薫紫亭別館


ビィトtop



PONPONPON

「よーキッス、メシ持ってきてやったぜー」
 八本ある手足のひとつにトレイを持って、がちゃりとベンチュラがドアを開けた。
 ベッドに身を起こして、キッスは礼を言った。
「ありがと、ベンチュラ」
 トレイごと膝の上に乗せてベッドの上で、キッスはベンチュラの持って来てくれた食事を摂った。
 これは虫ではなく、ちゃんとした人間用の料理だ。
 パンと適当に切った野菜、果物とスープだけの簡単なものだが、半月以上、監禁生活を送っていたキッスには何よりのごちそうだった。よく覚えていないが、正気を手放してからはどろどろした得体の知れない物を無理やり流し込まれていたような気がする。
 解放されてからは、いつも用意して貰っている魔人用の食事が受け付けられなくなっていた。
 胃が弱っていた事もあるのだろうし、普段は嫌悪感を理性で覆い隠して呑み込んでいたものが、余りの体調不良に対面を保つ余裕がなくなったのもある。水しか飲めないでいた所に、ベンチュラが差し入れてくれたスープは救いの神だった。キッスはこれで命を繋いだ、と言っていい。
 今ではなんとか、固形物……そのスープに浸したパンや、擦り下ろした果物が摂れるようになっている。
 スープを口に運びながら、ふと疑問が湧いた。今まで気付かなかったのが不思議なくらいだ。
「ところで……、このスープ、どうしたの?」
 持って来てくれるのは嬉しいんだけど、とキッスは続けた。ベンチュラに料理が出来る筈がない。出来ても丸焼きとか茹でるだけとか、そんな大雑把な調理法しか出来ない筈だ。しかも材料は虫。
 この、多分、牛骨やら野菜やらを煮込んで丁寧にアクを取って塩胡椒で味を調えたと思しき透明なスープは、どう見てもプロの技。そこまで一流ではなくとも、店で出せるレベルなのは間違いない。
 果たしてベンチュラは、
「ああ。近くの村の食堂を襲って、寸胴ごと盗んできた。余った分はロズゴートに頼んで、氷の瞑撃で凍らせて貰ってる。アイツ、あーいうの得意だからさー」
 あっけらかんと答えた。まるで罪悪感がない。
「オメーが食えそうなモンも貰ってきたが、オメーまだスープしか飲めなかったし、その頃のパンは腐っちまったなー。最近ようやくマシになってきたみたいで嬉しいぜ。良かったな」
 どうもベンチュラは、キッスの為に何度かその店に盗みに入っているらしい。
「はは……」
 苦笑いを浮かべながら、キッスは胸を撫で下ろした。
 それならまだフォロー出来る。もし料理人を攫いでもしていたら、自分が元気になった途端に用済みだろうし、盗まれたのは痛手だろうが、殺される程じゃない。
 キッスは自分が所有している宝石の幾つかを、その店に置いてきてくれるようベンチュラに頼んだ。
 最初も最初、フィカス博士を放逐する理由になったクラッスラ遺跡の財宝だ。
 キッスが発見したという事で、褒美としてグリニデはその中から好きに取っていいと言った。換金と持ち運びがしやすそうな小物を中心に選び、大物を残すと、何を勘違いしたのか欲が無いな、と言われた。褒められた……のだろうか? 機嫌良さげに目を細めたグリニデの表情を思い出す。
 う。嫌なものを思い出してしまった。キッスは顔を顰めた。
 ベンチュラは敏感にキッスの機微を察したらしい。
「あ、えーと、キッス……言いにくいんだけどよ……」
 ばりぼりと頭を掻いて、キッスの方を見ないようにベンチュラは明後日の方向を向きながら、
「あんま、グリニデ様のこと怒らないでやってくれよ。そりやオメーには大迷惑だし悲劇とはわかってるけどよ、あれで本当に悪気はなかったんだよ、グリニデ様も。オメーをこの部屋に戻した後、マジでヘコんでたし。実は、俺に人間の食いモンを調達してこいって命令したのもグリニデ様だし。……心配してたぜ。オメー、ガリッガリに激ヤセしてるし、メシは食わねえし」
「………」
 そうなる前にやめろ、と思うのはキッスの我儘だろうか。
 むすっと頬をふくらませると、慌てたようにベンチュラが弁解した。
「ま、まあ、許せなくても仕方ないよな! こう言っちゃ何だが、グリニデ様もちょっと自業自得? な部分もあるし。まあ、ちょっとやり過ぎちまったみたいだけどよ……でも、オメーが気に入られてんのは確かだぜ。オメーもそれはわかってンだろ?」
「うん……」
 わかっている。まだ生きていられること事態が、その証拠だ。
 かといって、そう感謝する気にもなれない。ひと思いに殺してくれた方が楽なのに、というシチュエーションが多過ぎる。今回もそうだ。
「とりあえず、オメーの体調が戻るまでグリニデ様は顔を出さないらしいから、安心しな。何か他に欲しいものあるか? ついでに取ってきてやるぞ」
「あ。それなら」
 遠慮なくキッスはねだった。
 ベンチュラの手を煩わせるのは申し訳ないが、スープ代と多少の食糧だけでは、あの宝石は高価過ぎる。
 迷惑ついでだ。もう少しだけ、見逃して貰おう。


