はあ。
溜め息が零れた。
本気!
「なあ豪炎寺」
ベンチに腰掛けていた豪炎寺に、一之瀬が声を掛ける。
「噂、マジだったんだな」
彼女が横を向く先には、木戸川のベンチ。今日は河川敷グラウンドで雷門と木戸川は練習試合を行っていた。噂というのはベンチの中心にいる人物の事だ。集う木戸川の選手に指示を出す監督の二階堂。彼は少年の姿になっていた。なんでも、伊賀島の薬のせいらしい。
雷門から比べれば年若い監督がさらに若くなり、少女たちに囲まれる姿は随分と異様なものに見えた。
「なんか、ハーレムみたい」
「そうか?」
そっけない素振りで返事をする豪炎寺。
確かにそう見えなくも無いが、認めたくないものがある。豪炎寺は二階堂が好きで、二階堂も豪炎寺が好き。二人は相思相愛の恋仲なのだから。もちろん誰にも話せない秘密の関係である。
けれども、面白くないものの苛立つ気持ちにはならない。二階堂があのような姿になったのは、豪炎寺のせいなのだ。二階堂の姿を見れば、申し訳ない気持ちになる。二階堂は許してくれたが、複雑な心境である。
しかし、豪炎寺が溜め息を吐くのは、もう一つの悩みのせいだ。
「あいつ、来ないのかね」
ぽつりと一之瀬が呟く。
「来ないなら、それで良い」
「そんなに嫌なの?」
喉で笑う一之瀬。
あいつというのは、つい先月から豪炎寺に猛アタックしてくる三年生の事。何度も断っているのに、しつこく食い下がってくるのだ。本当は好きな人、彼氏がいると言ってやりたいのに、詮索されるのは後ろめたく言えない。おまけにその男子生徒はそこそこモテる男で、チームメイトからは“とりあえず付き合ってみれば”だの“嫌よ嫌よも好きのうち”と本気で嫌な気持ちを理解してくれない。豪炎寺が頑なに断る理由がわからないせいもある。
唯一わかってくれたらしい染岡は、しつこい男子生徒に本気でキレてしまい、乱闘騒ぎになってしまった。もうどうにかしなければならないと思った矢先に、なんと彼は今日の練習試合を応援しに行くと言い出してきて豪炎寺はほとほと困り果ててしまう。
試合は前半戦を終え、まだ彼の姿は見えない。このまま試合が終わってくれたらと願わずにはいられない。
だが、意識すればしただけ、悪夢は襲い掛かってきた。
「豪炎寺さーん」
呼ばれて顔を上げた豪炎寺。雷門選手の視線は声の主へ向かう。
あの男子生徒が手を振りながらやって来てしまった。
「呼ばれてますよ〜」
栗松がニヤニヤとした目つきで豪炎寺を見る。
「モテモテですね〜」
「だから違うと……!あの、部外者は入らないでもらえますか」
はやしたてる後輩を尻目に、豪炎寺はベンチを立ってやってきた男子生徒を嗜めた。
「まあまあ豪炎寺。今日は練習試合だし」
キャプテンの円堂はひらひらと手を振る。こういった時の彼女はとことん緩い。
「豪炎寺さん、遅れてごめんね。試合はどう?」
男子生徒はタオルで豪炎寺の乾ききった額を拭ってくる。思春期の少女たちは思わず“わぁ”と騒いだ。
黄色い声は木戸川まで届き、選手たちはひそひそと囁く。
「あれ誰?」
「豪炎寺の彼氏?」
ねえ監督。誰かが二階堂に話を振った。
「さあなあ……」
二階堂は愛想笑いを浮かべるだけであった。
どこか浮いた雰囲気の中、後半戦は始まり、終了すればベンチに待機させてもらっていた男子生徒は豪炎寺の汗をまた拭こうとしてくる。
「やめてくださいっ」
手を払い、拒絶を示す。
「さすがに酷いだろ、豪炎寺」
土門が男子生徒の落としてしまったタオルを拾い上げた。
「俺は大丈夫だよ豪炎寺さん。試合が終わったばかりで気が立っているんだよね」
土門からタオルを受け取り、男子生徒は豪炎寺の腰に手を回してくる。
「!」
「しつこくてごめん。ちゃんと話がしたいんだ」
やんわりと回した手に力を加え、豪炎寺をリードするようにグラウンドを離れて、二人きりで話せる場所へ連れて行こうとする。豪炎寺はこの際、引導を渡してやろうと大人しく従った。
二人がいなくなった後で、二階堂が雷門のベンチへやって来る。
「あれ?豪炎寺は?せっかくだから話でも出来ればと思ったんだけどな」
「豪炎寺さんなら、豪炎寺さんの熱烈ファンの方と行っちゃいましたよ」
「熱烈ファン?」
二階堂が問えば、豪炎寺に猛アタックしている男性生徒なのだと雷門選手は答えてくれた。
「豪炎寺は何度も断っているんですけど、諦めきれないらしいです」
「あそこまで嫌う事はないのに」
「そうなのか……」
事情を把握する二階堂。
「二階堂監督、男性からみて、こういうのってどうなんです?」
