朝の練習を終えて部室に戻る雷門中サッカー部。
 ユニフォームから制服に着替えると、円堂は鞄の中からパンを取り出した。
 授業が始まる前の腹ごしらえである。食べ盛りの中学生は、動けばすぐにお腹が空いてしまう。
「俺も食べるかあ」
 風丸も鞄を漁りだした。
「俺たちは行ってるぜ」
 他の仲間たちは次々と出て行き、校舎へ向かう。
 残されたのは円堂と風丸の二人だけとなった。



ジャムパン



「なあ、風丸。それ」
 円堂は風丸の食べている物を問う。
「ジャムパン」
 疲れた時には甘いものが欲しくなる。
「ふーん。俺はヤキソバ」
 時間はあまりないので、詰め込むように大口で食べていく。
「さ、行くかな」
 風丸は口をもごもごさせて鞄を肩にかける。
 そんな彼の横顔を見て、円堂は気付いた。
「風丸」
 名を呼んで、自分の頬を突っついた。
 口元にジャムが付いているのだ。
「ん?なに?」
 風丸はわからない。
「だーかーらー」
 円堂は顔を寄せて舐め取った。
 風丸が硬直する。
「ジャムが付いてるっての」
 顔を離してから説明する。


「…………………………………」
 風丸の顔がみるみる赤く染まっていく。そして次の瞬間、怒り出した。
「言ってくれれば良いだろ!」
「怒る事無いだろ。たかだか舐めたくらい」
 ほら。と、もう一度唇を舐めてみせる。
「ふ、ふざけんなっ」
 風丸は後ろに下がり、壁に一度ぶつかってから部室を出て行く。
「だから怒んなって」
 一人円堂は呟いた。
 そういえば風丸は口移しなどをあまり好まなかったと思い返す。
「悪い事したかな」
 なんとなく頬を掻く。
 風丸の怒った顔が脳裏に焼き付いて、なかなか離れてくれない。
 嫌がる事をしてしまった罪悪感が募っていった。
 授業中、ふと“このままではいけない”と何かが閃き、昼休みに風丸を屋上へ呼んだ。


「朝はごめんっ」
 手を合わせて詫びる。
「風丸、ああいうの嫌いだったよな。すっかり忘れてた」
「いや……俺の方こそ怒りすぎた。すまない」
 風丸も謝る。謝り合ってこれで“おあいこ”で済むのだが、つい円堂の口に視線が行き、風丸は胸が疼いた。
 ああいった行為を嫌うのは潔癖だからではない。意識をしてしまう嫌悪感が嫌なので避けているだけだ。
 幼い頃、似たような事を円堂されて芽生えた意識。純粋な好意とは異なる何かに、苦しみもがいた。正体に気づいたらさらに苦しくなった。逃れる術として、いつしか避ける事を覚えた。
 怒ったのは恐らく自分自身。動揺してしまった己に怒りが湧いたのだ。


 俺とお前は友達以上でも以下でもないさ。
 円堂がそう望んでいるし、俺もそれで満足している。
 言い聞かせるように風丸は思う。


 顔は平然としていても、風丸の些細な機微を円堂は逃さなかった。
 風丸が謝ったのは、たぶん俺が謝ったからだと思い込む。そこで円堂は授業中に考えていた案を出した。
「あのさ、風丸。俺考えたんだよ」
「なにが?」
 この話は終わったんじゃないのか。人情の熱いキャプテンの暴走の予感がする。
「俺の唇を舐めろ。これでおあいこだ」
「その……怒ってないからさ」
「いいや!風丸は怒っている!」
「なんでだよっ」
 訳が分からない。
「俺の気が済まないんだよ!」
「自己満足かよ!」
「そうかもしれない!」
 円堂は納得のいかない事があると、とことんしつこい。
「な、風丸」
 両肩を掴んだ。二人の距離が近付いて、視線を逸らそうとした瞳は円堂の真っ直ぐな瞳に射抜かれて動けない。
「俺は……そんな……」
 どう何を言えば良いのか、困惑する風丸。心音が鼓動を速める。
 本来ならこれはチャンス。円堂が納得した上で彼に触れられるのだから。
 しかし、彼に“その気”はない。その気は無いのに、期待させて隙を見せる。無意識で性質が悪い。
 円堂の何気ない行動が風丸の心を悪意なく乱す。胸の奥に溜め込んだ思いをぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。
 酷い男だ。憎らしささえ抱く。けれど嫌いになれる程、楽にはなれない。
「円堂……これはおあいこじゃない」
 胸に手をあて、忙しい心音を抑えながら放つ。
「だって、円堂は舐めても嫌がらないだろ」
「…………………………」
 円堂は瞬きし、風丸を見据えたままで思考を巡らせる。
「んー……そうか……」
 煮え切らないらしいが、納得はしてくれたようだ。
「なら、俺は俺の嫌な事をしよう」
「そう」
 勝手にしてくれ。心の内で突っ込む。
「でもちょっと残念だ」
 はは。少し困った顔で円堂は笑う。
「風丸がしてくれたら、面白いと思っていたから」
「面白いってなんだよ」
 顔が熱くなる。
「そうやって言い返してきたり、そんな顔するの。俺、意地悪かな」
「知るかよ」
「そうだな。ごめんな」
 円堂は肩を解放させた。
 あと少し届きそうな距離で、彼はこうやって離れてしまう。
 まるで浮いた綿毛を掴むような、ふわふわと捉えどころが無い。
「おっと」
 円堂はまた両肩を押さえた。
「え?なに?」
「いや、なんとなく」
 本当になんとなくであった。何となく、風丸を離してはいけない気がした。
 僅かな変化には気付くのに、その奥底には気付かない。




 そして、放課後の練習は円堂の奇行がチームを惑わした。
「キャプテン、何やってるでやんす……」
「俺の事は気にするな」
 円堂はベンチに座り、ひたすらボールを磨いている。
「今日の俺は、お前らの楽しそうなプレイ姿を眺めながらボールを磨く事にした」
 たぶん、これが円堂の言った“嫌な事”なのだろう。
 事情を知る風丸以外は、何か悪い物を食べたのではないかと囁かれていた。
「ああ、サッカーがしてえ!」
「すれば良いじゃねえか」
 円堂の叫びに律儀に突っ込む染岡。
 結局、とうとう円堂がボールを蹴らずに練習は終わってしまった。
 皆が帰って行く中で、ベンチにいる円堂の後ろに風丸は回る。
「円堂」
「風丸、これは堪えるぞ」
「円堂」
 二度呼びかけられ、円堂は振り向く。
 ぼやける風丸の顔、唇に感じた生暖かい感触。してやられたと円堂は悟る。
「なにするんだよっ」
 反射的に横に動いて風丸から離れた。
「ほら、これでおあいこさ」
「そうだけどさ」
 笑う風丸に、今度は円堂が腑に落ちない。
「また、やり返して良い?」
「そういうの、イタチゴッコって言うんだぞ」
 呆れた気持ちになるが、胸の中はどこか清々しく、温かな気持ちが宿っていた。







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