誰に教えられた訳でもなく、僕はある日突然気付いたのだ。
たとえこの世に神様がいたとしても。
僕のことなど忘れ去られてしまっているだろう。
僕のこの命は、捨てられ、踏まれ、蹴られ、転がりながらすり減らし、塵になって消えていく。
一枚多めに取ってしまったティッシュのように、神様にも使いどころのわからない、どうでもいいものなのだと。
僕は、知ってしまったのだ――――。
天の滴
開かれた瞳いっぱいに広がる真っ青で高い空。
そこから、ふわふわと羽根のように白くて軽いものが落ちてくる。
どこからか、耳に鐘の音が響き渡る。時を知らせる鐘が鳴り続けている。
「照美くん」
髪を軽くまとめた女性がハスキーボイスで名を呼んだ。
「酷いわ……一体、なにをしたの……」
困り、悲しんだ顔をした。だがしかし、照美と呼ばれた少年にその気持ちは届かない。
心を遮断した彼の目には、扱い辛い問題児に呆れ果てた顔に映った。
「ただの、喧嘩だよ、先生」
声を発すれば、口の中で切ってしまったらしい血液が唾液に混ざる。
照美は傷だらけの身体で地面に仰向けで倒れていた。衣服から露出した肌には痣と擦り傷が覗き、顔も片頬が腫れている。髪の毛は乱れて彼の周りに一部、ぶつ切りになって散乱していた。日に反射して白く光っている。
「すぐに治療しましょう」
女性――先生が屈み、照美を抱き起こそうとしたが彼は痛みに低く呻く。
「さすがに落ちてきたから、痛いよ」
「落ちてきた?」
「あそこから」
照美は視線で、建物の二階を見据えた。
「大丈夫。気にしないで。どうでもいいし」
「照美くん、行きましょう」
照美は抱えられて運ばれ、治療を受ける。
その間に事情を説明させられ、照美と喧嘩をした生徒三人が呼び出された。
喧嘩の原因はささいな意見の食い違いだった。だが怒りを静める感情が不器用な彼らは、殴る蹴るの喧嘩に走ったのだ。三対一では分が悪く、照美は暴力を受けて髪を切られ、二階から落とされた。
喧嘩両成敗で、彼らは一人一人小さな個室で謹慎。
静かで何もない部屋でじっとするのは何度経験しても慣れない。どんなに嫌でも、従うしかない。
日陰で湿った感触がするベッドに照美は転がり、大欠伸をして寝返りを打った。
ここは親のいない、または親と離された子供を預かっている施設。学校のように勉学も教えているが、このような揉め事は耐えない。その中でも照美は頻繁に問題を起こしては個室に閉じ込められている。
施設へ来てしばらく経つが、教師にも生徒にも一向に懐く気配は見せない。急に接してきたと思えばすぐに争いを起こしていた。ちなみに預けられた理由は親に捨てられたから。大人たちは懸命になってごまかそうとするが、照美はわかっていた。捨てられ、預かってくれる身内もおらず、行き着く先がこの施設だった。名字は変わったとかなんとかで、今がどうなったのかわからない。たぶん、呼ばれてもわからない。
「はあぁ」
欠伸の次に息を吐いて、ベッドを転がる。
何もかも退屈だった。何もかも面倒だった。かといって世界は腹立つものに溢れている。
興味のあるものもそれなりにあるが、なんとなくのめりこめない。
かまって欲しい人もいるが、なんとなく近付くのが怖い。
この命を大事に扱われた記憶が薄い。だから、全てが薄く感じ、薄くないものには拒絶を覚える。
「おかあさん」
ぽつりと呟く。
呟いたら、静寂が訪れた。
照美はこれでもかというくらい、忌々しげに顔を歪め“けっ”と声を上げる。
おかあさん。
心の内でもう一度呼んで、枕へうつ伏せになった。
謹慎は三日。まだ半分あるのかとうんざりしていた二日目。直感した人の気配に照美は身を起こす。
こちらです。
扉を挟んで先生の声がした。ベッドに座って扉を睨んでいれば、開かれる。
「照美くん。紹介するわね」