「ええ?個人によるとしか……」
いきなりの質問にうろたえそうになる。どうやら二階堂が少年の姿のせいか、話しかけやすいようだ。
「だがしつこすぎるのはどうかと思うぞ」
「だったら二階堂監督、豪炎寺を助けてくださいよ。私たちじゃどうにも出来なくて」
「先生が?しょうがない、行ってくるよ」
鬼道が二人の向かった場所を示してくれ、二階堂は豪炎寺を探しに行く。
二階堂としては豪炎寺の様子が気がかりだったし好都合なのだが、どうも気分は複雑だった。
偉そうに“個人によるなんて”言ったが、自分が心の中まで子供だったら平生でいられず嫉妬丸出しだっただろう。
豪炎寺と男子生徒はグラウンド先の橋の裏手で話をしていた。柱を背に、豪炎寺は声を荒げる。人気の無いのを良い事に、怒りを抑え切れなくなった。
「いいかげんにしてください!」
彼女の怒る様は、普段のものとは異なる。冷静さを失い、本気で怒っていた。無理も無いのだが男子生徒にはわからない。
「豪炎寺さん、ごめんよ。皆の前で悪かったよ。でも俺の本気をわかって欲しかったんだ」
男子生徒とは柱に両手をつき、豪炎寺の身体も視線も逃さないように捕えた。
「何度も言ったはずです。貴方と付き合う気はありませんので」
「一回、一回でいいから、デートしようよ。そうすれば俺の良さ、わかるはずだよ」
「お断りします」
そっぽを向く豪炎寺。その首筋の筋肉が伸ばされる輪郭が、なんとも美しくて男子生徒の目を釘付けにする。性格は勝気でクール、健康的でしなやかな身体の線の中に、女性らしい柔らかさがある。どこまでも男子生徒の理想だった。絶対に諦めたくなかった。
「ねえ、お願いだから……」
「豪炎寺?」
男子生徒が話す途中で、二階堂が柱の影からひょっこり顔を出す。
豪炎寺が吃驚したような顔をして、思わず男性生徒は両手を離して二階堂に向き直った。
「二階……」
「あんた誰?対戦校の人?」
豪炎寺が呼ぶより先に、男子生徒が放つ。
彼は二階堂が木戸川清修の監督とは知らず、ただの生徒だと思っているのだろう。豪炎寺へ向けるものとは明らかに異なる口調になった。
「あの、これ、違うんですっ。信じてください」
豪炎寺は急におろおろしだし、弁明を始める。勘違いされるなんてまっぴらごめんだった。
「豪炎寺さん、知り合い?」
「俺は豪炎寺の前の学校の先輩なんだ。だろ?」
「は、はい。二階堂……せ、せ、せんぱい……」
機転を利かせてくれた二階堂に、どもりそうになりながら豪炎寺は"せんぱい"と呼んだ。
「その前の先輩がなんの用なんだ。こちらは今、立て込み中なんだよね。今からデートの予定をするんで」
「でも豪炎寺は随分と嫌そうに見えるけど。先輩としては放っておけない」
「二人の問題なんだよ」
男子生徒が返したところで、二階堂は瞳を細めて声のトーンを下げる。
「しつこい男は嫌われるぞ。いい加減わかれよ」
つかつかと歩み寄り、豪炎寺の手を取って引き寄せた。
「こいつ、俺の女なんだ」
「は……………?」
絶句する男。豪炎寺の顔は真っ赤に染まり、さらに驚愕する。
「い、いや。豪炎寺さんはなにも言わなかったし、だったら証拠見せろよ!」
二階堂は動じず、豪炎寺の頬に短い口付けをした。
「な?」
得意の笑みを浮かべ、豪炎寺の肩を抱いて去っていく。後ろの方から男子生徒の悔しそうな嘆きが聞こえていた。
二階堂は橋の下へ入ると、脱力したように大きく息を吐く。
「はぁ〜……」
豪炎寺から手を離して、その手で額を拭う。ある意味、命知らずの行為であった。
「まったく豪炎寺。言い寄られて困っているなら、俺に話してくれても良いだろ」
ぶつぶつ呟いて振り向く先には、両手を組んで俯く豪炎寺がいた。
「ごめんなさい二階堂監督。これ以上、ご迷惑をかけたくなくて……」
ちらりと上目遣いで二階堂の様子を伺う。
「あの、怒っていますか……。信じてください、私は二階堂監督だけですので」
「豪炎寺は若いんだし、色々あるだろうさ」
視線をそらそうとした二階堂の胸を豪炎寺が掴み、ムッとした視線を送ってくる。普段の時とは異なる近い位置に、ドキッとした。
「なぜ、そんな言い方をするんですか」
「本気にするなよ」
「私はいつも、本気なんです」
豪炎寺はさらに顔を近づけてくる。
二階堂は視線を避け続けながら思う。
そんな言い方にでもしなきゃやってられない心境ぐらい、わかって欲しいものだと。
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