もう駄目だ。
 この想いは溢れて零れて、抑えきれない。



神の手



 風丸は昼休み、校舎の人気の無いトイレの個室に入った。
 近くには特別教室しかないので、使用する人間も前を通る人間もほとんどいない。
 今の風丸のような、悩みを抱える人間が度々使うくらいである。
 個室の中は学校という喧騒から切り離された、静かな空間であった。便座を閉じ、その上に座り込む。
「はあ」
 溜め息を吐いても聞く者はいない。
 瞳を閉じると、浮かんでくるのはそんな息を吐かせる原因の人物。


 風丸!ボールそっちに行ったぞ!


 真っ直ぐに風丸へ声を向けるキャプテン――――円堂。
 今日の朝練は大会も近い事もあり、皆動きに冴えがあった。
 円堂が一人一人にかける声が、風丸にもかけられる。
 かつて廃部寸前のサッカー部で一人諦めず練習に励んだキャプテンは、多くの信頼できる仲間に囲まれて、フットボールフロンティア優勝の夢に向かって走っている。
 昔一緒にサッカーで遊び、時に夢を語り、時に部の悩みを聞いたり、練習に付き合ったりした陸上部の風丸も、今同じ仲間として円堂と共に同じ夢に向かっている。
 円堂とのサッカーは楽しい。円堂のサッカーを愛する気持ちが純粋で真っ直ぐで、直接魂に訴えかけてくるのだ。円堂の思いが心に届く度、円堂の思いは変わらないのに、風丸は己の心が変わりゆくのを感じていた。


「はあ」
 二度目の溜め息。
 胸に手をあて、心音を確かめる。
 こんな想い、気付かねば良かった。何度後悔しても一度知ってしまえば忘れられない。
 円堂が好きだった。友人として、仲間として、男として。
 円堂の男性的魅力に目がつくようになった。男が男に惚れるとでも言うのか、性的な視線で見ている自分がいるのだ。
 自己嫌悪にも陥った。誰にも相談できず、苦しく、辛く、孤独を感じた。
 心が削られる中、いつしか風丸は自分で自分を慰めていた。
 深みに嵌っていくだけなのに。
 何も解決はしないのに。




「ん」
 低く喉で呻き、風丸は下肢に手を伸ばしてベルトに手をかける。
 外してズボンのチャックを下ろしたら、腰を上げて下着ごと下ろして座り直す。
「うっ…………」
 直接肌に伝わる便座の冷たさ。これからする行為への罪悪感に風丸は固く目を閉じた。
 暗闇に染まる世界の中で円堂の姿を思い起こす。
 そして自身に柔らかく触れる。
 円堂守が風丸一郎太の下肢を曝け出させ、股を割らせて自身を握るイメージを、風丸は懸命に想像した。


『俺の円堂はまずこんなに優しく触らない』
『もっと強く、ムードなど考えずに握ってくるんだ』
 風丸の手に力が入り、自身を強めに握り込む。さも円堂がしてくれているように。


『円堂は俺の姿を見てどう思うんだろうか』
『円堂の事だから、一緒に脱いで自分のと見比べたりするのだろうか』
『円堂は俺を不安がらせないように、優しく笑う』
 円堂、円堂、円堂……。風丸の中の円堂が優しく笑ってくれたような気がした。


『でも円堂は雑に俺のを弄ってくる』
『激しく擦って、俺が気持ちよくなるのを無邪気に観察してくるんだ』
 自身を握る手を上下すると、快感が突き上げてくる。円堂がしてくれていると想像すれば想像するほど、風丸の心音は高鳴り、頬が上気してくる。
「あ…………はっ………」
 息が乱れ、口内に唾液が溜まるのを覚えた。
 普段は冷静な振りをしていても、円堂が強く求めてくれば崩れてしまう。
 本当は円堂を強く求めている。
 本当は円堂の事ばかりを考えている。
 本当は円堂の事になると、いやらしくてあさましい。
 円堂に触れられたい。腕や肩だけではない、髪に素肌に、秘められたあんな部分も。
「……………………ん……。……あ………っ……」
 苦しい。何もかもが苦しい。
 恥ずかしい。狂いそうなぐらい恥ずかしい。
 一人で処理する時よりも、円堂をおかずにした方が何倍も興奮した。
 証拠に自身は血液を集め膨張し、とめどない蜜を溢れ出して手や周りを汚してしまっている。壊れてしまいそうだ――――


『円堂、そんなにしないでくれ』
 風丸は許しを請う。その先の言葉が思い浮かばず、首を横に振った。
『円堂……。円堂はずるい。なんで俺ばっかり』
 不満をこぼした。円堂に一方的に翻弄され、乱され、自分ばかりが割を食っている気分になったのだ。
『俺だって、円堂に』
 円堂にしてあげたい事を想像して、一人羞恥する。
 円堂に触れたい。
 円堂に悦んでもらいたい。
 円堂に気持ちよくなって欲しい。
 円堂に…………。
 思うだけ思ってやめた。そんな事出来はしないのだから。だって――――
 立たされている現実に振り返ろうとした時、今日の朝に笑いかけてくれた円堂の顔が現れる。
「えん………ど………う」
 名前を呼べば、口の端からはしたない唾液が伝う。
 声に出して呼んで、とうとう快楽が駆け抜けた。
「ああ」
 白濁の欲望を吐き出し、風丸は目を開ける。


 ぐしゃぐしゃに汚れた己の手の先に、円堂はいない。
 あるのはトイレの白い壁であった。


「………………………」
 きつく噤む唇が歪む。堪えきれず、涙が流れる。
 虚しさか。円堂への申し訳ない気持ちか。様々な気持ちが入り混じり、泣きたくなった。
 トイレットペーパーを多めに出し、体液と涙を拭う。
 衣服を正し、消臭剤を使い、個室を出たら用具入れより簡易掃除用の薬の染み込んだ布で丹念に拭き取る。これで恐らく、風丸が己を慰めた跡は薄まっただろう。
 水で手を洗い流し、鏡で再確認をして何事も無かったようにトイレを出た。
 そうして教室に戻り、何食わぬ顔でクラスメイトに笑いかける。




 放課後、サッカー部の部室へ行くと先客に円堂がいた。彼はいつも一番乗りであった。
 着替え途中の円堂の裸の背中が見えて、風丸は反射的に目を逸らす。
「風丸、早いな」
 くぐもった声で円堂が話しかける。
「円堂ほどじゃないさ」
「ああ、そうだ」
 円堂はユニフォームの上着から頭を出し、風丸を見た。
 乱れた髪を整えず、話を優先させる所がいかにも彼らしい。愛おしさに目を細める風丸。
「風丸、最近調子は良いけど元気がなさそうだな。悩みでもあるのか?」
「大丈夫だよ。円堂こそ大会が近いのはわかるけれど、あまり根詰めるなよ。試合でバテたらどうするんだ」
「はは、試合が楽しみで眠れなくなるなんてのに気をつけなきゃな」
「そりゃそうだ」
 円堂が笑えば風丸も笑顔になる。
「風丸」
 改まったように円堂が呼べば、風丸の表情が固まった。
 歩み寄り、円堂は言う。
「何かあったら俺に言えよ!」
 風丸の肩を叩き、発破をかける。
「わ」
 肩が上下し、変な場所から声が出た。
「悪ぃ、強かった?」
「いや、違う」
 愛想笑いを浮かべ、首を横に振った。


 違う。
 悩みなんて言えない。
 お前にだけは言えない。
 言ったら顔向けできない。


 円堂が叩いた、触れてくれた感触がやけに残っていた。







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