それは、寒い寒い冬の日だった。



溶けゆく



 二月十四日バレンタインデー。
 放課後の雷門女子サッカー部の部室では、誰に渡しただとかどうだとかのバレンタイン話題でもちきりだった。
「今日は練習無理!ごめん〜」
 半田が外から扉を少し開き、手を合わせて詫びる。
 彼女が扉を閉めた後で、少林寺が“半田さん彼氏ゲットかぁ”と羨ましそうにぼやいた。
「なんだぁ?皆カレシが欲しいのか?」
 円堂がカラカラと笑う。
「円堂さんはサッカーが彼氏ですもんね」
 すっぱりと放つ宍戸。
「いや、サッカーはサッカーだぞ」
「好きな選手とかいないんですか?」
「え」
 円堂の頬がわずかに赤らむ。
「ほらいるんじゃないですかっ」
「良いじゃん、カッコ良い人に憧れたって!なぁ豪炎寺!」
 急に円堂に話を振られ、豪炎寺は着替える途中の手を止めて“えっ”と口をぽかんと開けた。
「さあな、知らない」
 あっさりと放つ豪炎寺。好みのタイプの質問責めに遭う円堂をよそに、俯く彼女の頬は赤らんでいた。
 好きな選手――憧れ――豪炎寺にはこのフレーズに上手く切り返せる術はなく、そっけなく返すしかなかった。助け舟を出せなかった円堂に申し訳なく思いながら、豪炎寺は想い人を頭に浮かばせる。
 大好きな、恋人がいた。名前は二階堂。転校する前に在籍していた木戸川清修の監督だ。
 誰にも言えないけれど、大好きで大好きでたまらない人だった。
 今日は練習が終わったら、駅で二階堂が迎えに来てくれる約束をしていた。たまたま木戸川では練習が休みらしく、来られるのだと言う。
 そうして二階堂の家に行って、甘い二人だけのバレンタインを過ごすのだ。
 予定はとても楽しみなのに、少しだけ不安があった。
 二階堂は木戸川の生徒や教師からチョコレートをたくさんもらっていそうなので、やきもちを妬いてしまいそうだった。
 彼は監督で元日本代表選手だが、性格はやや抜けている。上手い断りや気遣いは子供の豪炎寺から見ても出来なさそうだった。


 きっと、笑ってチョコレートを見せるんだ。


「はぁ」
 溜め息が出た。






 練習が終わって駅前に行き、二階堂の車を見つけると、窓を軽くたたく。
「二階堂監督」
「おお豪炎寺。丁度来た所だよ」
 ドアを開けて、助手席に招く。車内に入れば、鏡から後部座席にチョコレートの入った紙袋が見えた。
「大収穫じゃないですか」
「なにが?」
「……チョコ、です」
「ああ、なんでだろうな。今年は去年より多く貰えたよ」
 これなのだ。こんな事を言ってしまうような男なのだ、二階堂は。
「…………………………………」
 豪炎寺はどうしてもムスッとした顔になってしまう。
「……豪炎寺?」
「なんですか?」
「いや、なんでもない。車出すぞ」
 車を走らせ、木戸川の地へ向かった。
「豪炎寺、途中買い物いいか」
「はい」
 スーパーの駐車場で車を停めて、二人は外へ出る。
「今日は寒いなぁ」
 車の鍵を閉めると、二階堂は豪炎寺の手をそっと握った。
「監督っ?」
「ほーら、行くぞ」
 手を引いて、スーパーの入り口に入ると離す。
「豪炎寺、なにか食べたいものはあるか?」
「暖かければいいです」
「そっか、鍋にするか」
「監督、買いすぎじゃないですか」
「ん?お前もいるだろ」
「でも、多すぎです」
「お前が来てくれるのが嬉しくて、つい」
「…………………………………」
 買い物に気を取られている二階堂は、豪炎寺の赤面に気付かなかった。
 駐車場には二人とも荷物を抱えて戻ってくる。
「買いすぎですね」
「なんとかなるだろ」
 荷物を車に乗せて、二階堂の家に到着した。
「寒いなぁ、今暖房つけるから」
 暖房のリモコンを探す二階堂だが、先に豪炎寺が見つけてスイッチを入れる。
「豪炎寺は好きにテレビでも見ていてくれ。今日は俺が作るから」
「え」
「大丈夫だって」
 二階堂は“部屋が暖まるまで”と囁いて豪炎寺の肩にコートをかけ、台所に入った。


 テレビの音に混じって、台所から調理をする音がする。
 豪炎寺はこたつにもぐってテレビを眺めながら、チラチラと横目で二階堂の様子を伺っていた。どうも気分が落ち着かない。
 二人で調理をするつもりだったのもあるが、チョコレートを渡すタイミングがはかれないでいた。
「豪炎寺。できたぞー」
 鍋をテーブルの上に置く二階堂。ぐつぐつと鳴る音は食欲をそそられた。
「まだ羽織っていたのか、暑いだろ」
 豪炎寺の肩にかけられたままの二階堂のコートを取り、ハンガーにかける。隣に入り込む二階堂は、そうだと何かを思い出し、鞄から出した包みを豪炎寺に渡す。
「豪炎寺、バレンタインだから。これ」
「はい?」
「逆チョコって奴だよ」
「え……。開けても、いいですか」
「もちろん」
 包装を開ければ、美味しそうなチョコレートが入っている。
「今、一つだけ食べても良いですか」
「豪炎寺はどれが好きかな」
「これ、です」
 指差したチョコレートを二階堂はつまんで豪炎寺の口に入れた。
「かん、とく」
 口をもごもごさせて、豪炎寺は上目遣いで二階堂を見つめる。どきどきと高鳴る気持ちを、まっすぐに二階堂に伝えようとする。
「豪炎寺、わかってくれるか?」
「?」
 意外な問いに、目を瞬かせた。
「ん。いや、さ」
 言葉を濁らせ、なんでもない、とコタツの布団を深く被る。
「監督っ」
「なんだよ」
 面を食らう二階堂に豪炎寺は自分の包みを渡した。
「バレンタイン、です」
「あ、有難う……」
 包みから、手作りのものだと察する。
「…………わかってください」
 二階堂の方へ傾き、頭を寄せた。
「うん……」
 二階堂の手が豪炎寺の肩に回され、抱き寄せられる。
 しん、と辺りが静まり、テレビの音が大きくなったような気がした。
 どきどきと高鳴る心音を互いに感じる。心地よいのにもどかしく、何も出来ずに血潮が湧く。
 豪炎寺はあまりにも自分の抱いていた不安が杞憂過ぎて、喜ぶべきなのに切なくなる。
「監督」
 二階堂の衣服を掴み、ぎゅうと握った。
「豪炎寺、鍋食べようか」
「はい。あの、監督……」
「こうして食べようか」
 豪炎寺が話す途中で、二階堂は豪炎寺の身体をそっと離させて、後ろから彼女を抱き込んだ。
「なあ豪炎寺」
 背を屈めて重心をかけ、顔を豪炎寺の髪に埋める。
「なあ、結婚しようか」
 ……………………………え?発するつもりの声が出なかった。
「すまん。気にしないでくれ」
「ホント、ですか」
「え?」
「ホント…………です、か」
 ああ。発するつもりの声が出なかった。


 ぐつぐつと煮える鍋、部屋を暖める暖房。
 箱の中で、チョコレートが溶けてしまう情景を二人は思い浮かべる。
 寒さで固まったチョコが、ゆっくりと溶けて、ぐにゃりと歪む。甘い香りを放って。
 暖かく、甘い空間。想い合う気持ちが、さらに溶けて一つになっていった。







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