「女川」
 呼ばれた女川が顔を上げると、二階堂の手が伸びてマニキュアの容器が摘まれた。
「言っただろ。あんまり使うなら没収するって」
「え?」
 取り返そうとする女川だが、高く上げられて届かない。
「没収」
「ええええええええええええ!!!」
 女川の絶叫が部室に響き渡った。



マニキュア



「監督っ、二階堂監督!」
 女川は帰ろうと駐車場へ向かう二階堂を追いかける。
「ごめんなさい。謝りますから、返してください。学校にも持って行きませんから」
「返すにしても、数日間はお預けだ」
「やめてください加齢臭が染み付きます。嘘です。あの、あの、明日友達と遊ぶのに塗って行きたいんですー」
 手を合わせてペコペコする女川。彼女は必死なのだが、たかだか爪ぐらいでと二階堂にはわからない。
「そうか。残念だったな」
「監督お願いですよー」
 車に乗り込もうとする二階堂の腕にしがみついた。
「まったく、爪ぐらいで……」
「ぐらい?ぐらいってなんですか。監督もいい年なんですから、女心をわかってください」
 ぽろりと漏らした呟きに食いつかれ、二階堂はうんざりした顔になる。
「わからなくて悪かったな。ほら、危ないから離れろ」
 女川の手を引き剥がし、ドアを開けて運転席に乗り込む。
「明後日になったら没収して良いですから、今日は返してください」
 二階堂の上に乗りかかって、強引に助手席に座った。
「返してくれるまで付いていきますから」
「おいおい……。いい加減諦めてくれないか。車出すぞ」
「出してください」
「…………ふう」
 仕方なくアクセルを踏む二階堂。面倒なので返したいのはやまやまだが、それでは女川の為にはならない。
「二階堂監督、意外と大胆なんですね」
 車が走り出してから、女川はニヤニヤとした目で二階堂を見詰めてくる。
 その視線に、二階堂は避けたくなって無視を決め込む。
「でも、こんな頑固な監督じゃ豪炎寺さんとの仲が危ぶまれますねぇ」
「お、おいっ」
 二階堂は焦ったような声を上げた。
「良いじゃないですか。車だし声漏れませんよ。焦っちゃって。ウケる」
「…………………………」
 ムッとした顔をするが、二階堂は冷静に運転に集中する。
 二階堂と雷門の豪炎寺との仲は秘密であったが、ひょんな事から女川にバレてしまった。絶対に内緒だと約束をしたが、こうして二人きりになると話題を出してくるので二階堂は心臓に悪い。
「豪炎寺さんとはどうなんですか?」
「どうもしてない」
「あ、現状維持なんですね。エッチな事強要しちゃ駄目ですよ」
「する訳ないだろ。なに言ってんだ」
「本気なんですね。羨ましいなぁ豪炎寺さん。でもオッサンはごめんかな」
 ふう。重い息を吐いて、さらに重い声で二階堂は呟く。
「女川、静かになさい。一言も二言も多すぎる」
「図星指されたからって不機嫌にならないでくださいよ。……はいはい、黙ってます。マニキュアも返してくれれば帰りますってば」
 つんとした顔で女川は口を噤む。
 二階堂の家があるマンションの駐車場に車を停めても、まだ女川は付いてきた。
「そろそろ諦めなさい」
「諦めるのは監督の方です。あとここまで来たんですから、ジュースくらい奢ってください」
「…………………………」
 要求に出る女川の頭が本気で理解が出来ず、二階堂は目が点になる。
 憂鬱な足取りでマンションに入り、階段を上がって、ドアの前に立つ。
「女川。先生にもプライベートってあるから、少しここで待っていろよ」
「はーい」
「ふう」
 げっそりした表情で鍵を開ける。けれども、中は暗い所か温かな光が差し込んできた。


