鏡の国の勇者
――あれ?
ダイは白い霧の中を歩いていた。
城を出た時はこうではなかった。と、思う。普通に朝食を摂って、行ってきまーすと帝王教育もそこそこに、お気楽に魔道士の塔に遊びに出掛けた。塔は城の敷地の端っこにあるので、散歩コースに丁度いい。
幾分あたたかくなってきた春の日差しを浴びながら、ダイは鼻歌まじりにご機嫌で歩いていた。
急に白い霧が出てきた。通い慣れた道だ。少々視界が悪くても迷う事はない。
構わずダイがどんどん進んで行くと、さあっと目の前がひらけた。
振り返ると、白い霧は何処にもなかった。
変なの。
ダイは僅かに首を傾げたが、この辺りはもう魔道士の塔の近くなので、そういう事もあるのだろうと頭で補完した。なんといっても当代随一、もしかしたら歴代でも屈指の魔法力を持つ大魔道士が君臨する塔だ。中には彼に憧れてやってきた学生、押しかけ弟子がみっちり詰まっている。
そんな建物が側にあれば、気象が少し変わった所で驚く事はない。
もっともダイも、大概マイペースに出来ている。
奇矯を絵に描いたような友人を持っているせいで掻き乱されがちだが、本来は非常に安定した、落ち着いた性格をしているのだ。ダイは。いや、アレと普通に付き合っている時点で、ダイもかなり変わっている、と言えるかもしれない。
塔が見えてきた。入口の前で大鍋を掻き回して腕を奮っているポップがいる。
……なんだか嗅いだ事もない匂いがする。悪臭ではないが。一体今朝は何をつくっているのやら。
「おー。手伝え、ダイ」
「いいよ。ところで、これ、何?」
小走りに近付いてダイは鍋の中を覗きこんだ。中は得体の知れない茶色い液体で満たされている。
所々、浮いている人参や大根やゴボウらしき野菜は見てとれたが、あの白っぽいものは何だろう。ヨーグルトにしては溶けていない。ミルクプリンだろうか?
「トーフだよ。昨日、仕込み手伝ったろ。もう忘れたのか?」
「そうだったっけ?」
ダイは眉根を寄せた。
「そうだよ! ダイズっつー原料の豆を潰して煮込んで、絞って固めて型に嵌めたじゃねえか。んで、コレが出来上がったものを切った物。味は……よくわかんないけど、こういうモンらしいぞ。食べてみ?」
ポップは特大おたまに液体ごとトーフを掬ってくれた。
これはスープなのだろうか。野菜が入っている所からして食べられるものではあるのだろうが、余りにも見た事のない料理なのでちょっと怖い。
それにダイの記憶では、昨日はアズキなる豆を水に漬けて、ライスを炊いて、叩いて水を差して白い弾力性のある物体に変え、それをちいさく手で丸める作業だった筈だ。ダイは躊躇した。
「ほれ、あーん」
ぴき、とダイは固まった。なんだかポップが優しい。別人のようだ。
だが別人ではない事はダイの本能が太鼓判を押している。ダイはおずおずと、差し付けられたおたまに口をつけ、中身をすすろうとした。途端、後ろから飛び蹴りを喰らってダイは数メートルもふっ飛んだ。
「だ……誰だ!?」
受け身をとって振り返りざまダイは叫んだ。
「お前こそ誰だ! オレと同じ顔なんかして、このニセモノ!!」
そこにいたのはダイとそっくりな顔をした、髪型から頬の傷から服装まで完全に一致した、どう見ても自分にしか見えないもう一人のダイだった。
「へ?」
きょろきょろと、ポップが二人のダイを見やる。
「に……ニセモノはそっちだろ! わかった、誰かオレに化けてるんだろ。塔の学生なら、今なら見逃してあげるから、その悪趣味な変身呪文解いてよ」
「モ、モシャスを使ってるのはお前だろ! 自分がやってるからって、オレに言いがかりつけんなよ!!」
「そっちこそ!」
「黙れよ、馬ー鹿!」
ダイらしくない罵倒語が飛び出すが、残念ながら絶望的にボキャブラリーが少ない。
必然的に肉弾戦になる。二人のダイは、睨みあい、ぶつかって殴りあった。
肉体的には常人のポップには、その動きは素早過ぎて見えない。はて、どうしたもんかと腕を組んで見物していると、逆方向からわらわらと塔の学生達が戻ってきた。
