昔の夢を、見た。
指先
静寂で、無臭、無色な――――灰色の世界。
荘厳な石の廊下を地木流は歩む。
重々しくも精巧な細工の施された扉の前に立った。
手で触れて、押して開く。
開いた途端、地木流の顔の横を一片の赤い花びらが舞う。
そこには色付く世界があった。
赤、青、黄、鮮やかな花が飾られ、鼻腔を香りがくすぐる。
雲一つ無い青空の下、同じように真っ青な水面の上に浮かぶ白い建物が見える。
耳に手をあて、静かに目を閉じると美しい歌声が聴こえた。声の主は、恐らくあの建物の中にいる。
無意識に足が動き、引き付けられるように前へ進んでいた。
建物の中央で歌う一人の女性。
一目見るなり、地木流の白い頬が色付いた。
美しい声、魅惑的な香り、芸術的な姿――――彼女は全てが完璧だった。
地木流の瞳が細められ、視線は彼女の爪先に向けられる。
艶やかで、長い爪であった。真っ赤な色に染められていた。
流れたての鮮血のような、真っ赤な色に染められていた。
彼女は、魔女だ。
殺される。
直感したのだ。
生と死の狭間の潰れそうな鼓動が、身を焦がす恋の高鳴りへ変わりゆく――――。
「……………………は………」
地木流の瞳が開かれる。
アンティーク調の天井と、小さなシャンデリア型の照明が映った。
「はあ」
身を起こし、額に手をあてて息を吐く。
夢を見ていたようだ。恐らく、昔に恋した人の夢を。
若い頃、地木流は全てが完璧だった魔女に恋をした。騙され、手にかけられ、殺されかけた。なのに、だ。地木流は今もこうして彼女の夢を見ていた。
強烈な刺激が、死に直面するほどの危険な狂気が心を離してくれないのだ。
それ以来、好みの女性のタイプを聞かれた時は全て“魔女”だと答えている。
「さて、と」
頭蓋骨の形をした目覚まし時計で時刻を確認して、ベッドから下りる地木流。
今日の予定は練習試合がある。相手は先日、雷雷軒で出会った二階堂が監督を務める木戸川清修だ。
試合自体は楽しみではあるが、地木流は雷雷軒への出来事から二階堂自身に興味を持っていた。何の変哲も無いただの人間ではあるが、好きになれそうな予感がしていた。
可愛い教え子たちを除き、そんな感情を持つのは久しぶりであった。久しぶりの感覚は気持ちを逸らせ、待ち遠しい思いが募る。どこか表情も柔らかい。
だが、洗面所に立って己の姿を映し出すと、もう一人の自分が立っていた。普段の温和な性格とは異なる、凶悪で残酷な正反対の自分が。
久しぶりの感覚は、狂気さえも呼び起こしていたのだ。感情が高まれば高まるほど、歪んでねじれて引っくり返る。
「楽しみだ……」
唇から赤い舌を覗かせ、なぞって濡らして仕舞い込んだ。
支度を整えて玄関でゴミ袋を持って外を出る。さっそく近所の老婆に出会い、にこやかに会釈をした。ちなみに内装は地木流の趣味を追求しているが、外装は普通の家だ。
練習試合は尾刈斗が木戸川へ遠征して行われる。説明を受けた尾刈斗の選手たちは、学校独特の陰鬱な雰囲気を放ちながらも浮かれて電車に乗った。彼らは電車が大好きなのだ。
「ねえ地獄行きだったらどうする」
「わーやばいね、うん、やばい」
もしも乗った電車が地獄行きだったら?という想像を巡らせる選手。
「爆弾ついていたら木っ端微塵だよね」
「跡形もないとか、イカすよね」
もしも乗った電車に爆弾が取り付けられていたら?という想像を巡らせる選手。
微笑ましい様子に地木流もにこにこと笑みを浮かべた。
木戸川清修近くの駅に降りると、太陽の強い光に反射的に顔を覆う尾刈斗選手。今日は天気が特別良く、木戸川の地へ着く頃には太陽が昇ってさらに眩しくなる。尾刈斗の選手たちは日光が苦手であった。監督である地木流もあまり得意では無い。
「天気予報、曇りじゃなかった?」
「もう呪うしかないね」
予報に文句を言い出す。
「落ち着きなさい。ほら木戸川清修が見えてきましたよ」
地木流の指す方向に学校が見えた。
校門を潜れば、さっそく監督の二階堂が数人の選手を連れて挨拶をしに来てくれた。
「ようこそいらっしゃいました」
「おはようございます二階堂監督。ほらお前たち、木戸川清修の監督さんだよ」
「宜しくおねがいします」
見た目は個性的ながらも、尾刈斗の選手は礼儀正しく挨拶をする。
「こちらこそ宜しく」
二階堂の後ろに控えていた木戸川の選手も挨拶をした。
「おや」
不意に地木流が声を上げる。
「どうしました?」
「なかなかセンスのあるユニフォームですね。気に入りました」
「有難うございます。試合が終わったら交換でもしましょうか」
二階堂の案に地木流は“是非”と答えた。
