たくさん、話したい事があったのに。
桜の季節
春。桜咲く季節。
音無春奈は雷門中に入学する。
部活は新聞部に入り、新生活に慣れてきた頃であった。
「あれ?」
新聞部のある文化部棟の前を、クラスメイトの同級生がうろうろと行っては引き返すを繰り返している。
「どうしたの」
声をかけると、同級生の顔は輝く。
「ああ音無さん。良かった……貴方は新聞部だったよね」
「うん」
「ねえ、新聞部に用事があるの。一緒に来てくれないかな」
入学したばかりの一年生では、行き慣れない場所は戸惑うのだろう。
「良いよ」
快く了承する。
音無は同級生と共に文化部棟に入り、二階にある新聞部部室へ向かった。
「えーと」
おどおどと部屋の中を覗く。
音無の先輩に当たる女生徒と目が合うと、彼女は扉の方まで歩み寄ってきた。
「あんた、どうしたのよ」
「お姉ちゃんのせいだよ」
どうやら二人は姉妹のようだ。
「これ。今日、部活で使うって言ってたじゃない」
鞄からファイルを手渡す同級生。
「あっ……。やっぱり忘れてたんだ。助かったよ」
「じゃあ私行くね。音無さんも有難う」
同級生はぱたぱた階段を下りて行ってしまった。
手を振って見送り、女生徒と部室に入る。
「あーこれこれ。ホント助かった〜」
女生徒はファイルに頬擦りして椅子に腰掛けた。
「音無さん、あの娘と知り合い?」
「はい。同じクラスです」
隣に腰掛けながら答える音無。
「仲、良いんですね」
「えっ?そんな事ないないっ。家じゃ喧嘩ばっかりだって」
「そうなんですか」
相槌を打ち、笑った。
「ねえ音無さんは兄弟いるの?」
「私、一人っ子ですよ」
「良いな〜。なんでも独り占め出来てさ」
「そんな事は……無いですって」
笑顔に苦味が混じった。
部活が終わり、音無は河川敷を歩いて帰路を歩く。
音無の両親は幼い頃、事故で亡くなった。その後、施設に預けられ、今の家族に引き取ってもらった。
その家には他の子供はおらず、一人っ子である。
「…………………………」
鞄を持ち直し、気持ちを切り替えようとするが、浮かんでくる人物を掻き消せなかった。
音無には血の繋がった兄がいる。名前を有人といった。
優しくて、温かくて、頼れて、サッカーの得意な兄だった。自慢であった。施設の友達には兄の事ばかりを話していた。
それは全て過去。二人は別々の家に引き取られた。
兄は“鬼道”という金持ちの家へ行った。
離れ離れになっても連絡は取ろうと、何度も何度も電話をかけたものだ。
しかし全く彼は現れなかった。
都合が悪かったのだろうか。それとも何か失言をしたのか。
理由を言ってくれないとわからないのに、答えは全く返って来ない。
いつからか自分の存在が兄にとって恥なのではないかと思うようになった。
悪い考えは否定したかった。だが“そうなのかもしれない”と思い込みが次第に強まってきた。
中学を入る際に一つの決め事をした。
お兄ちゃんが私を忘れるなら、私もお兄ちゃんを忘れよう、と――――
もう一緒に生きられないのなら、双方それが良いのだと。
寂しい選択だが、家族は優しいし、友達もいる。十分、幸せであった。
「私は音無……」
名字を口にし、胸元の生徒手帳に手を当てようとした。
「あれ?」
手帳の感触が無い。確かめると、入っていなかった。
「えっ、そんな」
立ち止まり、荷物を調べる。どこにもない。
手帳の中には、家族の写真が入っているのだ。一枚きりではないが、もう二度と撮れないものである。
「……落とした……?」
慌てて来た道を引き返した。
とうとう雷門まで戻ってしまった音無は、校門前で手帳をやっと見つける。
「もー、何やってるんだろう」
取り返そうと小走りで駆けると、偶然通りかかった生徒が屈んで拾う。
「すみませんっ。それ私のですっ」
「そうなの?走ると危ないよ」
生徒は黒髪のジャージを羽織った女性だった。彼女は軽く埃を払って音無に返す。
「有難うございます」
受け取る音無。けれどもその視線は、彼女の脇に抱えられているサッカーボールを見据えていた。
「私、サッカー部のマネージャーなの」
「サッカー部……」
呟く脳裏に、部の仲間たちの噂が蘇る。
雷門サッカー部は人数が足りず、ろくに試合も出来なかったはず。
「試合できる人数もいないんだけどね」
「え、あ、その」
丁度思っていた事を言われ、つい反応に困る音無。
「でも大丈夫よ。知り合いにサッカー好きな子いたら是非呼んでね」
「は、はあ」
マネージャーは耳元に手を寄せ、後ろを見やる。
「誰か呼んでるみたい。まったく用があるなら自分から来なさいってねえ。ちょっとだけ足が速くなるかもしれないのに」
困ったように、けれどどこか満更でも無さそうに笑う。
軽く手を振り、音無とマネージャーは別れた。
そしてまた音無は帰路を再び歩き出す。
同じ河川敷の道を歩けば、さっきは気付かなかったグラウンドでサッカーをしている子供たちを見かけた。
兄とサッカーで遊んだ時を思い出す。実力が全く違うのに、ちっとも手加減をしない。しかもからかってくる。隙を見せて取れる可能性をチラつかせ、圧倒的なプレイでちっともボールに触らせてくれない。
その内、音無が不機嫌を露にすると優しくパスをしてくれて、目が合うと少しだけ笑ってくれる。
「サッカーか………」
幸せな思い出は、幸せだったからこそ時に辛い。
兄は今でもサッカーを続けているのだろうか。
前に出す足でボールを蹴る振りをする。当然空振りだ。あの日から、兄は姿を隠してしまった。
本当は話したい事がたくさんあった。
引き取られたお金持ちの家がどんなのか知りたかった。
兄も自分の様子を伺ってくるだろう。その時の返事も決まっていた。
幸せだよ、と答えるのだ。
どんな状況でも、そう答えようと決めていた。
たとえ不幸せでも、兄が安心して笑ってくれれば幸せになれるからだ。
私、幸せなのよ。
口元が弧を描いてから唇を噛んだ。
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