一線



 フットボールフロンティア全国大会準決勝。雷門対木戸川清修は雷門の勝利となった。
 各対戦校は荷物をまとめ、帰る支度を整え始める。
 木戸川清修の監督・二階堂はベンチにいる部員に声をかけた。
「先生は控え室の点検しに行くから、お前たちは忘れ物が無いか確かめておけよ」
「はーい」
 返事を聞いて、室内へ向かう。
 一方、雷門も似たような会話が行われていた。
「おーい皆、忘れもんは無いか」
 キャプテンの円堂が皆に言う。見回す彼の肩を後ろから豪炎寺が叩いた。
「どうした豪炎寺」
「ちょっと手洗い行って来る」
「わかった」
 仲間たちから豪炎寺が離れると、後ろから“壁山お前も大丈夫か”“はいっす〜”という相変わらずのやり取りが聞こえていた。


 会場室内にある洗面所で用を済ませ戻ろうとした時、豪炎寺は二階堂が廊下を通るのを見かける。無意識に後を付ければ、彼は選手控え室に入っていく。ノックをして豪炎寺も入った。
「二階堂監督」
「おお、豪炎寺か」
 ロッカーを開けながら二階堂は振り向く。
「さっきそこを通るのを見かけまして」
「そうか。雷門の方は大丈夫か」
「はい。円堂が念入りに調べていましたから」
「そうか」
 ロッカーが閉じられ、会話もそこで途切れる。隣を開くと、二階堂が声を上げた。
「あー、こんな所に」
「どうしましたか」
 歩み寄る豪炎寺。
「これだよ、これ」
 二階堂が中に手を入れて出したのは、クッキーフレーバーだった。
「試合前に皆に配ったんだ。一つ余って置いてあったのを忘れていたよ。豪炎寺、食べるか」
「ええ……あ、はい」
 きょとんとした顔で頷き、受け取る。
「ん?」
 背を屈め、顔を覗き込んできた。
「なんですか……」
 頬が上気する。先程から声も思うように出ない。
「なんだ元気ないぞ。試合ではあんなに元気良かったのに。まさか上がっているのか」
 そのまさかだろう。久しぶりの再会も、こうして二人きりなのは緊張した。つい後を追ってしまい、気持ちだけが先走り、普段の自分が出せない。それに――――
 豪炎寺のクッキーフレーバーを持つ手が汗で滲む。
「そうだ豪炎寺。妹さんの様子はどうだ」
 優しく、気遣うような声色で囁きかける。
「まだ目覚めません」
「………………………………」
「ですが、俺は信じてます」
 微笑んでみせる豪炎寺。だが二階堂の目を見詰めていると、だんだんと切なさが増して笑みが消えてしまう。
「俺も一緒に信じるよ」
 頭を撫でようと手を伸ばす。しかし、豪炎寺は一歩下がってかわした。
 二階堂の手が豪炎寺を引き寄せようと動くが、思い直して止まる。


 この一線を越えてはいけない。本能が警告するのだ。
 心の疎通は難しいくせに、こんな所だけは揃う。いっそ何もかも合わなければ、もっと上手くいったのかもしれない。


「……豪炎寺。そろそろ行かなくて良いのか」
「もう少し……だけなら……」
 近付いてはいけない。けれども離れるのには名残惜しい。
 会話が途切れると空気が重くなる。沈黙がもどかしくなる。本当はもっとたくさん話したいのに。
 豪炎寺は二階堂が、二階堂は豪炎寺が好きだった。大好きだった。
 寄り添いたい、自分だけを見て欲しい、もっと好きになって欲しい。下心もあった。
 己の気持ちは自覚しており、それがいけない事だとも理解している。だからずっと我慢して、隠して、誤魔化してきた。素直になれぬまま運命は二人を切り離し、運命によって二人は再会を果たした。
 一緒にいられはしない現実を知ってしまえば、一分一秒が貴重になってくる。少しの時間でも、何かを得たい。想いだけが貪欲になって嫌になって、途方に暮れる。
「………………………………」
「………………………………」
 豪炎寺はのろのろとベンチに腰をかけた。貰ったクッキーフレーバーを開けて食べ始めると、点検を終えた二階堂が隣に座る。
「っ」
 座った拍子に、クッキーの欠片が零れて落ちた。
「すまなかったな」
 欠片を黙々と拾い、摘まむ豪炎寺に詫びる。動く腕があたりそうになって、さりげない仕種で横にずれた。
 当然、そんな素振りは豪炎寺だってわかる。自分の気持ちを知って避けられていると思うと辛い。二階堂の豪炎寺を思いやりながら離れる動作は、無意識に豪炎寺を傷付けていた。
 木戸川にいた頃、二人の思い出は幸せで優しいものだったが、実際に会うと痛みも蘇ってくる。
 そうだ、二階堂監督はこうやって俺を避けるんだ。忘れかけていた彼の一面を豪炎寺は思い出していた。
 あの頃は耐えられたはずなのに、今は不満が拭いきれない。
「………………………あ……」
 クッキーが真ん中で折れて、大きな欠片が落ちる。
「ひょっとして中身、ボロボロだったか?」
「いいえ……」
 また拾って食べた。
 もう少しだけ、と言ったのに特に話題が出てこない。
 豪炎寺から振ってこないのを察して、二階堂が話しかけた。


