薫紫亭別館


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FINAL DISTANCE

 水が温んできた。
 少しずつ暖かくなる日差しにうっすら積もっていた雪が融けて、演習場を歩くとぴしゃっと泥が跳ねる。
 しかし泥ハネを恐れていては訓練にならない。調査兵団の面々は、茶色に染まるズボンとじわりとかかとが沈み込む感覚に閉口しながらエルヴィン団長の指揮の下、調練に励んでいた。
 エルヴィンの隣にいつもくっついていた小さな影はまだ見えない。
 リヴァイ兵士長が休暇を取ってからもう二ヶ月になる。幹部は誰もリヴァイの事を口にせず、自ずとヒラ団員達の間にもタブーのような雰囲気が漂っている。だが、忘れた訳ではない。リヴァイ兵士長は壁外調査における団員達の心の拠り所であり、自由の翼の象徴であり、死にゆく者が最後に掴む藁みたいな存在だ。
 エルヴィン団長にとってもそれは同じ筈で、だから、誰も何も言わなかった。
 一番キツイのはエルヴィンだと思うからだ。
 もっとも、誰もが黙って見守っていてくれた訳ではない。
 なぜ行かせた、とミケはエルヴィンに食ってかかったし、一時期はリヴァイの上司であったカスパル班長も、廊下でエルヴィンを呼び止めてこう話した。
「……君の団長就任には、リヴァイの実力も込みという背景がある。リヴァイという存在がなければ、君の団長就任の時期は、もっと遅くなっただろう」
 わかっています、とエルヴィンは頷いた。訝しげにカスパル班長は言葉を継いだ。
「こういう言い方は好きではないが……君とリヴァイは、調査兵団の双翼だ。片羽を失くして、君は一人で皆を率いてゆけるのかね?」
「おっしゃる意味がわかりかねますな、カスパル班長。私は団長となるべく教育されてきました。リヴァイが幾ら強かろうと、私にとっては一部下に過ぎません。私の信念は変わりません。誰を失おうと、どんな障害があろうと。その一点においては、私を完全に信頼して下さって大丈夫です。私は、絶対にあなたの期待を裏切りません」
 では、と頭を下げて、エルヴィンはカスパル班長から離れた。
 なんとなく足早になってしまったのは、やはり後ろめたいからなのだろうか。
 エルヴィンは自問自答した。
 休暇を与えた事に後悔はない。リヴァイは、
「てめえは二年間好きなだけ悩めただろうが、俺はこれからなんだ。同じだけ休ませろとは言わない、春まで、次の壁外調査までには戻ってくる。それまでは俺を自由にしてくれ」
 ……もう、既に、次の壁外調査の時期は決まっている。
 いつ戻ってくるのか、期間を定めなかったと皆に公表したのは、戻ってこない場合を想定しての事だ。
 リヴァイは地下街へ帰った。リヴァイの元々のホームグラウンドだ。
 女達はもういないが、他にもリヴァイを想う人間はいる。あそこでリヴァイは恐れられながらも慕われていて、その人々に残ってくれと懇願されたら、リヴァイが聞かない保証はない。リヴァイは情が深く、必要としてくれる者の為に努力する傾向がある。
 この二年間はそれはエルヴィンであり、調査兵団の面々だったのだが、今となっては自信がない。
 エルヴィンは自分の手でリヴァイとの関係をぶち壊してしまった。
 あの夜、リヴァイが忍んで来た時、一喝して追い返すべきだった。
 あの、重み。直接触れた肌の熱さ。潔癖症の綺麗好きのリヴァイの髪から香るシャンプーの匂い。
 初めて会った時から魅了されていた。
 何故、と問うたエルヴィンに他に慰める方法を知らない、と答えた。リヴァイがけなげで、愛おしくて、だがエルヴィンが秘密にしている事を知られれば、もうこんな機会は二度と無いと思った。黒い衝動が膨れ上がり、牙を剥かせた。リヴァイは泣いていた。
 体は慣れている。久しぶり、ではあったが。泣いたのは、裏切られたと思ったからだろう。
 保護者の延長線上にエルヴィンはいて、紳士で通っていて、そのイメージから行けばもっと優しく、壊れものを扱うかのように抱いてくれると思っても不思議はない。現実は真逆で、これで最初で最後なら、とエルヴィンは激しくリヴァイを求め、ぶつけた。
 リヴァイは途中から力を抜き、少しでも楽になるように体勢を整えた。
「う……っ」
 抑えた声に煽られる。高級品だっただけの事はある、具合は最高で、エルヴィンは何度でも復活した。
 ここまでのめり込んだのは初めてだった。理性など、何処かにふっ飛んでしまった。
 ……その後は、ミケに殴られた事からしか記憶がない。
 翌朝のリヴァイは自分のサイズに合った服を来て、エルヴィンのお下がりではなくなっていた。僅かに濡れた襟足が、水浴び後だとエルヴィンに教えてくれた。エルヴィンは土下座して謝った。
 リヴァイに知られ、軽蔑されても、手放したくなかった。
 金を積み、拒まれ、休暇を許したのは、エルヴィンの最後の矜持だ。全てか無か、リヴァイが帰ってきてくれるかどうか賭けたのだ。帰って来なければ、エルヴィンは全てを失う。着いたばかりの団長の座も、恐らく罷免されるだろう。
 戻ってくれば地位はこのまま、リヴァイも自分のものだ。だがこの様子では、どうやら賭けには負けたようだ。エルヴィンは自分の次の団長の事を思案し、それにはカスパル班長がふさわしい、と考え始めていた所だった。
 今日もエルヴィンは演習場で指揮を執りながら、いつまでこうしていられるか、と思っていた。
 門番が走りこんで来た。えらく焦っている。
「だ……団長! 今、リヴァイ兵長が戻られました!」


