春。サークル棟、陸上部の扉を彼は開け放った。
入部希望者かい。誰かが放った問いに、打てば響くような元気の良い声で返事をする。
「はい!」
こうして彼――風丸一郎太は陸上部に入部した。
風の人
第一印象は小柄で、後ろに結われたポニーテールが重そうであった。
しかし、彼が一度グラウンドを走れば空気は変わる。
まさしく名字の“風”のように素早い走りを見せたのだ。部員たちは強い新人が加わり、喜んでいた。
その喜びは、いつしか輝かしいものへと変容していく。風丸の走る姿は一躍、陸上部の名物にまでなった。
しなやかな足、美しい型、揺れる髪。それは人体の形成する一つの芸術であった。
風丸の走りに憧れを抱く入部希望者も現れたぐらいだ。
特に目立ったのは宮坂という褐色の少年。同じ学年だというのに、弟子入りのように“センパイ”と呼び出す始末だ。風丸はやめて欲しいと何度も言ったが聞かず、諦めざるを得なかった。
風丸は走りの才能があるにも関わらず、驕る事などしない、気さくで面倒見の良い性格であった。さらに速さを求める姿勢はストイックさをも感じさせて彼の魅力に加わる。
この時。誰も疑問に持つ者はいなかった。
なぜ、風丸が陸上部に、走るようになったのかを――――
あまりに走る姿が様になりすぎて、自然のものだと思い込んでしまっていたのだ。
問いに辿り着いたのは随分と彼が馴染んでからであった。
ある部活の休憩時間。一人の部員が風丸に問う。
「なあ風丸。どうして陸上部に入ったんだ」
「え?」
風丸はタオルで汗を拭いながら、顔を上げる。本人が答える前に、別の部員が口を挟む。
「小学生から陸上関係だったんですよね」
「いや、違うけど……」
「専らの噂ですよ」
「俺は中学から陸上に入ったんだって。全く、誰が流したんだか」
困る風丸に"じゃあ本当はどうなんだ"と聞いた。
「ああ、友達がさ」
友達。予想外の理由に、その場にいた部員が風丸に注目する。
「友達が、俺の走りを速いって褒めてくれたから」
「…………え、それだけなんですか」
単純すぎる動機に、遅れて反応した。
「それだけだよ」
はは。風丸は笑う。その笑顔はとても幸せそうだった。
きっと、その友達が好きなのだろう。なんとなく、部員たちの脳裏に過った。
一度口にしたせいか、風丸はそれから“友達”の事をよく話題に出すようになった。
“友達”の名前は円堂。
サッカーが好きで、よく風丸もサッカーで遊んだらしい。
同じ雷門中で、サッカー部に所属しているそうだ。
サッカー部。名前を聞いただけで困惑する者も現れた。それもそのはず。サッカー部はサークル棟はずれの古い建物を部室とし、人数もギリギリかつ弱くて評判が悪い。来年には試合の規定人数をきってしまう危険性も兼ね備えていた。
その事には風丸も心を痛めており、円堂の練習にときどき付き合っているそうだ。
風丸という人物を知れば知るほど、彼がどれだけ円堂を慕っているか良くわかった。
「風丸センパイは本当に円堂さんが好きなんですね」
話を聞いていた宮坂が微笑む。横にいた部員も頷いた。
「なんだよいきなり」
照れながらも風丸も笑う。
「風丸センパイが速いって言われて走ったなら、飛べるって言われたら飛んじゃいそう」
「そりゃ無理だって」
皆で声を上げて笑い合った。
あの頃はただの笑い話であった。運命の変化の兆しなど、誰も気付いてはいなかった。
あれから月日が過ぎて、風丸は陸上部を止めてサッカー部へ行ってしまった。
寂しい事は寂いし、傷付いたが驚きはしなかった。
いつしか、そうなる事を感じ取っていたからだ。風丸の目指すべきゴールは、この陸上のグラウンドにはない。彼は近い将来、ここを抜け出してもっと広い場所へ羽ばたいていくのだろうと――――
漠然とした予感が的中したに過ぎない。
廃部寸前だった弱小サッカー部はフットボールフロンティアに出場し、全国への進出を決める程の脅威の成長を見せた。風丸は本当に羽ばたいて行ってしまった。彼はこれからも円堂が導く高い空へと飛んでいくのだろう。
「あーあ」
昼休み。陸上部室の窓に寄り掛かった一人の女生徒が、校内新聞を広げていた。そこにはサッカー部の試合結果が大きく載っている。写真にはかつて陸上部に在籍していた風丸の姿があった。
「どうしたんです」
たまたま部室に入ってきた宮坂が言う。
「聞いてくださいよ宮坂さん。私、風丸先輩に憧れてここに入ったんですよ」
「奇遇ですね。オレもです」
「風丸先輩、サッカー部に取られちゃいましたね」
「ですねえ」
女生徒が横へ動き、宮坂が窓を開ける。
「戻って来てくれないかな。そうしたら頑張れるのに」
口を尖らせる女生徒。宮坂は笑うだけで、窓の外に頭を出した。
「今日は良い天気だ」
真上に昇った太陽が眩しい。見上げれば、目は自然と細められる。
宮坂は思う。陸上部が抱える風丸への想いは、たぶんこんな感じなのだろうと。
遠い眩しい存在に、目を細めてしまうような。しっかりと見据えていたいのに、どうしても目を細めてしまうような。ずっと見ていると辛い。けれど、存在を感じれば暖かく心穏やかになる。沈めば暗く、凍えそうになる。手を伸ばしても決して届かない、遠すぎる永遠の憧れ。
「眩しいなあ」
口に出してみれば、空回りしている気分を覚えた。
一方その頃。風丸は円堂と屋上で昼食を終え、食休みでくつろいでいた。
「なあ風丸」
床に大の字に転がり、円堂が口を開く。
「俺、突然思い出した。今だから聞くけれど、なんで陸上部に入ったんだ?てっきりサッカー部に入ってくれるものかと思っていたのに」
隣で膝を抱えて座る風丸が笑う。
「円堂。お前のせいだよ」
「俺?」
「そう。お前が俺の足が速いって言ったからさ。どこまでやれるか試してみたかった」
風丸の瞳が円堂を横目で見下ろす。
「嬉しかった。自信がついた。違う部でも、俺はいつも円堂を感じていたよ」
「…………………………」
円堂の頬に赤みが差し、額のバンダナをずらして目元を隠した。
「……俺も感じていたよ。今、吹いた風とかを感じて」
「今、作っただろ」
「…………………………」
「別に同じように考えてくれなんて言わないさ。あの頃はほら……お前は大変だったし」
「いやでも俺はさ……その。風丸……」
バンダナを上げ、風丸を見上げる。
「これからも宜しくな」
「なんだよ改まって。変な奴」
笑う風丸の頬は上気していた。
こうして言葉にする事はあまりないが、どこにいても、例え別の道を歩いていても、円堂と風丸は互いの存在を感じていた。これから大変な事はそれなりにあるだろうが、それでもこの感覚は失わない。そうでありたいと二人は願っていた。
ずっと、ずっと、二人の心は一つ。今、目で通じ合う想いが交差した。
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