「豪炎寺、雷門はどうだ?楽しいか?」
「はい……楽しい、です。あの、二階堂監督……」
「ん?」
「………………………………」
 二階堂がずれた分、近寄り、身体をもたれさせる。足の上で組んだ手に握ったクッキーフレーバーの袋が、くしゃりと音を立てた。
 手が解け、二階堂にあたっている方の腕を寄せる。すると二階堂が手を握ってくれた。
「………………………………」
 豪炎寺も握り返し、二人の手は合わさり、指は形を変えて何度も絡み合う。
 互いがどんな顔をしているのかは見えない。
 寄り添っても良いか。手を握っても良いか。そう口で問いかけも出来ない。
 声にしてしまえば“いけない”で済まされるしかないだろう。
 だから気持ちは手で確かめる。しかし伝えきれないし、全てを晒せもできない。もどかしさに五本の指はもがき、バラバラになり、どうにも出来ずに一つに纏まる。
「…………っ……」
 豪炎寺が手を解き、ベンチに膝を乗せて首にしがみついてくる。
 もうこの少年の身体では、この張り裂けそうな大きな気持ちは堪えきれなくなったのだ。二階堂の手は慰めるように豪炎寺の背を撫でる。けれど動きはぎこちなく、引き離すべき時を探っているようだった。
 手はとうとう止まり、肩へ上がる。離そうとする前に豪炎寺が自ら身体を離す。
 向き合う二人。二階堂はやはり彼を慰めるように苦味を含んで笑っていた。その歪んだ唇に、豪炎寺は自分のそれを押し付ける。
 二階堂の手が慌てるように豪炎寺の肩を強引に掴み直す。けれどそこで固まり、抱き返すような形になった。


「あ!」
 豪炎寺の身体がびくりと震えて唇が解放される。しまっていた携帯が急に震えだしたのだ。
 取り出して出るなり、受話器越しの相手に頭を下げだす。
「……すまない……本当に悪かった……」
 相手はキャプテンの円堂だった。なかなか戻って来ないので、洗面所に行ってみれば姿は無い。一度戻って待っても来ないので電話をかけてきたらしい。
 謝りながら、豪炎寺は二階堂の顔をチラチラと見る。電話が鳴る前は手を握り、抱き締め、口付けをして剥がされようとしていたが、逆に肩を抱き抱えられている現状に顔は羞恥に染まった。
「……その……途中で二階堂監督に会って話し込んでいた……」
 理由を述べると“じゃあ仕方がないな”という明るい返事が返ってくる。
「今、すぐ戻る……」
 会話を終え、携帯を持つ手が垂れた。戻る事を伝えようと、二階堂の方を向く――――
「っ」
 首を動かす動作のままに顎を捉えられ、彼の顔が近付いて離れた。喉が豪炎寺の動揺をありありと示すようにひくついた。
 指の隙間から携帯が滑り抜けて、床の上に落ちる。呆然と二階堂を見据える豪炎寺に、彼は立ち上がって言う。
「じゃあ戻ろうか」
「は、はいっ」
 豪炎寺も立ち上がり、落としてしまった携帯を拾おうとする。だが先に二階堂に拾われてしまい、伸ばされた手が空を泳いだ。
「ほら」
 携帯を返され、受け取る。二階堂がドアを開け、二人一緒に部屋を出た。廊下を進む間、一言も言葉は交わさなかった。外へ出ると、雷門の部員が迎えてくれる。
「皆……」
「豪炎寺を引き止めて悪かったな」
 謝ろうとした豪炎寺を遮り、二階堂が詫びた。
「いいえ。今度、練習試合でもしてください」
「ああ、喜んで」
 円堂が前に出て、二階堂と握手を交わす。そんな雷門の後ろでは木戸川の部員たちが監督を待っており、二階堂は彼らの元へと戻っていく。別れは言えなかった。
 帰りの電車で、試合に疲れた仲間たちは眠ってしまっている。豪炎寺は眠れずに、窓の外の流れる景色を眺めていた。喉元に出掛かっていた言葉はとうとう言えなかった。


 二階堂監督。あんな事して良いんですか。


 あれを返事と受け止めて良いのか、とても聞けなかった。
 好きになっても良いのだろうか。この気持ちを隠さなくても良いのだろうか。
 頭は迷うのに、本能は抑えるつもりなどないらしく、身体を熱病のように燃やした。







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