夢が夢じゃない
「豪炎寺、こないだは練習試合だったんだろ?」
「はい」
「どうだった?」
豪炎寺は普通です、と呟くように答えて立ち上がる。
ここは二階堂が住むマンションの一室。都合のつく日はこうして豪炎寺が訪問して二人で穏やかな時間を過ごしていた。時刻は夜を回り、夕食を終えてテレビを観ながら食休み。二人は共にラフな格好に楽な体勢で安らかな空気が漂う。
二階堂は木戸川清修の監督、豪炎寺は元教え子であり現雷門のストライカー。ではあるが、一度不運に引き離され、再会して心を通わせた二人は特別な関係となった。世間を騒がせたエイリア学園の野望も打ち砕いた。ではあるが――――。
「豪炎寺、冷蔵庫にゼリーあるから食べてもいいぞ」
豪炎寺は言われるままに台所に入り、冷蔵庫を開ける。ゼリーを取り出しながら、目に入るのはビールの缶だった。二階堂の家へはそれなりに来てはいるが、彼が豪炎寺の前でアルコールを口にした事は一度もない。二階堂は豪炎寺に気を許してはいるが、全てではない。大人であり、保護者である姿勢を決して崩さなかった。豪炎寺の好意に俺も好きだと言ってくれた。額に軽い口付けもしてくれた。抱き締めもしてくれる。しかし、それ以上は許さなかった。特別は特別になったが、まだなにも始まっていないと豪炎寺は思っている。本当はもっとそれなりの事はしてみたいし、自分の知らない大人の世界を見せて欲しいと望んでいる。だが、そんな事を口にしてしまうのはいかにも子供っぽいので言えなかった。二階堂には一人前の、一人の人間として見て欲しかった。
待っていても二階堂は動いてくれない。だったら自分が動くしかない。
――――今日こそは。
豪炎寺の手が意を決したようにビールへと伸びる。
「二階堂監督」
ゼリーとスプーンとビールを持って、二階堂がくつろぐソファに腰を掛けた。
「どうぞ」
押し付けるように二階堂にビールを渡す。
「え?頼んでないぞ」
「冷蔵庫に入っていました。監督、遠慮しなくてもいいですよ」
ゼリーを開けながら、平生を装う豪炎寺。内心はかなり緊張していた。
「遠慮なんかしていない。飲みたくはない気分なんだ」
「…………そ、です。監督は俺が子供だから飲まないんでしょう」
ゼリーを掬う手が固まった。
「すまん、よく聞こえなかった」
「嘘です、と言いました」
しんと、空気が静まる。
「んー、どういう事だ?」
苦味が混ざるも、二階堂は笑みを浮かべながら豪炎寺に耳を傾けようとする。
「俺、聞いた事があるんですよ。木戸川にいた頃。数学の先生が、先生同士で飲んだって。二階堂監督はお酒が好きな人だって」
「豪炎寺。外と飲むのと家で飲むのとはな」
「そ、その時」
二階堂の言葉を遮る豪炎寺。二階堂はまだあるのか、などと微妙な気持ちになる。
「酔った監督は可愛いって言ってました」
ゼリーから二階堂へと視線を移す豪炎寺。僅かな照れを含めて、じっと見据えてきた。
「可愛いって……豪炎寺の数学の担当は誰だったか」
「知ってどうするんですか」
「え、いや……」
鋭さに二階堂は口ごもる。
子供故の吸収力の早さか、豪炎寺は二階堂という人間がわかってきたのか言動が鋭くなってきていた。年齢も思春期なのもあり、豪炎寺が内に潜める好奇心を当然気付いてはいるが、わかっているからこそ早まらないように留めておかねばならなかった。けれども所詮は子供騙し、はぐらかすのも難しくなってきていた。
「先生、お酒弱いんだよ。だから豪炎寺に酔った姿、見せられないよ」
諭す気持ちが強かったのか、つい口癖で先生と言ってしまう。
「気にしません」
「俺は気にするんだよ。とにかく、だ。こういうものはこんな気分で飲むもんじゃ……」
再び話を遮るのは二階堂の携帯であった。携帯を取って席を立ち、寝室にこもって会話をする。戻って来た二階堂は困ったような顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「いや、な。長い間、日本を離れていた友達が今帰ってきていて飲み会をしているみたいなんだ。それで俺も来ないかって」
「行ってくればいいじゃないですか」
「いいのか?悪いな、せっかく来てもらったのに」
「また、来るからいいんです」
