どこかへ行きたかった。
 行き先はどこでも良かった。ここでない、どこかなら。
 青年はたった一人で、世界から逃げ出した。



約束



 夢中に走り続けた足はやがて疲労して重くなり、引きずるようにしてでも進んだ。
 どれだけ逃げたのかわからない。視覚も、聴覚も麻痺して雲の中を歩いているような気分だった。
 ずっと暗闇だった世界が、ある時一気に真っ白に染まる。
 ぼんやりと、耳ではなく脳の奥から風の音を捉えた気がした。
 びゅう、びゅうと、細く震える風の音が。
 やがて目の先の景色は朝霧のように、白の中から薄っすらと映し出してくる。
 天と地は横に傾いていた。とうとう動けずに倒れたのだと悟った。
 顔の横に投げ出された己の利き腕も見えてくる。グローブは使い慣れているものだが、随分とぼろぼろに感じた。道具も、使う人間さえも、随分と疲れきっているように見えた。


「……………………―――――――――」
 青年――ロランは乾いた唇を薄く開き、呼吸をする。
 息は温く、微かに白く染まった。
 息を吸い、吐くを繰り返していく内に、感覚がもどってくる。
 白の中にいた。真っ白な、雪の中にロランは倒れていた。
 ときどき、風が鳴る程度の静かな空間だった。辺りに命の気配は感じない。
「……一人だ」
 声を発し、実感を得る。
 寒さが肌に浸透してくれば、旅をしていた頃を思い出す。
 なにも知らず、信念だけを抱いて、ただ前だけを向いていられた時代を、だ。
 こんな雪の中も歩いていた。寒くても、辛くても、仲間がいたから進めた。
 目の前に立ちはだかる恐怖でさえ、耐えられた。
 こんな雪の中でさえ、夢を語れたのだ。
「…………ああ………………」
 息が音になって漏れた。ゆっくりと瞬かせるように目を閉じれば、脳裏に過去が蘇る。
 雪に覆われた白銀の世界――三人で目指した決戦の地ロンダルキア――突入を控えた祠でのひと時を。






 祠に用意された寝処で身体を休めていると、仲間の一人・サトリがロランの肩を揺らした。
「ん」
 眼を半分開き、振り向いてくるロランにサトリは口元に人差し指を添えて“静かに”という合図を送る。
 毛布に包まったもう一人の仲間・ルーナが起きないように二人は寝処を出て祠の入り口に座り込む。ロンダルキアの夜はぞっとする程、真っ暗で静かだった。ときどき闇を煌かせる光は星か氷の結晶かわからない。ロランとサトリの身体の方角は、見えずとも存在するハーゴンの城へと向いていた。
「どうしたんだいサトリ。眠れないのか」
「別に」
「じゃあどうして。眠った方がいいよ」
「わかっているさ。明日はいよいよだ。いよいよだからこそ、さ」
 ロランの気遣いに苦い笑いを含みながら、サトリがワインとグラス二つを取り出してみせる。
「寝酒にでもどうだ」
「僕は飲まないって言ったろう」
「今夜くらい付き合えよ。最後かもしれないし。……いい意味でな」
「…………………………」
 しばし考え、グラスを受け取るロラン。サトリが丁寧にワインを注いでやる。
「乾杯でもしないか」
「うん」
 キン。グラスとグラスが触れ、高い音を鳴らす。
 ロランはワインを一口含み、サトリはグラスの半分を飲んだ。
「長かったな」
 発して、サトリの口元が孤を描く。遅れてロランは相槌を打った。
「……ああ」
「遠くに来たな」
「ああ」
「俺がここまで来られたのも、ロランやルーナがいたからだ。特にロラン、お前にはとても感謝している……なんてな。その、照れるが、この機会だ、言っておこう」
 二杯目をよそい、頬をほんのりと染めてサトリが言う。
「僕もだよ。君やルーナがいなかったら、とても辿り着けなかった。有り難う」
 微笑んでみせるロラン。酒は飲まないと言ったのに、グラスは空になっていた。
「なんだ、飲むじゃん」
「今夜だけだよ」
「やらしいなぁ」
「なにが」
 サトリがにやにやと笑みを浮かべながら、ロランに酌をする。
「今でも、初めてロランに会った時の事を覚えている」
 トーンを低め、囁くように放った。
「眩しかったな」
「え?」
「眩しかった、って言った」
 腰を擦らせるようにして、ロランに寄り、迫った。
「眩しい?なにが?」
 ロランは意味がよくわかっておらず、それがサトリの機嫌――悪乗りを増徴させたのか、彼の手がロランの太ももに載ってくる。
 ぞわっと寒気がする所なのに、なぜだか胸がどきりとした。
 ――――僕もサトリも酔ってる。
 ロランの眉間にしわが寄った。
「サトリ。絡むなよ」
「ん、ふふ」
 喉で笑い、サトリが人差し指をたてて、ロランの太ももに線を描くようになぞる。
「こら」
「……すまん。悪かったよ。なんでもない」
 指を浮かせ、その手で肩を軽く叩いて身体を離した。


「なぁ、ロラン」
 咳払いをし、声の調子を整えて呼ぶ。
「全てが片付いて、国に帰ったらどうするか聞いてるか?」
「うん?特に」
「たぶんロランは王に選ばれるんじゃないか」
「ええ?そんな急には」
「ロランには王になる資質があるよ。俺はどうだろうな……ムーンブルクの復興も手伝いたいし」
 腕を組み、俯いて唸り考える素振りを見せてから、サトリはロランに笑いかける。
「旅が終わっても、俺たち三人で国を守っていこう」
「…………………………」
 ロランはハッとしたように目を丸くさせた。
「俺たちは、これからもずっと一緒だ」
「…………………………」
「……嫌か?」
「違う。違うよ。僕も同じ気持ちだ」
 サトリは組んだ腕を解き、ロランへ手を差し出す。
「約束しよう。ずっと、一緒だ」
 二人は手を握り締めて握手をする。
 痛いほど、力強く、硬く交わした。決して離れないように。これから待つ、どんな運命にも負けないように。強く、強く――――。






 半眼になっていた瞳が一度つぶられてから開く。
「…………………約束、か」
 顔を伏せ、うつ伏せになり、手を握り締めて雪を掴む。
「忘れていたよ。たいして時間も経っていなかったのに」
 腕に力をこめて半身を起こし上げた。
「あそこは、僕の帰る場所だったはずなのに。僕には居られなかった。君との約束も、わからなくなるくらい、息が詰まったよ。苦しかったよ。嫌だったんだよ」
 雪で触れた頬の肉が空気に触れれば、涙を流したかのように涼しくなる。
「一人なら、なんとでも言い訳が出てくるな」
 剣の塚を握り、立ち上がった。
「僕を怒るか?それとも笑うか?…………サトリ」
 ロランは首を振るい、前を向く。
 ――――君からも逃げたのに。
 自嘲気味に上がりそうになった口の端は、すぐに戻る。
 また、新たな旅が始まる。振り返らず、逃げ続けるだけの、一人旅が。
 運命ではなく、自分自身が選択をした、一人旅を。







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