先生が先に入り、後から入ってきた長身の男を見てから照美に笑いかけた。
「この方は影山さん。サッカー協会の方なのよ。影山さんは希望ある子供たちにサッカーを教えているの」
「君は、サッカーは好きか?」
男――影山は細く呟くが、部屋全体に伝わる威圧感を醸し出す。
「しらねー」
照美は正直に答えてやった。
「照美くんっ」
「口の利き方がなってないな」
「も、申し訳ございません……この子は……」
「先生。一体なんなの」
退屈そうに足をぶらつかせる照美。
「影山さんは貴方を引き取りたいと言ってくださったのよ」
「僕を?」
「照美。では、言い方を変えよう」
影山のサングラスの奥の瞳が照美を射抜く。照美の赤い瞳が丸く見開かれ、竦んだようにそらせなくなる。
「何か欲しいものはあるか」
「さあ。すぐには思いつかないね。ありすぎて」
「お前の持ち物はなんだ」
「さあ。すぐには思いつかないね。なさすぎて」
「無いのなら奪え。お前には近付く足と掴む手があるだろう」
影山と照美の瞳が細められた。
「照美。戦いは好きか」
「……嫌いじゃない」
刃物の切っ先のように鋭くなる。自ら獲物に喰らいかかろうとする瞳に、照美は影山に同じものを見たような気がした。共感でも好意でもない、理性を超えた本能の呼びかけを悟ったのだ。
「来るか」
影山の呼びかけに照美はベッドから立つ。
そのまま彼の後ろへついて部屋を出て行く。扉横ですれ違う先生に囁いた。
「先生」
呼ぶだけで先は続かなかった。喉から何かが込み上げて、声にならなかった。
施設の薄暗い廊下から、出口への光が注ぐ。
影山は振り向かずに言う。
「このまま行くが、思い残す事は無いか」
「ない。……いえ、ありま、せん…………」
「照美。お前に名前を与えよう。亜風炉……照美。アフロディだ」
「アフロディ?」
「アフロディーテ……愛、そして戦。最高の美神。勝利し、全てを奪い取ってみせろ。お前はこれからなれる」
照美の口元が密やかに弧を描く。
欲しい。その名前が、欲しい。
純粋に、強烈に思えた。
「影山さん」
「私の事は総帥と呼べ」
「では総帥。僕は、アフロディ、ですね」
「そうだ」
「アフロディ……」
手をそっと握りこみ、拳を作る。開閉させて、奪い取るビジョンを想像した。
神様なんて、いてもいなくてもどうでもよかったんだ。
僕が神になるのだから。
僕はアフロディーテになるのだから。
影山の下でサッカーを始めるようになった照美は、みるみる吸収し、力を付けていった。
出会った頃、乱雑だった髪は丁寧に伸ばして揃え、艶やかに流れる。
更衣室でユニフォームに着替え、中に入った長い髪を取り出そうとした時、ふと照美に昔の記憶が過った。
本当に幼い頃、母が照美の髪をとかし“綺麗な髪ね。まるで女神ね”と言った事を。
確か“僕は男だよ”と照美は笑った。怒る気分にはならなかった。母の手が優しく温かく、この手こそ女神のようだった。
神を地へ引き摺り落とそうとサッカーに打ち込んでいるのに、天へ近付けばあの女神の手が触れてくれるのだろうかと期待しかけた。
「亜風炉、どうした」
なかなか来ない照美を、似た境遇でチームを組んだ仲間が様子を伺う。
「なんでもない」
髪を流し、照美は更衣室を出た。そうして、仲間に話しかける。
「喉が渇いたよ」
「試合前に飲んでおいた方がいい」
「そうする。たっぷり、水を飲まなきゃ」
生唾を飲み、喉をひくりと動かした。
水は、引っ掛かりを全て流し平らにし、道を真っ直ぐにしてくれる。
目標のある照美は、水のそんな所が好きだった。
道の先にある栄光を、奪いたくてしょうがない。
アフロディの名に相応しい勝利が欲しい。
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