わらない……要求されれば口の中で男を果てさせることまでする女だと、彼は知らない、思いもしない。……彼の前では……普通の娘でいられる……。
「ユキ……なにかあった」
「え」
 間近で見下ろしてくるきり丸の黒い瞳に、胸がどきりとした。
「なんか沈んでね?」
 ユキは小さくため息をついて、きり丸のおでこを小突いた。
「沈んでるのはアンタのほうでしょ。どうしたのよ、急に」
「……うん……」
 春に会った時もなんだかイラついていたきり丸だ。
「どうしたの」
「……うん……乱太郎とさ」
「乱太郎と?」
「……別れちった」
「……あらま」
 きり丸がすりすりとおでこを擦り付けてくる。
「……なんかさ……ユキに会いたくてさ……走ってきちゃったんだけど……顔見るだけのつもりだったんだけど……顔見ちゃったらさ……」
 ハイハイ、とユキは思う。乱太郎と別れて寂しいわけね、と。
「……なあ、ユキ。やらせて?」
 きり丸の唇がうなじに押し当てられた。
「やらせて、ユキ」
 着物の上から手が胸のふくらみを包む。
 ……草むらに連れ込んで。押し倒して。それでも今、自分がいやだと言えばきり丸は身を離していくだろう……無理強いはしないだろう……。いい男じゃんうまくやれよ、などと言うのと同じ口で、やらせてと迫り、それでも、最後の一歩はおまえ次第だよ、と。
 ずるいと思う。
 きり丸、あんた、そういうの、ずるいよ。男のずるさ、全開だよ。本命の恋人とうまくいかないからって、あまえて来ないでよ。焼きもちのひとつも焼いてくれないくせに、こんなに簡単に求めて来ないでよ。……そんな勝手なくせに、最後の最後でこっちの気持ちを大事にするフリなんか、しないでよ。
 ずるい。
 ずるいよ……。
 ユキは胸にきり丸の頭を抱き締めた。


 ふときり丸が顔を上げた。
「のらね?」
 のらない訳じゃなくて、あんたも立派に男のずるさを持ってるんだと思ったら、情けなくなっただけよ。
 なんとなく行為に没頭できないのをそんなふうに指摘されて、言ってやりたくなったけれど。
「乱太郎と、どうして別れたのよ」
 かわりに聞いてみた。
 きり丸はむっと唇をとがらせて。
「……あいつの話はしたくねえ」
「……話もしたくないような別れ方すると、あと引くわよ」
 そう言って返すと、ユキの乳首を指先でつつきながら、きり丸はぼそぼそと答えた。
「……あいつ……いっつもなんか男誘うんだよ。……っていうか……それは言い過ぎかもしれねえけど……ほかの奴に色目使われても、絶対だめって言うふうには態度で示さないんだ。……なんかそういう甘いとこが腹立って……でも、ほんとは……おれ、ちょっと、怖くなって……」
「っあ。……怖いって、なにが怖いのよ?」
 乳房をなぶるきり丸の手に、丸く乳暈をなぞられて瞬間の息を乱されてから、ユキは重ねてたずねた。
「うん……なんてか……あいつ、そういうとこはなんか腹黒いっつうか、男の気ぃ引きやがってって思うんだけど……基本、あいつ、かわいいじゃん? なんかそういう……無防備にあまえてくるとこさ……見てると……こいつ抱えてどうやったら走れるんだろうとか……おれ、こいつのことも守ってってやんなきゃなんないんだろうかとかさ……自分でもよくわかってなかったけど、たぶん、おれ、そういうのが怖くなったんだ」
 豊かなふくらみを本格的に揉みしだきだしたきり丸の手に手を重ねてその動きを押さえながら、
「それ……アン……ちょっと待ってよ。それ、ちゃんと乱太郎は納得したの?」
 ユキは尋ねた。
 きり丸の手が止まった。
「納得。……してねえかも」
「最低」
「乱太郎と同じこと言うなよ。でもあいつ、そんなこと、きっともうどうでもいいんだぜ。今頃あいつは庄左ヱ門と……」
 庄左ヱ門と。切った言葉の先は容易に想像がつく。……だから余計に、わたしが欲しいんだ、ユキはまたひとつ納得する。
 胸に顔を埋めたきり丸に、むちゃくちゃに吸われ甘噛みされて、ユキは悲鳴に似た声を上げた。


