夏の終わりのト短調
「……ポップ……」
ダイが泣きそうな声で言う理由を、ポップはすぐに察した。
ダイの腕には、生後二週間になるならずの仔猫が抱かれていた。
仔猫は、もう息をしていなかった。
「例の、厨房に住みついてたヤツか? ダイ」
「うん……!」
真っ赤な目を見開きながら、ダイはかろうじてうなずいた。
一ヶ月ほども前だったろうか、厨房の裏に、おなかを大きくした親猫が住みついたのは。
ダイはその猫をかわいがった。ポップに聞いて、大きめの小箱を用意してやり、その中にぼろ布を詰めて、覆いまでかけてやった。
本当は自分の部屋で飼いたかったのだが、猫を城に入れることはレオナが賛成しなかったのだ。
「……そうか。やっぱりな」
ポップは涼んでいた木陰から立ち上がった。
夏の終わり、まだまだ残暑の厳しいこの季節は、ポップの体にはかなりこたえるものがあった。
「来い、ダイ。埋めてやろう」
ダイを手招きながら、ポップはゆっくりと歩きだした。
「オレね、猫って初めて見たんだ。初めて……ってわけじゃないかもしれないけど、例えば、旅の途中の行く先々の町で見たりとかね。でも、こんなに間近に見たことはなかった。デルムリン島はモンスターこそ多かったけど、犬とか猫とかはいなかったから」
歩きながら、ダイはぽつぽつと話しはじめた。
ポップは無言で横にならんで歩いていた。
「だから、はじめて猫をさわったときは、びっくりしたんだ。こんなやわらかくてあったかい生きものがいるのかって。オレなんかがうかつにさわると、壊してしまいそうで。それで、仔猫が生まれて……まだ目もあいてなくて、ちょっとしめってて。本当に生きてるのかなっとも思ったけど、にゃあにゃあしっかり鳴いてんだよね。……この仔以外は」
ダイは手の中の動かなくなってしまった仔猫をなでた。
ポップも思い出していた。
パプニカの城の敷地内に、どこからか迷いこんできた親猫。
あせた灰色の毛並みで、げっそり痩せて、おなかだけが大きかった。
気のいい料理長のチェスタトンと、ダイと、見つけたのはどちらが先だったのだろう?
ダイ達が近づくと親猫はフーッとうなり声をあげて威嚇して、ろくにそばに寄ることもできなかったけど、チェスタトンが用意した残りものをそおっと置いて遠くからうかがっているうちに、ダイ達がいてもしげみから出てきてエサを食べるようになった。
ダイが木箱を用意したのはそのあとだ。
親猫はその中で三匹の仔を産んだ。雑種らしく、黒いのから茶トラから三毛猫ととりどりだったけれど、目立って元気がなかったのがこの茶トラだった。
自然の掟は厳しい。自力で乳首に吸いつけない仔猫を、親猫は面倒をみたりしない。
ダイとポップは仕方なくちゃトラの仔猫を親猫からひきはがして、うすめた牛乳を人肌にあっためたものをガーゼにひたし、仔猫にふくませたが、仔猫がミルクを吸っているようすはほとんどなかった。
「どうしよう、ポップ……」
ダイがつぶやいた。そう聞かれても、ポップにもあまりいい手は思いつかなかった。
回復呪文も効かず、せいぜいがミルクをつくり、夏だというのに体温の低い仔猫のために、つねに暖かいよう湯たんぽを入れてやるくらいのことだ。
ポップ自身は、猫を飼うのは初めてではなかった。
まだランカークスにいた頃に、捨て猫をひろったことがある。その猫も茶トラと同じで、体がすっかり弱っていて、いくらも経たないうちに死んでしまった。ちいさな子供のポップはそのことでひどく泣いた。
今はもう、生きものとはそうんなものなのだと知っている。だから今のポップは泣いたりしない。
悲しくないわけではないが、涙は出てこない。それよりも、ポップにはダイの方が気にかかった。
「ダイ……なんだったら」
ポップの言おうとしていることはわかる。ポップは大魔道士──賢者だ。
蘇生呪文を使うことができる。しかしダイは首を横にふった。
「いいんだ。この仔も、きっと、そんなこと望んでないと思う……」
茶トラの仔猫。ダイの手のひらに、すっぽり納まってしまうサイズの仔猫。死んだ仔猫をかわいそうだと思うのは人間の勝手だ。回復も効かない仔猫を生き返らせてどうなるだろう。
