それは、天へ舞い上がる。



福音



 しらじらと照らす朝の光。
 ミスターKこと、海外へと渡った影山はイタリア街を歩いていた。
 特に用事もない、ただの散歩だった。それなのに、影山にとってはライオコット島に訪れてからの日課になっている。
 普段なら移動は車で、散歩自体しない。この町には――――いや、この島には影山に変化をもたらすなんらかの力があった。島への生活を始めてから、影山の習慣は明らかに変化していた。


 ――――なぜ、私はこの島へ来た。
 影山はよく、そんな自問自答を脳裏で繰り返す。
 来た理由はサッカーへの憎しみの矛先が、フットボールフロンティアインターナショナルに向いたからだ。そう、思っていた。
 なのに、だ。本当にそうかと己の心が揺らいでいる。


 イタリア街は水が流れ、ゴンドラが行き交う。
 大会という華やかさの中に、緩やかな雰囲気が漂った。
 影山は川を渡ろうと橋へと足が向く。
 すると向かい側から、球を蹴る音が聞こえてきて眉を潜めた。
 音だけで、サッカーボールだと悟る。
 次第に音は大きくなっていき、相手の姿が見える――――その時だった。


 ゴーン…………。
 鐘の音がした。
 ゴーン…………。
 音に、街は目覚めるように活気が灯る。
 ゴーン…………。
「…………………………………」
 影山の瞳が、前を捉え、見開かれた。
 鳥たちが一斉に空を羽ばたいていく。朝日を浴びて羽は真っ白に輝き、青空へと吸い込まれていった。
 向かい合う相手の足元でボールが動きを止める。
 青いユニフォームの胸元に刻まれたオルフェウスの印――――フィディオであった。
「…………ター………K……?ミスターKですか」
 驚きで声にならなかった言葉を言い直す。
 彼に呼ばれて、自分はこの地では“ミスターK”と名乗っていたと思い返す。街の空気に流され、忘れかけていた。
 二人は無意識に足を止め、向かい合う。
「こんな時間から、貴方に会うとは驚きました」
 目は口ほどにものを言う。フィディオの表情は呆気に取られていた。
「……今の鐘は、なんだ」
「あっちに、教会があるんですよ」
「そうか。教会か」
 妙に納得したように影山は言う。フィディオは足元のボールを拾い上げ、影山に歩み寄る。
「突貫工事でも良く出来ていますよ。場所、お教えしましょうか?」
「……結構だ」
「そう言うと思いました」
 答えるフィディオは肩を竦め、少しだけ困った顔をした。
「では、俺は行きます」
 横を通り過ぎるフィディオ。けれども彼は足を止め、振り返ってある方向を指差す。
「あそこの店、美味しい朝食がありますよ。まだでしょう?…………それでは!」
 ボールを浮かせ、足で受け止めてフィディオは駆けて行った。
 影山は指でサングラスのフレームを押し上げ、フィディオが指した店へと向かう。確かに朝食はまだであり、行きたくはない理由もなかった。


 店の中に入れば、ふわりと食欲をそそる香りが鼻孔をくすぐる。
 案内された席に座れば、丁度反対側にいた別のオルフェウスのメンバーが焦りだすのを背中から感じ、不思議とおかしかった。
 食事を終えて練習が始まり、休憩時間になると、さっそくフィディオにメンバーが言いつける。ひそひそ話でも影山の耳に届いていた。
「フィディオ!聞いてくれよ!俺たちの行きつけの店にミスターKが来たんだ。まったく、勘弁して欲しいぜ……」
「あ、ごめん。俺がミスターKに紹介したんだ」
「なんで!」
 思わずメンバーに胸倉を掴まれるフィディオ。
「え……いやぁ……朝食まだみたいだったし、あそこ美味しいし。サッカーとご飯は関係ないだろう?」
「はぁ〜……なんで言っちまうかなぁ」
 解放され、盛大な溜め息を吐かれる。仲間たちはフィディオらしいと責める気持ちは失せてしまった。
 詫びながらもフィディオは笑っており、脱力していた仲間たちにも笑みが宿る。
 横目で覗いていた影山は、サングラスの奥で瞳を瞬かせた。


 なぜだかその光景は、随分と懐かしく感じる。
 二度と戻らない、二度と帰れない、遠い日。遠すぎて、掠れてしまうあの日々。この異国の地で思い起こすとは、考えもしなかった。







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