「――別に手伝わなくてもいいぞ。荷物も多くないんだし」
 お運びします、と二人いた門番の内の一人が旅行かばんに手を伸ばそうとするのを断って、代わりにリヴァイは土産に買ってきた菓子折りをどさどさと手渡した。
「晩メシの後にでも分けてやれ。たぶん人数分あると思うが……砂糖をたっぷり使ってるから、一ヶ月やそこらは保ちますよ、と店の親父が言ってた。一個食ってみたが、うまかったぞ。後、持ち場から離れるな」
 門番が両方いなくなってどうする、と叱責してリヴァイは兵士を帰した。
 うーん、馬車で調査兵団の門前まで乗りつけたくらいで、あそこまで驚かれるとは思わなかった。
 エルヴィンのアホは一体どういう説明をしていたのやら。まだ退団した覚えは無いぞ。
 部屋に戻ると、鍵が直っているのに気がついた。
 鍵は持って出なかったから、施錠されてなくて助かった。といって、中に入られた所で盗られて困る物など無いが。殺風景な部屋。掃除のしやすさが第一で、私物は余り増やさなかったが、なるほど、エルヴィンが不安になるのがわかったような気がする。生活感が無さ過ぎる。根を下ろすつもりがないというか。
 離れてからわかる事もあるものだな、とリヴァイは荷物を解いていった。
 しばらくして、手を休めずに言った。
「隠れてないで、いいかげん出て来い。エルヴィン」
「………」
 ゆっくりとドアを開けて、エルヴィンが現れた。何だかとても気まずそうな顔をしている。
「職務はどうした? この時間なら、まだ演習場にいる筈だが」
「……ハンジが、エルヴィンは頭痛と腹痛と歯痛とついでに古傷が痛むから今日はもう早退! と言って、送り出してくれた。他の皆は、まだ演習場にいる」
「そうか。じゃ、夕方までは二人きり、って事だな」
 リヴァイは顔を上げ、エルヴィンに向き直った。まっすぐにエルヴィンを見る。
 審判を待つ、罪人の気分だ。エルヴィンは肚を決めた。
「……帰ってきてくれるとは思わなかった」
「てめえの事はともかく、他の兵士達には俺にも責任があるからな。カスパル班長にも、巨人討伐の道具としての役目は果たすって言っちまったし」
「………」
 エルヴィンは目をつぶった。自分の為ではない。わかっている。
「……何をしていたか、聞いてもいいか……?」
「ああ」
 もちろん、とリヴァイは軽く話し始めた。
「……あいつらの墓参りに行ってきた。ドクに頼んだっていうから、バラバラにされて肉屋か薬屋に売られたんじゃないかって不安だったが、あのヤブ医者も少しはヒトがましい所が残ってたらしく、ちゃんと共同墓地に入れてくれてた。……正直、ほっとした」
 この世界、個人や家単位の墓を持てるのはごく一部の上流階級だけで、後はほとんどが共同墓地だ。地下街に至っては共同墓地すら入れず、その辺でのたれ死に、打ち捨てられる事も多い。
「薬屋……?」
「体の悪くなった箇所と同じ部位を食べるとよくなるとか、そんな怪しげな民間療法があるだろう。もちろんデマだが。やっぱりよく知った女が、解体されて食われたり磨り潰して薬にされたりとか、冗談じゃないしな。……ドクはそういう商売もしていたから、ちょっと洒落にならなかったし」
 死体も引き取ってくれる、のはだからなのか。エルヴィンは戦慄した。
「ドクトル・アントンは……? 殺したのか?」
「いや。いなかった」
 ふる、とリヴァイは首を振った。
「ドクが荒稼ぎ出来たのは、半分俺のおかげでもあるからな。ボディガード役の俺が消えて、ドクにお礼参りをしたいと考えた奴も多いだろう。本人の希望とはいえ、俺の女達を手にかけた事を俺が知れば、ただでは済まないのもわかっていただろうし……実際、殺すつもりだったし」