「マスター……疲れましたー……水うぅ」
「今朝はミソスープ、でしたよね。うまくつくれました?」
へろへろになっているのから割合平気そうなのまで様々だが、学生達は春とはいえまだ肌寒い気候の中、薄着で汗びっしょりになっている。早朝ジョギングの結果だ。
早朝ジョギングはこの冬から塔に取り入れられたカリキュラムのひとつだ。
新年にカールに派遣されていた塔のナンバー・2、エドモスが、帰省した塔の余りのたるみっぷりに喝を入れる為に提案したもので、マスターは免除、と言われたポップがあっさりOKを出した。ポップは自分に害の及ばない事なら寛大だ。
魔法は体力! 塔の唯一の体育会系、エドモスの持論らしい。
「ところであれ、勇者様……ですよね? 何だか二人いらっしゃるように見えるんですが」
コップに注がれたミソスープを受け取りながら、学生が尋ねる。
ジョギングを免除された代わりに、戻ってきた学生達に飲み物を用意するのがポップの役目だ。
「実際に二人いる。目がいいな、お前」
すぐ横で喧嘩があっても学生達は気にしないが、さすがにそろそろ止めた方がいいだろう。
ミソスープに埃が入るじゃないか。
「いい加減にしろ、ダイども」
ばっしゃん、とポップはトーフを入れていた水の残りをダイのかたまりにぶっかけた。
ダイのかたまりはほぐれて二人になった。
「ダイども、じゃないよ!」
「ども、って言わないでよ! ダイはオレだけだよ!」
ダイどもが抗議した。
「ダイども、が嫌ならダイ'Sでいいか? 複数形で」
ポップは何かに気付いたように手を打ち鳴らして、
「ダイ'S、ダイズ。お、トーフの原料と同じだな」
面白そうに言った。
大人しくミソスープを啜っていた学生達がそれを聞き付け、
「勇者様二人でトーフがつくれませんかね」
「変身呪文でダイズにしたらいいんじゃないですか」
「人間を穀物に出来ますかね? 何か特殊な呪文が必要なのでは……」
「ちょっと調べて来ます」
ぱっと学生が一人、身を翻して塔の書庫に入っていった。
勇者をトーフに変えようとする魔道士の塔の面々に、ダイは二人とも心の底から震えあがった。
どちらが本物の勇者様なんですか? と誰かが質問した。
「どっちも本物だ。ただ、オレのダイがどちらか、というと……」
ダイは二人とも目を輝かせた。
「オレのダイ!?」
「もっかい! も一回言って、ポップ!!」
うるさい、とポコポコと一回ずつポップはダイの頭をはたいた。
「……で、どちらがこの世界のダイかというと……昨日、オレを手伝ってトーフを仕込んだのはどっちだ?」
向かって左側のダイが元気良く手を上げた。右側のダイは気まずそうにうつむいた。
「こっち、と。何か目印つけとくか。誰か書くモン持ってないか? ああ、これでいいや」
しゅるん、とポップはいつも巻いているバンダナを解くと、左側のダイの頭に巻き付けた。
左側のダイは見るからにぱあっと笑顔になって、右側はどんよりと落ち込んだ。
ポップは右側のダイの頭に手を置いて慰めた。
「まーそう気にすンなよ。お前のポップに巻いて貰えばいいだろ。お前は昨日、何手伝ったんだ?」
ダイは正直に話した。
ポップはふんふん、と頷いて、
「オシルコ、って奴だな。その白いのはモチだ。お前の世界のオレはオシルコをつくって、オレはミソスープをつくった……と」
ポップは一人で納得している。明らかに説明不足だ。
ダイのみならず、周りからじーっと注がれる視線にさすがのポップも気付いたらしく、
「つまり、ほぼ同じ文章が、ずらーっと何ページにも渡って印字されてると思えばいい」
「………」
ポップは書庫に行って本を持って戻ってきた学生からそれを借りた。
どうでもいいが、あるのか。人間を豆に変える魔法。
本があるという事はそうなんだろう。改めて二人のダイは肝を冷やした。危ない所だった。
「間違い探し、みたいなもんだ」
ポップはパラパラとページを繰りながら、