答える豪炎寺に二階堂は口元を綻ばせ、額に口付けを落とす。いつも額なので、豪炎寺は不満そうに二階堂の腕を引き寄せ、彼の唇に自分のそれを押し付けようとした。けれども簡単に逃げられて、外出の支度を整えに行ってしまう。
準備を整えた二階堂を豪炎寺は玄関まで送る。
「行ってらっしゃい」
「戻りはわからないから、先に眠っていてくれ」
「はい」
軽く手を上げて、二階堂は家を出て行った。
ばたん。扉が閉まると、急に家が広くなったような感覚に陥る。そして静かだ。
ここには二階堂のものに溢れているのに、本人がいない。奇妙な気分であった。起きていてもする事は特になく、寝てしまおうと豪炎寺は風呂で身体を湯で流し、寝室に入った。
「あ」
つい不注意で、床のコードに脚を躓かせる。そこで偶然、ベッド下に転がっていた雑誌を見つけた。考えるより先に手が動き、取り出して床に座り込む。
「………………………」
雑誌は大人の趣味雑誌であったが、簡単にめくるだけでも広告欄の男性のコンプレックスやアダルトなものが目に付いた。二階堂の年頃の成人男性が抱える悩みや興味に触れられるような気がして、豪炎寺は読み進めていく。だがあまり面白くはなく、閉じてしまった。
本を元の場所に置き、ベッドに戻って枕に突っ伏した豪炎寺は、つい溜め息が出る。
「はぁー……あ」
もしも本の内容が面白かったのなら、もっと二階堂監督と楽しく話ができたのかもしれない。一緒に飲む友達のような、他愛のない事でも笑い合えるのかもしれない。
俺たちは果たして出来ているのだろうか。答えは否だった。まだまだ、全然、二人はまだまだだった。
すぅ。息を吸えば、ほんのりと二階堂の匂いがした。思わず、どきっとした。
枕を抱きかかえ、すぅすぅともう一度吸ってみる。どきどきとしてきて、妙な気分になりそうになる。いやらしい気持ちになってくる。
二階堂にとって豪炎寺は子供かもしれないが、本人は中学生であり、思春期だ。様々なものに感心を寄せる年頃だ。特に、性には敏感だった。
二階堂が好きだった。特別に好きで、愛していた。一緒にいたい、話したい、触れてみたい。色んな欲望を抱えている。触れるのだって布越しではない、直接肌に触れてみたいと思っている。誰も触れた所のない場所まで、だ。どきどきするし、男の機能も反応する。性的な対象として二階堂を見ていた。
二階堂も自分を特別に想ってくれるのなら、もっと好きになって欲しいし、もっと深い仲になりたい。自分だけのものにしたいという独占欲も湧いてくる。いっそこの手で滅茶苦茶にさえしてみたい、好き放題に弄ってみたい想いまである。
豪炎寺にとって二階堂は監督で大人。自分の手でなにかをするにはなにかと難しい存在。だから余計にもどかしさが胸の内で渦巻いた。
「はぁ」
こんな想いを二階堂監督は知っているんだろうか。考えるほど、切なくなった。
次第に眠気が意識をぼやかして、豪炎寺は眠りに落ちる。
――――声が、聞こえる。
――――誰かの、呼び声が聞こえる。
「豪炎寺くーん!」
「!」
ハッと、直感する。これは試合だと本能が知らせた。豪炎寺の世界が強い光に包まれ、引いていく景色はグラウンドを形作る。
――――ああ、覚えている。この感覚を。
豪炎寺は走り出す。肌に触れる風、息を吸えば香る土。木戸川にある広場だ。小さい頃にサッカークラブで遊んでいた場所だ。
「豪炎寺くん!」
仲間の呼びかけに、豪炎寺は反応して飛んできたボールを胸で受け止めて蹴りだす。
なんらかの意識が余所見をさせ、そこには観戦しに来てくれた両親の姿があった。いい所を見せたくて、気合が入ってくる。
「行けえ!」
「ああ!」
豪炎寺は飛び上がり、とびっきりのシュートをゴールめがけて撃ちつけた。相手のGKはなす術もなく、豪炎寺のチームに得点が入った。
「やった!」
豪炎寺はガッツポーズをし、仲間と喜びを分かち合い、両親の元へと駆けていく。
「よくやったな」
父が笑う。
「今日は修也の好きなものでお祝いしましょ」
母が前屈みになり、視線の高さを合わせてくれる。
「なにがいーい?」
柔らかく微笑んだ。
「えっと……」
豪炎寺は照れくさそうに視線を彷徨わせる。
「えっと……」
