村から出たロシウの瞳に映ったのは、青い空と広大な大地であった。
閉じられた世界で生きていた彼には想像を超えた色のある世界。彼は暇さえあれば、空を見上げていた。飽きもせず、穴が空きそうなほど眺めていた。
青の理由
「おい」
突如声がして、額を突かれる。
思わず一歩下がり、額を押さえて突いた張本人を見上げた。
斜め上の視界に、空と同じ青い髪が揺れている。カミナだ。
「デコ助、何してるんだ」
「空です。空を見ていました」
押さえる手を下ろして答えるロシウ。
「空か…………」
呟くカミナの声に"見飽きた"ものを感じた。
「カミナさん」
ロシウはカミナを見据えて名を呼ぶ。
「どうして空は青いのですか」
「…………………………」
ぽりぽり。カミナは頬を掻いて回答に困る。
遠くから“カミナにそんな事を聞いても無駄よー”と、リーロンの声が聞こえてきた。
それでもロシウはカミナを見据えるのをやめない。漆黒の聡明な瞳、揺れない真っ直ぐな強さを秘めていた。
「わからねえな」
カミナが手を伸ばす。ロシウの目は一瞬、丸くなる。
大きくたくましい手はロシウの頭の上に、優しく乗っかった。
太陽のような、暖かい温度が伝わる。
「たぶん、デコ助がずっと見続けられるように、だ」
手が離れたと思うと、また額を突かれる。
同じように額を押さえて自分の顔を見上げてくるのを予想していたかのように、カミナは笑った。
ぎこちなく、ロシウも笑う。
日の光に反射して、カミナの青い髪は空と同化しそうなほど、美しく煌いていた。
カミナの姿が、カミナの声が、カミナの笑顔が、随分と遠い昔のように感じる。
つい先日の事なのに、もう会えないとわかると、急に彼の存在は遥か彼方へ飛んでいったような感覚がするのだ。
空は雲が立ち込めて塞がれていた。重く、寒く、夜とは異なる暗さを醸し出している。
ダイグレンの中にいたロシウは急に外に出たくなり、甲板に足を踏み込む。
見上げると、何かが額に落ちてきた。
手で確かめれば、濡れている。恐らく水だろう。指で擦れば生暖かくなって気持ち悪い。
水はとめどなく落ちて大地を濡らしている。これはリーロンが言っていた“雨”だ。
雨は冷たく、浴び続けると髪や衣服を濡らしていく。
あのように額に一点を突いてくるのはカミナだけであった。
雨はカミナとは違う。温かくもなく、笑ってもくれない。からかってさえくれない。
雨が降り出してから、空の暗さはより増していた。黒よりも中途半な灰色。太陽の光は見当たらない。見続けていると嫌な気分になった。
「ああ」
息のように口から吐かれる。
彼を失った時、空の青さの理由を知った。
いい加減に濡れてきて、屋根のある場所へロシウは入る。
衣服は思った以上に濡れていた。上着を脱ぐと身震いした。危うく、身体の芯まで冷えてしまいそうだった。
次の日、ロシウはシモンに暴言をぶつけられる。
ロシウの神様は、なんで兄貴を助けなかったんだ――――
ロシウは黙って耐えた。シモンの悲しみの深さはわかっているつもりだ。
悲しみで、カミナが信じているシモンは目指すべき先を見失っている。
シモンの瞳は体中の水分を涙で流してしまったような、乾いた虚無を映していた。
遠くなるシモンの背に触れて何かを言いたいのに、触れたら崩れてしまいそうだった。
カミナの代わりにはなれない。シモンを励ませるべき力はない。それでもロシウは自分なりに出来る事を探した。
ガンメンを動かせるようになる事、カミナの言った“気合”を信じて。
カミナがシモンを信じたように、シモンを信じる事。ロシウなりの精一杯であった。
ロシウは硬く口を紡ぎ、自室へ戻る。
同室のギミーとダリーが見当たらない。どこかへ遊びに行ってしまったのだろう。
部屋は明かりが消してあり、薄暗い。一人だとわかるとロシウは項垂れた。
荷物の入った袋を引っ張り出して、かつてマギンより譲り受けた聖典を取る。
適当に真ん中のページを開くが、羅列された文字をロシウは読めない。
次のページ、さらにもう一枚めくっても、読めない。
ロシウの神はカミナを救わなかった。
当たり前であった。ロシウの神は母も救わなかったのだから。
手で触れて、眺めても、救いはやって来ない。精一杯なだけで、無力さばかりを痛感させられる。
古く、変色した紙の上に水滴が落ちた。
「…………………………」
歯を食いしばり、嗚咽を堪える。
微かに響く、短い笛のような喉の音は、雨音に掻き消えた。
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