ゴーグルの奥の鬼道の目が細められる。
 手が耳元まで上がり、ゴーグルが外された。
 隣には音無が立っており、二人の瞳はある一つの墓石を見据える――――



歌声



 そこに刻まれる文字は鬼道のものでも音無のものでもない。
 二人の本来の名字であった。ここには二人の本当の両親が眠っている。
 鬼道と音無になった二人が揃って訪れるのは初めてであった。
 墓の周りは綺麗に整えられ、花が添えられている。
 墓の管理は遠い親戚がしてくれていた。幼い兄妹を引き取れなかった罪の表れか、丁寧に扱ってくれている。


 二人は頭を下げ、まず鬼道が亡き両親へ話しかけた。
「父さん、母さん、お久しぶりです。有人です。春奈も一緒です」
「私たち、元気でやっています」
「俺は鬼道、春奈は音無の家へ引き取られ、別々の家族になったのはお話しましたね。それでも俺たちが血の繋がった兄妹であり、父さんと母さんの子供である事には変わりません」
「これからも、見守っていてください」
 静かに目を閉じて、手を合わせる。
 墓参りを終えた二人は歩きながら言葉を交わした。
「ねえお兄ちゃん。私たちは表面上、他人になっちゃったんだね」
「そうだな」
 ゴーグルをかけ直し、鬼道は頷く。
 わかってはいたが、こうして改めて亡き両親へ挨拶をすると寂しさが募った。引き取られて随分と経つのに冷たい風が吹き抜けるような、遅れて気付く感傷。どうにもならない、ただ懐かしむだけの思いだった。
「私、思うんだ。他人になったからこそ、私たちは歩み寄る努力をしなきゃならない。兄妹だからとか、そんなんじゃわからない」
 音無が足を止め、鬼道が振り返る。
「たくさん、話をしようね」
「ああ」
 鬼道が口元を綻ばせ、音無も微笑む。
 音無が横に並ぶまで鬼道は待っていた。






 翌日。学校へ向かう音無の姿を見つけて、鬼道が歩調を速めて挨拶をする。
「春奈。おはよう」
「おはよう。お兄ちゃん」
「今日の朝ご飯は何を食べた」
 思い立ったらすぐ実行とばかりに、鬼道は話を振ってきた。
 それがいかにも兄らしく、喜べば良いのか笑えば良いのか、くすぐったくなる。
「パンだよ。食パン」
「それだけか。もっと食べろ。元気が出ないぞ」
「そんなに入らないよ。そういうお兄ちゃんは何食べたの」
「牛乳を飲んできた」
「……なにそれ」
 顔を見合わせ、くすくすと笑った。
 そんな二人に松野が声を掛ける。
「お二人さん、何か楽しい事でもあったのかい」
「楽しい事じゃない」
「そうだね。違うね」
 そう言って二人はまた笑い出す。松野は目を瞬かせるだけであった。


 雷門中に着き、朝練を行って、終われば各人の教室に行って午前の授業が始まる。
 音無が休み時間に気まぐれで下の階へ下りれば偶然、鬼道と会った。
「春奈か」
 鬼道の手に抱えられているのは音楽の教科書。西校舎へ来ている理由を察した。
 二人は挨拶だけで分かれ、次の授業が始まってしばらく経つと歌が聴こえ始める。鬼道のクラスが歌っているのだろう。
 音無は思う。兄の歌声を聴いた覚えがない。施設にいた頃に皆で歌った記憶はあるようなないような、そんな曖昧なものだ。率先的に歌うようには見えないが、真面目な性格なので歌う時は歌うのだろう。
 聴こえてくるこの歌の中に、兄の声が混じっている。聴き分けられなど出来ないが、目を閉じて耳を済ませた。
 心の中で共に口ずさむイメージを思い描く。唇が微かに開閉した。
 そして放課後の練習の合間に、音無は鬼道に声を掛ける。
「お兄ちゃんのクラスの歌、私の教室にも聴こえてきたよ」
「ああ、真上の教室だもんな」
 鬼道はベンチに座り、靴紐を結び直しながら頷く。
「なんかね、凄いって思っちゃった」
 隣に座り、足をぴんと伸ばして言う音無。
「だって自然と歌が聴こえてくるの。お兄ちゃんが授業している様子がわかるの。離れ離れになった時、どんな風に暮らしているのか、ちっとも想像できなかったのに今は出来るの」
「俺も音楽の前に春奈と会った時、なんとなくわかったさ。きっと、落ち着きがないんだってな」
「お利口にしてるよ」
 つんと膨れた素振りをすれば鬼道が肩を揺らして笑う。
 二人はどちらが合図をする訳でもなく、空を見上げた。雲一つ無い青空の向こう側に、薄っすらと赤が滲んでいる。やがて空は色を変えて暗くなっていくのだ。
「今日は良い天気だね」
「そうだ春奈。練習が終わったら鉄塔へ行こう。こないだ円堂の練習に付き合って行ったらな、景色が綺麗だったんだ。今日は絶景になるさ」
「うん!」
 白い歯を見せて返事をした。


 約束を交わした通り、練習を終えた後、鬼道と音無は鉄塔前の公園へ訪れる。
 木の手摺りを握った音無は身を乗り出して歓声を上げた。
「うわーっ、きれーい!」
 視界いっぱいに広がる稲妻町が、夕日に照らされて煌く。柔らかな風が髪を撫でるように優しく触れてくる。気温も過ごしやすく、心地が良い。
 斜め後ろに立つ鬼道は、妹の喜ぶ姿を眺めて目を細めた。
「こんな風に住んでいる町を見渡すのは久しぶり」
「そうなのか」
 景色を眺めたまま言う音無に鬼道は相槌を打つ。
「うん。振り返るのが嫌だったんだ。自分の事も話すのも好きじゃなかったし」
「俺も高みだけを目指して、振り返ろうとはしなかったな……」
 言われて自分の心境を見直す鬼道。
「でも今は違うよ。今日あった事、昔の事、これからの事とか話したいの」
「俺もさ。たくさん話をするって、昨日言ったからな」
 鬼道も手摺りに手を乗せ、並んで景色を目に焼き付ける。
「ふふっ」
 音無は急に笑い出し、背を丸めた。
「なんだ、なにがおかしい」
「なんなんだろうね。なにか、おかしいの。笑っちゃうの。ここの空気が笑いのガスみたいに、吸うだけで笑いたくなるの。それに」
 鬼道を指差す。鬼道の顔も笑っていた。
「お兄ちゃんだって笑ってる」
「春奈の言う通りだ。よくわからないが、頬の筋肉が上がってしまう」
 こうしているだけで、微笑みが溢れて顔に出てしまうのだ。
 唐突に音無はハミングをし始める。小さく、掠れてしまうメロディだが、何の曲だかすぐに鬼道はわかった。今日、音楽の授業で歌った曲だ。
 素早く辺りを見回し、周りに人がいないのを確認して鬼道もハミングをする。音無よりも潜めて、頬を上気させながら照れ臭そうに彼女のメロディに合わせる。
 音無は聴いただけなので途中で音がわからなくなるが、そこは鬼道がフォローをした。
 二人の歌は風に溶かして、夕闇に馴染ませていく。


 目で見て、耳で聴こえて、空気で存在を感じる。
 触れずとも温度が伝わってくるようだった。
 今隣にいるその人は、温かく愛しい。







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