「エドモスの策略で皆は早朝ジョギング、オレは飲み物係に任命された。ここまでは一緒だな。だが、そこからがちょっと違う。ミソスープとオシルコ、だからまだわかりやすいが、これで同じミソスープをつくって、具に大根じゃなく蕪、くらいの違いなら、オレでもダイを見分けるのが難しかったかもしれない」
どっちも本物だからな、とぱたんとポップは本を閉じた。
「右側の、バンダナを巻いてない方のダイは、隣のページから間違って出張しちゃった、てな感じだろう。ページは通常独立してるから、滅多にそんな事は起こらないんだが……おいダイ、ここ来る時、どっか変な場所通らなかったか?」
変な場所、は通らなかったが変な霧は出た。それもダイは隠さずに言った。
「それだな。春だからな、次元の穴もあくだろうさ。そこで不審に思って踏みとどまれば良かったんだが、ダイだしなあ……」
ポップは苦笑とも微笑ともとれる曖昧な笑みを浮かべた。
仕方ないな、と雄弁に物語るその笑顔に見とれる。
バンダナを巻いたダイが、ぱっとポップとバンダナ無しのダイの間に割って入った。ダイらしくもなく歯を剥きだして、もう一人のダイを威嚇している。ポップがいさめた。
「自分にケンカ売ってどうする。仲良くしろよ」
「ヤダよ! この世界のダイはオレなんだから、ここにいるポップもオレのでしょ。こいつは自分の世界に帰って、そこで自分のポップに甘やかして貰えばいいじゃん。ポップが甘やかす事ないよ!」
お子様丸出しの発言だが、一理ある。
バンダナ有りのダイをポップは引き寄せて、よしよしと頭を撫でてやりながら、
「まあ、そうだな。よっしゃ、お前、帰れ」
無しのダイに言った。ダイは戸惑った。
「えっ、でも……どうやって……」
「大丈夫だ、来れたんだから、帰れるさ。春先は次元が不安定だからな。お前のポップを強く思い浮かべろよ。来る時は余り考えずに道を辿ったからここに着いちゃっただけで、帰る場所は決まっている。さ、行けよ。無理だったら戻ってくれば、塔に泊めてやるからさ」
その言葉に勇気づけられて、ダイはその場を後にした。
胸に自分のポップを思う。そういえばここのポップは、自分のポップよりほんの少し優しくて、大人びていたように思う。ついでにダイも、自分よりちょっとだけ子供で、ワガママだったような……。
いかんいかん。ぶるっとダイは首を振った。自分のポップ。オレの、ポップ。
白い霧がいつしかダイを取り巻いていた。
構わず歩いた。
霧が晴れて、またも魔道士の塔が見えてきた。失敗したのか、とダイは泣きたくなったが、
「遅いぞ、ダイ! もう、ほとんどオシルコ残ってないぞ」
塔の前で、ポップがぷりぷり怒りながらおたまを振り回している。ダイは笑った。
「あはっ」
ジョギングが終わって表に学生がいなくなった塔に走って近付く。
遅刻の罰としてポップはおたまで一発どついてから、一杯だけ残しておいたオシルコをダイに注いでくれた。焼かれた白いモチが、赤紫色のちょっとどろどろしたスープに浮いている。もの凄く甘いけど、美味しい。
「ねえポップ。ミソスープって知ってる?」
ダイは聞いてみた。
「知ってるぞ、今度つくろうと思ってた所だ」
ポップは答えた。そうしてちょっと首を捻って、どっから聞いてきたんだ? その料理、と問うた。
ダイは今回の出来ごとのあらましを話した。
「あったかくなってきたからな。そういう事もあるだろうさ」
さらりと流す、この軽やかさが大好きだ。
どうやらダイが見たのは、ミソスープ、の中でもケンチンジルという種類らしい。
ミソも手づくり出来るらしいが、熟成に数ヶ月かかるらしいから取り寄せじゃないか、ともポップは言った。ぬう負けられん、オレはミソからつくるぞー!! とポップは燃えている。
「手伝うよ、ポップ」
ミソもトーフも。
そういえば飲み損ねたミソスープの味を、どんなものかと想像しながら、ダイはお手伝いを約束した。
< 終 >
>>>2011/3/11up