「あれ?電気を消し忘れたかな……」
 不審に思う二階堂だが、奥の方からスリッパの音が聞こえてくる。
「二階堂監督。お帰りなさい」
 少女の声に、二階堂は目を見張り、女川も背を伸ばして覗き込む。
「豪炎寺……」
 迎えてくれたのは豪炎寺であった。料理の途中だったのかエプロンを纏っている。
「女川も一緒だったんですか?」
「ん。なんか付いてきて」
「なんかってなんですか。豪炎寺さん、お久しぶりです」
 二階堂が玄関に上がり、女川がドアを閉めた。
「それにしても豪炎寺。どうしてお前……」
「どうしてって。さっそく、使ってみたのですが……すみません。知らせるべきでしたよね……つい、驚かせたくて…………」
 俯き、もごもごとした口調で豪炎寺は言う。
「合鍵ですか」
 ぎくっ。前を歩いていた二階堂と豪炎寺が直立不動になる。実に分かり易い反応であった。
「どうもしてないって言っていませんでした?監督も誤魔化すのが上手いなぁ」
「あー……女川はジュース何が良いかなぁ。オレンジあるぞオレンジ」
 わざとらしく話題を変える二階堂。三人が居間へ入ると、良い匂いが香った。
「豪炎寺、これは?」
「煮物ですよ。ご飯も味噌汁も、もうすぐ出来ますから」
「有難う豪炎寺。お前が来てくれて幸せだ」
 感謝を述べる二階堂に、豪炎寺も幸せそうにはにかむ。漂う甘い空気に女川は咳払いをした。
 すると二人はパッと視線をそらし、二階堂は荷物を置きに寝室へ入り、豪炎寺は台所へ向かう。
「豪炎寺さんっ」
 女川は明るく呼びかけて背後から豪炎寺を抱きすくめた。
「聞いて欲しい事があるんです」
 頼みとは裏腹に、手は豪炎寺の胸をむにむにと揉みしだく。
「こ、こら。やめろ」
 強くたくましそうな気配なのに、いざ踏み込んで強引に出れば抵抗が弱い。二階堂の大事な生徒であり、後輩にあたる女川に豪炎寺はつい態度が甘くなってしまう。
「豪炎寺さん。私の話を聞いてくださいね。二階堂監督の事は置いておいて、ひとまず私の話を聞いてください」
 ぎゅっと乳房を鷲掴みにする。
「わ、わかったから、やめろ」
 手を離され、豪炎寺は乱れた衣服を整えた。唇の隙間から細く息づき、微かに聞こえるその音はいやらしい。本人が自分の色香に気付いていないものだから、ついつい女川はからかいたくなる。
「実はですね、二階堂監督ったら超酷いんです。私のマニキュア没収したんですよ。明日はどうしても必要だから、明後日になったら没収してくださいって言うのに駄目って」
「は、はあ」
「ここまでついてくる程お願いしてるのにっ」
「そうなのか……」
 密かに安堵した豪炎寺である。
「豪炎寺さんからお願いしてください。豪炎寺さんのお願いなら監督は許してくれますよ。明日だけで良いんです」
「私が頼んでも効果は無いと思うぞ……。監督は決め事に厳しいから」
「大丈夫ですよ。二階堂監督は豪炎寺さんにベタボレなんですから」
 ドアの開く音がして、二階堂が戻ってきた。
「誰が、なんだって?」
「豪炎寺さん、お願いします」
 女川は豪炎寺の背を押して二階堂の胸に飛び込ませる。
「わ」
 二階堂は軽々と受け止め、豪炎寺は上目遣いで彼を見上げた。
「あの、監督」
「ん?」
「女川がマニキュアを返して欲しいそうです。どうしても明日は使いたいそうで……」
「豪炎寺、女川の味方をする必要は無い。爪ぐらいで、しつこいな」
「ぐらいじゃ、ないです」
 豪炎寺の瞳が強い意思を持って射抜いてくる。
「私は爪を塗った経験はないですが、女川には大切なものなんです。明日くらい、許してあげたら如何でしょうか」
「それじゃあ没収の意味が無い。反省しないだろう?」
「しますよ。な、女川」
 振り向き、女川を見据えた。
「はい、します。だからお願いしますっ」
 手を上げて女川は誓う。
「わかったよ」
 二階堂の手の中には既にマニキュアの容器が握られていた。広げられた女川の手の平に返す。
「有難うございます。明後日には預けますから。あ、豪炎寺さんなら使っても良いですよ。では私はこれで」
 女川は喜び、嵐のように去って行った。
「ゲンキンな奴だな」
 苦笑いをして、二階堂は豪炎寺の肩に手を置いて見下ろす。
「豪炎寺はマニキュアとか興味あるのか?」
 ――――ピアス以外に。
 微かに囁き、指がそっと豪炎寺のピアスをなぞる。
 ピアスと共に耳たぶを摘まみ、擦って、弄ってきた。二階堂の指の温度、擦れる音が鼓膜をくすぐる。
「……ぅ」
 豪炎寺は目を瞑り、小さく身を震えた。
 指の動きが止まり、名残惜しそうに解放する。
「はい、と答えたらどうするんですか……」
「どうしようか……」
 二階堂が豪炎寺の腕を引き、ソファに座って彼女を膝の上に乗せる。爪をそっと手で包み、豪炎寺の瞳をじっと覗き込む。
「豪炎寺が化粧をしたら、子供に見えなくなって距離が掴めなくなったら困るだろう」
「子供は嫌です」
「子供に鍵は渡さないよ」
「ですが、子供って」
「そういうのが、困る」
 二人は目を閉じて、唇を寄せた。触れて離して、目を開けると女川が喉で笑う声が聞こえてくる。
「忘れ物ないか見に来たんですけど、お邪魔だったようですね。冷房つけたらどうです?暑いですよ」
 居間のドアから顔を覗かせ、ひらひらと手を振って引っ込めた。
「…………………………」
「…………………………」
 あまりにも唐突過ぎる不意打ちに、二人は首まで赤く染めて硬直する。
 また女川に知られたくない秘密を知られてしまった。







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