 それで行方をくらました。
 女達が共同墓地に眠っている事は、煙草売りのモクじいが教えてくれた、とリヴァイは言った。
「それで、共同墓地に手を合わせて、花を供えて……一応そこを管理してるトコに寄付して、供養してくれるよう頼んで……で、困った。やる事がなくなっちまったんだ」
「………」
 ドクトルの足取りは追えないだろう。そのテの工作は、リヴァイより遥かに巧みなのだ。
 リヴァイは女達の言葉を思い出した。
「あいつらはやりたかった事を全部やれ、って言った。だから、まだ調査兵団には帰りたくなかったから、せっかくだし行った事のない土地へ行こうと東のカラネス区へ行く事にした。対して変わらないと思ってたんだが、やっぱり新鮮なモンだな。調子に乗ってそのまま北のユトピア区にも行ったら、もの凄い雪で足止めされて、クロルバ区で遊ぶ時間がほとんど無くなった。ま、クロルバ区なら西隣だから、機会があれば行けるだろう。でも、まあ……」
 今はいいかな、とリヴァイは小さく呟いた。
「今春の新兵は入ってくるし、壁外調査の日程も決まってるし、やらなきゃいけない事が山積みだ。俺がいないとただでさえ高い死亡率がますます高くなるし、団長はヘタレだし、アレは俺が側で見張ってないと駄目だろ。あの軍人さんについていけ、っていうのも、今となってはあいつらの遺言みたいなモンだし……」
 エルヴィンは目を見張った。
「リヴァイ」
「……もう、てめえしかいないからな」
 リヴァイは歩いて、手を伸ばせば届く所までエルヴィンとの距離を詰めた。
「俺と、あいつらとの絆を知るのはもうてめえしか残ってない。上辺だけならモクじいなり、他にもいないことはないが、数日でも一緒に暮らした事があるのはてめえだけだ。てめえはあいつらが俺を託した人物だし、それが間違っていたとは思いたくない」
 エルヴィンを見上げる。
 その視線をエルヴィンは受け止めた。
「てめえがした事は許せないが……てめえだけが悪いんじゃない。俺がいなくなったらどうなるか、あいつらは知ってた。俺も、知ってた。だから、あいつらを殺したのは俺だ。その事を認めたくなくて、酷い態度を取った。……悪かったな、エルヴィン」
「……彼女達は自分で最期を決めた。お前が悪い訳じゃない、リヴァイ」
「……そう言ってくれると救われるな」
 目を伏せる、リヴァイの片頬にエルヴィンは手を当てた。ぎこちなく頬を寄せる、リヴァイはエルヴィンに触れられても大丈夫、と再確認しているように見える。
「この歳になって、保護者も育ての親もないだろう。独立しろ、という事かもしれん。……エルヴィン」
 す、と当てられた手に手を重ねる。
「だから……まだ、気持ちが変わってないなら、……いいぞ。金はいらない。ヤリたきゃ、ヤリたいって言うだけでいいんだ。どうも、俺には……恋とか愛とか、よくわからないが、てめえとなら、努力出来ると思う。……多分、だが」
 感覚で生きているリヴァイにしては、考えに考え抜いて出した結論だった。
 後は、エルヴィンの反応を待つだけだ。
「……私も、大した男じゃない。お前がいないと、途端に腑抜けになるうつけ者だ」
 エルヴィンの答えは変わらない。
「これからも迷惑も苦労もかけるし、その献身に、大して報いる事も出来ないだろうが、……愛している」
 ぐい、とエルヴィンはリヴァイの腰を引き寄せた。
 そして言った。
「私のものになってくれ。リヴァイ」
「お前のものだ。エルヴィン」
 ――どちらからともなく唇を重ねた。
 演習が終わって、皆が兵舎に戻ってくる時刻まで、もう幾らもなかった。