「そうだな……」
ポップもそれ以上何も言わず、ふたりは城の敷地の端まで来た。
見回りの兵以外、誰も来ないような場所だ。
だが、ダイとポップにはなじみの場所だった。
はずれだけあって芝生にはけっこう雑草が生えていたし、小石もかなり落ちている。
すぐそこに高い城壁がずっと向こうまで続いている。
ダイは、指先だけでその壁をよじ登ったり、壁の上から下方の街並みを眺めたり、本当に脱走してしまったりした。
夏が来る前は、ポップもダイに同行して、パプニカの城下町で露店をひやかしたりしたものだ。
「ここにしよう」
陽当たりのいい壁のわきでポップは立ち止まった。
午後の光が白茶けた壁に反射してまぶしい。
ダイは仔猫をそっと地面におろして、大きめの石をひろうと隣を堀りはじめた。
「………」
ポップはそっとその場を離れた。
ダイがいては、やりにくいことをするためだ。
敷地の端っこといえど、何も植えられていないわけではない。あちこちに、花をつける種類の木が丹精されていた。そのほとんどは、季節を過ぎ、あるいは待ち、夏の日差しに負けない濃さの緑で枝を茂らせている。
ポップはその木のひと枝を手にとった。
「……叡智と人をへだてる分水嶺を支配せし四大よ、生命の樹を守るケルビムよ、われ、偉大なる地水火風の精霊に請い願うものなり。カハラ・カヘラ・ロキア・トラナス……」
枝から若葉色した新芽が出てきた。いや、新芽ではない。つぼみだ。
うすみどりから白に、白から赤に、見るまに色がついてゆく。
ポップの、おそらく成長を促進させ花を咲かせる呪文が終わったときには、薄紅に色づいた椿の花がひらいていた。
ぽきっ……とちいさく音をさせて、枝を折り取る。
枝はみずから進んでポップに手折られたようにも見えた。
「ダイ……怒らないといいけどな」
ためいきとともに声を吐きだす。最近のダイは、ポップが魔法を使うことを好まない。
まあ当然かもしれないが、今回は、手向けということで、見逃してもらえる自信があった。
「ダイ」
ふりかえったダイは、ポップの持っている冬の花に目を止めたが、何も言わなかった。
穴はもう堀りあがっていた。
いきなりダイは上衣を脱ぎ、穴の底に敷いた。
その上に仔猫を安置する。雑草……積んでも庭師に叱られないような、しかしきれいな葉っぱや可憐な花をつけたものだけを集めて、遺骸が見えなくなるまでそれらで埋めた。
ポップはそれを見届けてから、掘ったあとの土くれをひと握り取り、上にかぶせた。
あとの埋め戻し作業はすべてダイがやった。
「……ありがとう」
ポップがさしだした椿を、ダイは礼を言って受け取った。
墓前に花を供えるのはダイの役目だとポップは思っていた。
ダイの方が熱心に世話をし、可愛がり、だから悲しみも深いだろうと思ったからだった。
「──あのさ、ダイ」
背中に声をかけたのも、そんなダイをなぐさめてやりたかったからだ。
「知ってるか? 神様は、優しい順番に天国に連れてゆくって……」
指を組んで、仔猫のために祈っていたダイが顔をあげた。
ポップは真面目に話を続けた。
「この仔も、きっと優しかったから、神様が連れていっちまったんだろう。今頃は神様の猫になって、幸せに暮らしているよ。母猫やオレ達といるより、ずっと。だから、お前も泣かなくていいんだ」
ふしぎそうな目でダイはポップを見上げた。
ダイは泣いてはいなかったし、ポップがそんなことを言うのも意外だった。
さらに内容にも、今ひとつ納得できないことがあった。
「……それじゃ、神様は、優しい人……生きものから先に殺しちゃうの? なんだか不公平だよ」
ダイはぶうぶう言った。
「ちがう。殺すんじゃなくて、連れてくんだ。お前は地上にいるのはもったいないって、さ」
なだめるように言って、ポップは片目をつぶってみせた。
「誰から聞いたの? その話」
少し気が楽になってダイはたずねた。
ポップのオリジナルとは思えなかった。
「母さん。オレも、子供のころ猫が死んだとき、そう言ってなぐさめられた。あのころはすげえヘ理屈だと思ってたけど、今、考えると案外当たっているかもな……って気がする。善人は早死にするんだよ。憎まれっ子世にはばかる、とも言うしな」