 あきらめとは、すこしちがった。
 そうして……ずるい奴と思いながら、寂しいからあまえたいだけだと思いながら、別れた恋人の穴埋めのように使われるのだと思いながら……きり丸が自分を望むのなら、抱かれてやろう、ぬくもりを分けてやろうと思うのは……あきらめとは少し、ちがった。
 慰めてあげるわよ、とユキは思う。
 今日は、わたしが慰めてあげる、と。
 それでも乗り切らぬなにかを感じたのか、それともそうして乱太郎の名が出たあとに体をつなげようとする行為に引け目を感じるのか……きり丸は、またふと顔を上げ、言った。
「イヤならさ、さっきの奴のことでも考えてくれてていいから……」
 その言葉に。
「ばかっ!」
 ユキはこぶしできり丸を殴りつけた。


「ばか! ばかばか!」
 自分の上のきり丸を、しゃにむに叩いた。
「ばかっ! あんたなんか、あんたなんか! あっち行ってよ! もう知らない!」
 自分たちは。
 恋人同士ではない。
 だから。ほかに付き合ってる人の話が出ることもあるし、こうして、恋の悩みをもらすこともあるのだ。
 でも。
 だからと言って、自分たちは肉体関係のある友人、というわけでもない。
 ……いや。きり丸の今の一言はそういうことなのかもしれないけれど。
 ちがうはずだ。そうじゃない。
 ユキは熱いものが目からあふれ出すのを感じる。
 ――必要とあれば。誰にも抱かれる。身体は道具と同じだから。刀を振るうように、女の身体を使うだけ……。わかっていても、それは時に心を荒ませる。道具として身体を使うとき、相手にとっても、自分は快楽の道具になり果てる。
 それが、やりきれなくなることがあるから。
 その気持ちがわかるから。
 自分たちは、道具じゃないふたりの人間になって、睦み合うのだ。
 ちゃんとユキときり丸という、二人の人間になって、睦み合うのだ。
 誰でもいいなら、わたしのところへ来ないでよ。
 わたしにとってあんたがあんたでなくていいなら……こんなふうにあまえてこないでよ。
 わあっ。ユキは泣き声をあげて泣き出した。
 目をすがめてただユキに叩かれていたきり丸が、ごめん、と呟いた。
 ごめん、ユキ。ごめん。
 裸のまま、ユキはきり丸の胸に抱え込まれて泣きじゃくった。


 ああ、もう一度ぶってやりたい、と思うのはこういうとき。
「ごめん、ユキ……」
 繰り返していたきり丸が、
「おれ、ユキに甘えてた」
 と殊勝に言うところまでは誉めてもいいが。
「謝るから……やってもい?」
 そうして股間に忍び入る手。
 もう一度ぶってやりたい。
 でも泣きじゃくったあとの身体に力は入らず、秘所に忍び入った手の、愛撫は優しい……。


 信介とは駄目になった。
 弟だという嘘は確かに無理があったかもしれない。
『ユキ!』呼び止めるきり丸の声が耳に甦る。
 信介は……きり丸の鮮やかさに呑まれたのかもしれないと、ユキは思った。


 夏休みが明けた頃、学園を訪ねた。
 一カ月と半ぶりに会うきり丸は……満身創痍でユキを驚かせた。
「なにバカやってんのよ!」
 叫んだユキにきり丸はぷいと横を向く。
「っかたねえだろ。利吉さん、人使い荒ぇんだから」
 嘘は嘘とすぐわかる。
 問い詰めて、内定を取り消されたことも、乱太郎が二学期が始まってからも学園に出て来ないことも、きり丸に白状させた。
「……あんたたち……なにやってんのよ。二人してぼろぼろじゃないの」
 思わずもらすと、きり丸は虚勢を張った。
「別におれはぼろぼろなんかじゃねえ」
 腕を吊り、びっこをひき、それがぼろぼろでなければなんだと言うのだ。
「……乱太郎と、ちゃんと話し合いなさい」
 ユキはきり丸に命じた。
「ちゃんと二人で話し合いなさい。いい? わかった?」
 話し合って……乱太郎に、ちゃんとそばにいてもらいなさい。あんたは、あたしじゃダメなんだから……あたしじゃダメなんだから……。
「……なにも話せることはねえような気もすんだけど」
「あら」
 ユキはつんとあごをそびやかしてきり丸を流し見た。
「その傷、全部さらしてお前のせいだって言ってみなさいよ。木石でもあんたに抱き着いてくるわよ」
 うまくいってよ。
 ユキは心の中で続ける。
 あんたのせいで……せっかく可愛い女の子扱いしてくれる人とダメになっちゃったんですからね。


 ユキ自身にも聞こえない深い深い奥で。呟きは別の言葉を紡ぐ。
 うまくいってよ。
 あんたが痛いのを見てるのは、つらいんだから……と。
 その呟きは、まだユキ自身にも聞こえない……。


                                              了
 

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