予兆 〜日々の中〜

 

 西へ五十里ほども下ったところ、半年の余にわたる仕込があると、声をかけられた。
 乱太郎に泣かれたのは、その仕事を決めて来た、その夜のことだった。



 新しい仕事の話を聞かせるうちに、だんだんに顔をこわばらせていた乱太郎は、ついにきり丸から目を逸らし、うつむいてしまった。
「だから……」
 それまで、新しい仕事にどれほどやりがいがあり、見事そのヤマを乗り切った暁にはどれほど大きな報酬と功名とを手に入れることができるのかなどということを、いさんで語っていたきり丸は、ついに勢いを失って言葉をつなぐことができなくなった。
 さきほどから相槌ひとつ、打ってくれなくなっていた乱太郎は、先をうながしてくれることもない。
「だから……」
 すごいだろう、とも、おれがんばるぜ、とも、言ったところで言葉は宙に浮いてしまいそうで、きり丸は恨みがましく乱太郎を見やる。
 あやうく、「なんだよ、なにをスネてるんだよ」と責めそうになったところで。



「……ずいぶんと遠いんだね」
 乱太郎が湿った声で呟いた。
「遠いけど」
 きり丸は言い訳がましく返す。
「……ずいぶんと長いし」
「長いけど」



 また落ちた沈黙を。
 きり丸は「でもすごい仕事なんだぜ」と。
 乱太郎は「なんで一言の相談もなく」と。
 同時に破った。



「だって、おまえ……話聞いてさ、ちょっと人と相談して明日返事します、なんて、んなマネできるわけねーじゃん!」
「なんでできないのさ!」
 乱太郎の眼鏡が、燭台の灯を受けて光る。
「一緒に暮らそうって言ったのはきり丸のほうじゃないか!」
 きり丸はかすかに眉根が寄るのを抑えられない。
「それとこれとどういう関係があんだよ」
「どういうって……」
 鼻白んだように言葉に詰まった乱太郎に、きり丸はたたみかける。
「なにもさあ、そんな構えることないじゃん。すごい仕事なんだしさ。黙って決めてきちまったのは悪かったけど、うん、悪かったよ。でもさ、な? おまえも来てくれるだろ?」



 ゆるゆると、乱太郎はまた、うつむいてしまう。



「……なぁ」
 焦れて伸ばしたきり丸の指先は、乱太郎の手に払われた。
 怒鳴ろうか、それとも、と瞬間迷ってから、
「……悪かったよ、勝手に決めてきちまって」
 きり丸は決まり悪く謝罪の言葉を口にする。
 だが乱太郎は、顔を上げようとはしないのだ。
「ウソつき……全然、悪いなんて思ってないくせに……」
 きり丸は唇をとがらせる。
「ウソじゃねえよ……」
「じゃあ」
 ようやく顔を上げた乱太郎がきり丸を見つめる。
「わたし、行かなくていいね? きり丸、一人で行くね?」
「なんでそうなるんだよっ! おれはおまえと……!」
「きり丸はいっつもそうだ!」
 きり丸の声をさえぎって、乱太郎の高い声が響いた。
「おまえが好きだ、一緒にいよう、そう言いながら、きり丸はいっつも好き勝手やってばっかなんだ!」



 乱太郎の、色素の薄い、陽が差し込めば薄茶になる瞳が、今はきつい非難を込めてきり丸をにらむ。
 ……なんなんだよ、突然。
 きり丸は釈然としない。
 今まで、そうだ、忍術学園にいた頃から。俺は自分の仕事は自分で決めてきた。どのタイミングでどのバイトをいれるか、どういう選択が一番効率がよいのか、俺は自分で決めてきた。
 その自分の決断力には自信があったし、今までその決定に乱太郎にイヤをとなえられた覚えもない。
 ……それが、なんだよ、突然。



「きり丸は……いっつもそうだ」
 乱太郎の、きつい瞳の色は変わらない。
「学費稼ぎのバイトの時もそうだった。今も、きり丸は全然変わってないじゃない。全部、ぜんぶ、自分ひとりで、自分勝手で……」
「……文句あったんなら、言えばいいじゃねえか……」
 きり丸の反論に、乱太郎はまるで殴られでもしたように、顔をゆがめた。