そう言ったとたん、ダイがポップの法衣を握ったる
かすかに、手がふるえているようでもある。ダイが激情を抑えているのだ。
「ど、どうした? ダイ」
いささかめんくらってポップが聞いた。
ダイはうつむいたまま、握った手に更に力をこめて、歯の隙間から押し出すように、言った。
「……ポップ、も?」
「はあ?」
「ポップ、も……連れていかれちゃうの!?」
それでポップは理解した。
ポップの体調は、夏に入ってからよくなかった。
夏の暑さに吸い取られるように、生気が抜けてゆくのがよくわかった。
大戦が終わってから一年、二年……何も変わったことは起きなかったのに、急に、ポップの体だけが弱っていったのだ。
原因はわかっている。師であるマトリフも、大戦が終わると同時に安心したように逝ってしまった。
治療法はない。特効薬も。
ポップは少しずつ走らなくなった。熱気のこもる部屋よりは、涼しい木陰で昼寝したり本を読んだりすることが多くなった。
暗黙の了解で、ポップはレのそ相談役の任を解かれ、みずからが指導していたはずの魔道士の塔からも撤退した。もっとも、指導などとっくにふたりの高弟に押しつけていたが。
「………」
ポップは言いよどんだ。バレてはいたと思うものの、こんなふうに、正面から向かってこられたのは初めてだったのだ。
「ダイ……オレは」
ポップは手をダイのこぶしの上にそっと置いた。
「オレが、そんないいひとに見えるか?」
「全然」
ダイが一言のもとに切って捨てたので、ポップはちょっと傷ついた顔をした。
「それなら、なにを心配してるんだ? オレが今日明日、死ぬとでもいうのか?」
ダイは口をぱくぱくさせた。今日明日でなくとも、一年後、二年後には死んでしまうかもしれないなどということは、絶対に言えなかった。
そんなことは、ポップの方がよくわかっていることなのだ。
ダイはポップを頭から爪先まで眺めやった。
少し服がだぶついている。そのぶん、痩せたということだ。
顔色は白かったが、微熱のせいか目がうるんでいる。どこか、焦点の定まらぬ目つき。
「ポップは……オレが守るよ」
誰からとは、何からとはダイは言わなかった。
あまりにも不敬だとでも思ったのかもしれない。
しかしポップには、ダイのぼかした部分がはっきりと聞こえていた。
(ポップはオレが守るよ。それが神様でも。渡せないから。渡さないから)
お世辞にもポップは性格がいいとはいえなかったが、ポップの優しさを、ダイは肌で感じとっていた。
それは、助からないと知りつつ一緒に仔猫を救う手立てを考えてくれる優しさであり、その仔が死んだとき、黙って手向けの花をさしだしてくれる優しさだ。
見守ること──それが、ポップの愛情であり、優しさなのだ。ダイがどんな馬鹿な真似をしても、それがちいさな生きものに愛情をそそぐという些細なことでも、ポップがいてくれるから、ダイは安心して熱中できるのだ。
結果が、こんなふうに終わっても。
「……そうか。頼んだぞ」
その答えすら、ポップの優しさだったかもしれない。
ポップは透けるように笑った。
ダイよりは早く、おそらくかなり遠くない未来に自分は神のもとに呼ばれるだろうとポップは思う。
みっつダイより年上だとか、関係なく、それはもう自明のことだ。
自分の体のことはわかっている。
だから、走るどころか歩くことさえよしとせずに、木陰にひそんで夏の過ぎるのを待っているのだ。
気温が下がれば体力も回復するだろう。
あるていどは、という意味ではあるが。
「うん! まかせといて」
できるだけ自信たっぷりにみえるよう、ダイは言った。
内心の慟哭を押し隠しながら。
いつのまにか夕方だった。
無数のアキアカネがふたりを取り巻いている。
トンボの群れをかきわけて、ポップは、涙を見せずに泣いているダイの手を取った。
「さ、帰ろう。もうすぐ晩メシの時間だぞ。思ったより長くかかっちまったから、レオナもデリンジャーも心配してるだろう」
視界を埋めつくしたアキアカネに、ポップは秋を感じる。
夏の終わりをこれほど強く待ちのぞんだのは、初めてのことだった。
< 終 >
>>>2001/3/5up