作って欲しい料理がありすぎて、定まらない。俯き、つま先で土を弄って考える。
「その………………」
両親が微笑んだまま、遠く、薄くなっていくのに豪炎寺は気付かない。
「俺…………」
顔を上げた時には、両親は遠く先にまで離れていた。豪炎寺の瞳は驚きに見開かれ、口を開いても声が出ない。
「………………………………」
動き出せないまま、なにも言い出せないまま、笑顔のまま、両親は消えていった。
ふと、意識を取り戻す豪炎寺。夢だったのだと思い返し、理解した。瞬きをすれば、瞼が濡れているような気がする。
「………………………………」
数回瞬きして、人の気配を察した。気配はすぐ傍にあり、頭に感触がした。
「あ」
瞳を動かせば、ベッド横で二階堂が座り込み、頭を撫でてくれていた。雰囲気が少し違う感じがして、彼だと気付くのに間を必要とした。意識して呼吸をすれば、鼻孔をくすぐる酒の匂い。二階堂は彼の友人との飲み会から帰ってきたのだと知る。
「……んとく」
呼び慣れた名を口にするだけなのに、妙な緊張を覚えた。豪炎寺を見下ろす二階堂の瞳はどこか虚ろで、不安定に感じる。明かりの消された薄暗い寝室の中でも、二階堂の頬がほんのりと染まっているのがわかる。
――――酔っているんだ。まるで初対面のように、接し方に戸惑いを覚える。
「おかえり、なさい……」
無難な挨拶をした。
「……ただいま」
少しだけ、舌の絡んだ声で応える二階堂。
「すまない。起こしちゃった……みたいだな」
「いいえ、助かりました」
二階堂をじっと見上げたまま、豪炎寺が言う。
「悪い夢でも見ていたのか」
「いいえ……どちらかといえば、いい夢でした」
「じゃあ……」
「心地が良すぎて、目覚めるのが辛くなってしまいそうだから」
「………………………………」
「起こしてくれたのが、かんとくで、良かった」
自然と素直に、豪炎寺は笑ってみせる。頬の筋肉が心なしか柔らかい。
「そっか」
二階堂もつられてか、微笑んだ。だがとても、眠そうに見える。
「二階堂監督、どれくらい飲んだんですか」
「ん……結構、な。俺の帰りたい気持ちがバレたのかな」
「どうして……?久しぶりにお友達に会われたんでしょう?」
「だとしても、だ。豪炎寺を一人きりなんて出来ないよ」
「え」
どきりと、胸が振動する。面と向かって、そんな事を口に出されてしまえば動揺してしまう。
「監督。随分と、眠そうですね」
はぐらかすように話題を変えてしまった。
「そうだな……うん、眠い」
あふ……。二階堂は口を手で押さえて欠伸をする。豪炎寺は身を起こし、布団をめくって端に寄った。
「ど、うぞ」
駄目元で、ベッドへと招こうとする。二人は同じ家の中で一夜を共に過ごすが、寝る場所はいつも別々だった。狭いからだと、お客さんだからと、二階堂はいつもこのベッドで豪炎寺を寝かせてくれる。当然、豪炎寺としては不満で、いつも一緒に寝たいと思っていた。
なぜだろう。今夜は、二階堂が酔っている今ならば、上手くいくのだとどこか確信があった。
「うん」
こくんと頷き、二階堂は起き上がってベッドに入り込んでくる。
端に寄っても狭いが、窮屈そうな顔、来てくれて嬉しそうな顔はしないようにした。悟られてしまえば二階堂はいつものように居間で寝てしまうだろうから。
「ん」
二階堂は低く呻き、横になってすぐに目を瞑ってしまった。けれども外出着に違和感があるのか、寝辛そうだった。
「二階堂監督、大丈夫ですか」
声を潜めて囁き、二階堂の上着に手をかけた。どろりとした下心が疼く。
――――俺は一体、なにをやっているんだろう。気持ちではわかっているのに、わかっているはずなのに、心を突き動かすなにかが止めさせてくれない。
夢から目覚めたばかり。自分の前では口にしなかった酒を飲んだ二階堂。まるで、夢の延長のようだった。豪炎寺までが二階堂の酔いに流されたのか、日常というパターンから抜け出そうとしている。
「かんとく」
声になる、擦れ擦れの細い音で二階堂を呼んだ。後ろめたさに染まった指先の間接が罪の予感に軋む――――。
待ってなどいられなかった。とにかく、動き出したかった。欲しいものは欲しいのだと心が叫びを上げている。今なら奪える。本能が狩るべき時を知らせていた。