選手を先にグラウンドへ向かわせ、最後尾で二階堂と地木流は会話を交わす。
「いや……実に良いユニフォームです……」
木戸川の選手の背中を眺め、しみじみと地木流は言う。恍惚とした瞳で、静かに細める。
「真っ赤で……」
「は、はあ」
相槌を打つ二階堂。地木流という人はどうもわからない。
彼の表情と声はどこか浮いているような気がした。まるで仮面でもしているかのように、顔面と血肉に隙間を感じるのだ。その薄い仮面越しにすぐ立っているかのように、彼の本質の気配を感じているのだ。
彼は危険だ。傍にいるだけで肌がぴりぴりとする。だが、離れられる術が見つからない。
中学サッカー部の監督同士。まさに出会うべくして出会った、必然の関係なのだから。練習試合の話題が出た時も断る理由が無かった。
「二階堂監督」
地木流が呼ぶ。
「貴方も赤が好きそうに見える」
「そう、見えますか?」
「ええ」
「そうですね……赤は……好きですね……」
独り言のように二階堂は呟く。
ただの好きな色の話題。有り触れた、赤という色。
それなのに、深みへ一歩踏み込んだかのような気分になる。一度入ったら最後の一本道を。奥へ奥へと進んでいくしかない道を。
試合は気合を見せた木戸川と全力で戦う尾刈斗の一進一退の接戦であった。良い試合だと言える。
「ふう」
ベンチで地木流は息を吐く。
胸ポケットからハンカチを取り出し、額を拭う。どうにも日差しが眩しい。
尾刈斗の選手も参ってしまったような様子を見せるのが数人いる。なんとか誰もダウンせずに試合が終わるが、試合後に問題は起きてしまった。
「……………っ……」
終了後の握手で、武羅渡が倒れてしまう。夜に活躍を見せる彼には、日差しの中での長時間の運動は堪えたようだ。
「これはいけない」
すぐさま二階堂が行動に出る。
「先生が彼を保健室に連れて行くから、西垣、武方たちは日陰の方へ尾刈斗の方たちを案内なさい。飲み物はマネージャーが用意しておくように」
「はい!」
二階堂の指示で動き出す木戸川の選手たち。二階堂、武羅渡、地木流は保健室へ向かった。
今日は休日で教師はおらず、まずは武羅渡をベッドで寝かせてから氷嚢と霧吹きと水を用意して処置をする。
「助かります」
「今日は暑いですからね」
休んでいる武羅渡の空間にカーテンをかけた。
二階堂は教師の机に置かれている用紙に、使用した旨を記載する。
「ふう」
「地木流監督も水分を補給した方が良いですよ」
息遣いに気付き、顔を動かさずに二階堂が言う。
はい、と地木流が返事をしようとした時、二階堂が声を上げる。
「つぅ」
カーテン越しの武羅渡の鼻がひくつく。
「どうされました、二階堂監督」
「紙で指を切ってしまったようです」
切ってしまったらしい人差し指の傷を親指で擦って傷を確認した。
「いたた」
たかが紙、されど紙。二階堂の指に薄っすらと血が滲む。ざっくりとしたものではないが、浅くはなかった。
「大丈夫ですか。傷を見せてください」
「いえ、大したものではありませんので。絆創膏を貼っておきます」
「では絆創膏を持ってきます」
木戸川の人間では無いが、すぐに絆創膏の入った棚を見つける地木流。
「有難うございます」
絆創膏を受け取ろうと伸ばした二階堂の手を、地木流が捉えた。
そのまま引き寄せて、傷を見下ろす。伏せ目がちな瞳は正面で見ると、ぞっとする程美しかった。
唇が薄く開き、微かな水音を立てて、そこから赤い舌が現れる。
ひたり。指に触れた。
蛇のように舌先で這い上がり、滲んだ血を舐め取る。
指先に神経が集中しており、二階堂は身震いをした。地木流の瞳が動き、二階堂の瞳を見据える。
「痛かったですか」
思うように声が発せず、首を横に振った。
「なにか私は貴方に怖がられているようですね」
地木流は絆創膏のテープを剥がし、指に巻いてやる。
避けられているような気はしていた。今、見詰め合って確信を得た。
「とって喰われるとでも思ってません?」
喉で笑って、続ける。
「そうだとしたら光栄ですね。私、あなたに興味があるので」
捉えた手を包むように握る力をこめた。
「貴方の恐怖が好意に変わったら、それはさぞ素晴らしいでしょう」
もうどう対応したら良いのかわからない。二階堂の表情が強張る。
「貴方は私の事を好きになりそうに思える」
好きかもしれない。
そんな予感は“好きになってくれそう”という期待に変わる。
期待だなんて、まるで恋のようだった。
必然が紡ぐ運命は、一度巡りだしたら止まらない。
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