「……そういうこと……平気で言えちゃうんだ……」
 乱太郎の目がうっすらと赤く染まりだす。
 あ。
 もうすぐ、泣くかな。
 きり丸は思う。
「バイトと……一緒にこうやって暮らしだしてからの仕事と……ちがうじゃない、ちがうでしょう? バイトのことだって……きり丸にその気があるなら……相談してくれてたと思う」
 その気ってなんだよ、ときり丸は思う。
 貧乏とは縁が切れなかったにせよ。両親が揃って耕した田畑から得られる銭で、乱太郎は学園に通っていた。そんな……後ろにちゃんと、受け止めてくれる手があるヤツに、ビタ銭一枚の重さがわかるのか? 「あー売れ残っちゃったね〜」気軽く言えてしまう立場のヤツに、なんで、小銭一枚に目の色の変えなきゃならない立場の俺が、相談なんか出来るんだよ……。それは「気がある」とか「ない」とかとは別の、ぎりぎり現実的で冷静な判断のいるところだろう? だから俺は自分で……
「きり丸はいっつもそうなんだ……!」
 ますます赤みの増したうるんだ瞳で、乱太郎はきり丸を見上げる。
「バイトの頃も、今も! ぜんぶ、自分で決める! いっつもそうだ、今までもそうだ! いっつも、いっつも、きり丸にはわたしより大事なものがあるんだっ! 小銭だったり土井先生だったり!」
 ついに。
 ぽろりと乱太郎の瞳から涙が零れ落ちる。
 あ。
 泣いた。
 きり丸は思う。



 これがもしも。
 出会って同棲しだして数ヶ月のことなら。
 なじられて泣かれたら。
 ずいぶんあわてちゃうだろうなあ、ときり丸は乱太郎の涙を見ながら思う。
 でも。
 十の年に出会ってから、もう十年近く。
 友として恋人として。
 付き合ってきた。
 泣くのも、怒るのも、笑うのも。
 ずっと見てきた、一緒だった。
 ああ、泣いたなあ、とは思うのだ。
 でも……これはなんだろう、きり丸は自問する。
 慣れ? そうとしかいえない気がした。
 乱太郎が泣いて怒っている。これが本当に付き合いの浅いヤツ相手なら、ずいぶんと慌ててしまう状況だと思いながら。
 なのに、あーあ、としか、思っていない自分。
 こういうのを、「慣れ」って言っちゃうんだろうなあと、きり丸は思うのだ……



 手を伸ばした。
 手を握った。
「……小銭はそん時の俺に必要なものだったからじゃん。……土井先生だって……俺が子どもだったからじゃん。……そんなの……おまえの大きさや大事さに比べたら……ぜんぜん、意味ねえじゃん」
 ちがうんだというように、乱太郎の首がふるふると横に振れる。
「ちがわねえよ。……なあ。俺にはおまえだけだって。悪かったよ、勝手に仕事決めてきちまって。いい仕事だったからさ、おまえも喜んでくれると思ったんだよ。……なあ。小銭や土井先生なんて関係ないじゃん。次からはきちんとおまえに聞くよ、な?」
 な、乱太郎……ささやきながら、きり丸は握る手に力を込めて、乱太郎を引き寄せる。
 肩を抱き、そのふわふわ猫っ毛に鼻先を埋める。
 な? もうそんな、怒るなよ……おまえ、そんなついて来るのがイヤならさ……今度の仕事断るよ……俺にはおまえだけなんだから……
 耳の後ろに吐息を落とし、きり丸はささやいた。



 乱太郎の躯がぞくりと震える。
「……仕事を……断ってほしくて、こんなこと言ってるんじゃないよ……」
 切れ切れな、それでもしっかりした声が、腕の中からこぼれる。
「わたしは……わたしは……きり丸に……」
 戸惑うように、乱太郎の声が立ち消えた。
 きり丸に……その先を表す言葉を、乱太郎自身が選びかねたように。
「うん、うん……」
 きり丸は、乱太郎の言葉にうなずきながら、両腕の中に乱太郎を抱え込む。
「ごめん。俺が悪かった」
 ちがうんだと言うように、乱太郎の頭がかすかに振れたが……その唇をきり丸のそれに捕らえられて……振れはそれ以上続かなかった。



 ―――きり丸はいっつも好き勝手やってばっかなんだ。
 ―――いっつも、きり丸にはわたしより大事なものがあるんだ。



 乱太郎の言葉が、乱太郎の襟元をくつろげるきり丸の耳奥にかすかにこだまする。
 ちらりと、乱太郎はほんとになにが気に入らなかったんだろうなと、思った。
 思ったが。
 熱を持ち出した肌は心地よくて。
 とりあえず、乱太郎の涙を止める、いつもの方法が功を奏したことに満足して。
 きり丸は乱太郎の胸に顔を伏せた。



 桜色の、まだやわらかい乳首に歯を立てたら、乱太郎があまい声を立てた。


 

ずいぶんとまとまりのないものになってしまったかもしれません。とらえどころがないっつーか。
どーしても。きり丸と乱ちゃんがすれ違っちゃってるところを書きたくて。
きり丸といて乱太郎が本当に幸せかっていうのは、 なんかね……けっこう重い命題なのですわ……うちの答えのひとつです、でも、まだ解の途中。ファイナルアンサーではありません(笑)

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