 その日の食堂では二ヶ月振りに、団長と兵士長が揃って同じテーブルで、夕食を摂りながら談笑する姿が見られた。
「……しかし、ローゼの四都市すべて回るなんて、よくそんな金があったな。まさか誰かから金を巻き上げたりしてないだろうな」
「………」
 リヴァイは無言。
「……なぜ黙っている、リヴァイ」
「……てめえのとーちゃんとかーちゃん、いいヒト達だよな」
「私の実家に頼ったのか!?」
「エルヴィンに全部ツケとくから、気にしなくていいって。たまには帰ってこいって言ってたぞ」
 にーちゃんも服つくっくれたり、メシ食いに連れてってくれたりしたし。兄弟だと好みも似るのか?
 あ、何もやらせてないから安心しろ。あっちは一応既婚者だしな。家庭を壊すのはよくない、うん。
 好き勝手に話すリヴァイは、相変わらずエルヴィンの眉間の皺に気づいていない。
 エルヴィンは苦悩した。
 半年間、エルヴィンの実家の離れにいたリヴァイはエルヴィンの家族とも面識がある。が、ここまで仲がいいとは知らなかったぞ。こんな所に伏兵が。実家への借りがドンドコ積み上がってゆく。
「……どう?」
 その様子を眺めながら、ハンジがこっそりミケに聞いた。
「……ヤってるな、間違いなく。体をぬぐう位はしてるだろうが、俺にはわかる」
「そう」
 良かった、とハンジは胸を撫で下ろした。
「案ずるより産むが易しというか、雨降って地固まるというか、結果オーライじゃない?」
「俺には良くない。どれだけ振り回されたと思ってるんだ」
 苦々しげにミケはこぼす。
「振り回されたのはミケだけじゃないよ、調査兵団全員だから安心しなよ。やっぱりアレは二人ワンセットにしておくべきだね。離すとロクな事がないし」
 この二年間を思い返して、しみじみと実感する。
 茶々を入れるのは明日からにして、今は、他の団員達と共にリヴァイの帰還を喜ぼう。
「……このお土産おいしいね。リヴァイがそういう事に気が付くなんて、今まで思ってなかったよ」
「……エルヴィンがした事を覚えてたんだろう。出会ったのは手土産を買いに出て、スリにあったのが原因らしいから」
 何それ、とハンジが聞いた。周りも聞き耳を立てている。その中にはカスパル班長もいた。
 ミケは困りながらも話し始めた。
「俺も詳しくは知らないんだが……時効だろうし、いいか。まず、エルヴィンが怪我をしてから……」


 翌朝、ぬかるんだ演習場に、嫌そうに足を踏み入れるリヴァイ兵士長に団員達は苦笑した。
 ――鳥が戻ってきた。
 調査兵団の、力強い、自由の翼。
 この翼に乗って自分達は何処までも飛べる。
 例え自分達が力尽きようと、この翼さえあれば、何度でも調査兵団は復活する。
「リヴァイ」
 そしてこの翼が飛ぶ方向を決定する、もう一人の人類の希望。エルヴィン団長。
 エルヴィンに呼ばれて、リヴァイが駆け寄った。二人が一緒にいる。ずっと渇望していた光景だ。
 なんだか泣きたいような気持ちになった。
 もう大丈夫なのだと、保証されたような気分だった。
 ハンジ分隊長、ミケ分隊長の号令に合わせて、団員達はそれぞれ自分の配置についた。

<  終  >

>>>2013/11/1up


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