「服、きついでしょう」
落ち着きを意識しながら声をかけ、直後にごくんと喉が生唾を飲んだ。
恐る恐る上着を握る手に力を加えていき、布を擦らせながら捲し上げる。二階堂の日に焼けた素肌が露になった。本人は年と運動不足から肉がついたとぼやいていたが、豪炎寺にはほどよい厚みに見え、腹筋も丁度良さそうに感じた。それに二階堂は元日本代表選手。憧れの肉体はとても魅力的に映った。
「ん……」
二階堂が呼吸をすれば、腹筋がひくつき、胸が上下する。もっと上げてみれば胸の突起が覗いた。
「んん?」
閉じていた眼を開き、瞬きをさせて豪炎寺の瞳を見据える。けれども瞼が重いらしく、半眼だった。
「豪炎寺、なにやってるんだ」
「監督、眠り辛そうに見えたので」
「お前は構わなくてもいいよ」
「そう言わないでください」
二階堂の腹に手を這わせて撫でる。
「こら、くすぐるなよ。手つき、やらしいなぁ」
「それくらい、考えますよ」
ぽつりと呟く。
「今の監督なら、答えてくれそうな気がしました」
撫で回しながら顔を近付け、腹に軽く口付けた。ひくんと、敏感に反応する。打てば響くような感覚に豪炎寺は感動して、もう一度口付けてから、今度は軽く吸い上げる。
「あ」
身じろぎする二階堂。酔いと眠気で気だるそうに動きも鈍い。
「今の監督の声、やらしいです」
べったりと二階堂にくっつき、顔を僅かに上げて放つ豪炎寺の息は乱れ、熱くなっていく。普段なら見られないだろう二階堂のあられもない姿に興奮していた。
「からかうなよ」
二階堂の反論に、豪炎寺は数学の教師の言葉の意味を察する。
――――可愛い、と。
口にすれば怒るだろう。だからこそ、喉の奥に留めておきながら反応を伺うのに、子供染みた悪戯心を疼かせた。
「二階堂監督。ここ、触ってもいいですか」
片胸の突起を指と指の腹で摘む。
「駄目」
「けち」
喉で笑う。断られてもやめる気はなく、擦り付けた。
「やーめーなーさーいー……」
二階堂はムッとした表情を見せるも、目尻を微かに震わせて反応を押さえ込んでいる。
胸をどくどくと高鳴らせながら、口を持っていき、舌を這わせた。なにをどうしてそうしたかったのか、豪炎寺にもわからない。ただ惹かれる心が、触れたい好奇心が、渦巻く欲情が、卑猥な箇所を探しては背を押してくるのだ。
「そんなとこ、触ってどうするんだ。母乳なんて出ないぞ」
「!」
豪炎寺は吃驚したように目を見開き、口を離した。遅れて二階堂は失言を悟る。
「……すまない」
「いいえ、俺が悪かったです。俺にとって、監督は監督なんです。だから違うんです、俺は」
ぶつぶつとうわ言のように言い訳を語りだした豪炎寺を、二階堂は身を起こして彼を抱き寄せ、共に転がった。
「豪炎寺。無理しなくていい」
上げられた衣服を戻しながら、二階堂は豪炎寺の耳元で囁く。
「無理なんか、していません。俺は、待つのは得意ではないだけです」
「そうだな。豪炎寺はそうだもんな。……今日はこのまま、一緒に寝るか」
二階堂の声が聞き取り辛くなる。起きているのがやっとなのだろう。
「……いいんですか」
「嫌なら、どこうか?」
「嫌な訳、ないです」
豪炎寺が二階堂にしがみつくと、彼は後ろ頭を優しく撫でてくれた。温もりに包まれながら二人は一緒に眠りへ落ちていく。
翌朝、二階堂は二日酔いらしく、起きられなさそうにうつ伏せに寝返りを打った。
「二階堂監督、大丈夫ですか」
豪炎寺は身を乗り出すようにして二階堂の身体に乗りかかる。抵抗を見せない二階堂に、ここぞとばかりに耳の中へ舌を挿入させた。
「こら朝だぞ、やめなさい」
「酔い醒ましです」
しゃあしゃあと放つ豪炎寺に、振り向く二階堂。照れたような顔に、豪炎寺はどきりと硬直した。
「え、どうした?」
「なんでもありませんっ」
返す豪炎寺も顔が熱くなってしまう。二階堂もどきりとした。
どきどきと互いに血潮を湧かせた二人は、引き寄せ合うように唇と唇を合わせる。初めて触れ合った唇同士の感触は、溶けるように心地良い。魂の温度とはこんな暖かさなのではないかと、ふと脳裏に過ぎり、静かに目を閉じた。
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