「言われた通り、洗い浚い持ってきたけど、どーすんだこんなの?」
 ベンチュラが聞いた。
 目の前にはガラス瓶が山と積まれている。ここはキッスの研究室……の続きにある、以前の台所だ。
 フィカス博士達がいた頃は、ここでキッスが食事をつくっていた。
 グリニデの部下になってからは食事が出るのでここを使う事もなくなっていたが、久し振りに入ってみてその埃っぽさに驚く。キッスは蟻を総動員して掃除して貰いながら、
「あ、うん。パンとかは腐っちゃったみたいだけど、まだ無事な食材もあるようだから、なんとかならないかと思って」
 まだ少しふらつく。キッスは素朴な丸い木製のスツールに座って、床に直置きされている食料を調べた。
 ……自分が食べられそうなものって。
 生のジャガイモやらニンジンやらが丸ごとトレイに載っていた時は驚いたものだが、別に嫌がらせのつもりはなく、ただ単に人間向けの食事がわからなかっただけらしい。
 寸胴ごとスープを盗って来れるくらいだし、ベンチュラは自分がここでシチューをつくっているのを見た事もある筈なのに、何故……!? と思わないでもないが、一応パンもあったし、果物なら調理せずとも食べられたので気にしない事にした。種族の壁は高いのだ。
 改めて調べる。
 葉もの野菜はでろんでろんになっている物も多かったが、根菜類はまだイケた。
 どうあっても無理そうなものは、やはり蟻に頼んで外に運んでもらった。きっと微生物達が綺麗に分解してくれるだろう。ジャガイモは茹でて潰してマッシュポテトにする事にして、キッスは他の野菜を片っ端からピクルスにする事にした。
 洗いまくって皮を剥いて酢水と塩とスパイスで漬けこむ。途中までは順調だった、のだが。
「キッスー。もう酢が無いぞ」
 ベンチュラが間延びした声で言った。
 しまった。自分とした事が。容器の不足は予想していたのに、肝心要の酢を忘れるとは。
 ……やはりまだ本調子ではないらしい。キッスは気を取り直して、
「ごめん、ベンチュラ。もう一回お願いしていい?」
 なるたけ邪気の無さげな笑みを浮かべて、キッスはベンチュラにご足労願った。
 この際だから他のスパイスやら塩やら小麦粉やらも頼んでおいた。腐らない食料は貴重だ。ついでに油も。ベンチュラはぶつくさ言いながらも出掛けてくれた。後で何かお礼をしなきゃな。
 ふんふん、と鼻歌を歌いながらキッスは作業を続けた。
 背後で音がした。キッスは振り返った。
「もう帰ってきたの? 随分早かったね、ベン、チュラ……」
 キッスの表情が凍った。そこにいたのはベンチュラではなかった。
「閣下……、何故、ここに……」
「君の行動は全て私に報告されている。監視がついているのを忘れたのかね、キッス君?」
 忘れる訳がない。
 ただ、こんなに早く現れるとは思っていなかった。ベンチュラの話では、自分の体調が戻るまで顔を見せない筈だったのに。それは今、自分は台所に立っているが、完治とは程遠い状態だ。
「あ……!」
 右手を掴まれて、捩じり上げられる。もう片方の手で、襟から胸元まではだけられた。
「待ってください閣下、僕はまだ……!」
「何もしない。いいから大人しくしていたまえ」
 グリニデはキッスの浮き出た肋骨を数えるようにゆっくりと肌をなぞった。それだけで乳首が勃った。
 先日の、ここだけでイケるよう強要された弊害だ。恥ずかしい。キッスは目を伏せた。
 宣言通り、グリニデはそれ以上何もしなかった。
 薄いな……、とつぶやくのが聞こえた。
「早く元の体型に戻したまえ。その為なら、ベンチュラ君や他の魔物を幾ら使っても構わない」
 言い置いて、グリニデは来た時と同じく唐突に去っていった。
 キッスはその場にへたり込みながら見送った。
 多分……、
 あの胸に、腕に、何の疑問もなく飛び込んでゆけたら、自分はもっと楽になれるのだろう。
 実際にそうした。狂気に陥った自分。だがグリニデが引き戻した。
「………」
 あくまでこのままで、グリニデを受け入れろと言うのか。無理な相談だ。自分が何をやったかわかっているのか。そこまで追い詰めた相手に、どこまで要求するつもりだ。見当違いも甚だしい。
 とにかく、キッスはベンチュラが戻ってくる前に、火照る体をなんとか鎮めようと努力した。
 グリニデの事は、今は考えたくなかった。


<  終  >

>>>2011/9/2up


ビィトtop

Copyright (C) Otokawa Ruriko All Right Reserved.