絶望の先には絶望。
前へ進んでも、後ろへ下がっても、立ち止まっても絶望しかない。
わかりきっていた。
生まれた時から、道は下しか繋がっていない事を。堕ち続けて果てていくしかない事を。
わかりきっていたからこそ、どうでも良かった。
どうにもならないのだから。
誰かに
「ごめんなさい」
謝ったのに。
「許してください」
頼んだのに。
「痛いよ。痛い」
痛みを訴えたのに。
「父さん、やめて。父さんっ」
名前を呼んだのに。
「母さん。助けて」
助けを求めたのに。
「たふ……っぇ……でぇっ!」
涙を流し、声が枯れるほど叫んだのに。
届かなかった。痛みは終わらなかった。
痛みは、いつか慣れたり終わったり、いつか抜け出せるものと信じていた。
だって、そうとでも考えなければ、あまりにも理不尽で、やるせないじゃないか。
どうして僕は、いつも悪さをしてしまうんだろう。
どうしてそう、上手く出来ないんだろう。
父さんの怒りを買ってしまうんだろう。
父さん、どうして僕をそんなに殴るんだろう。
良い子にするから、頑張るから、殴らなくてもわかるから、どうか、どうか……。
痛い。
腕が痛い。足が痛い。腹が痛い。顔が痛い。
どこもかしこも痛い。痛くて、痛くてたまらない。
血が滲んで、痕が残って、眠っただけでは癒えてくれない。
痛みが全身にくまなく行き渡り、内側から魂が痺れてくる。
頭がぼんやりする中で、僕はある問に辿り着いた。今更、やっと、辿り着いたのだ。
どうして僕が、僕だけがこんな目に遭わなきゃならない?
違う、嘘だ。僕はそんなに悪い事をしていない。
違う、違う違う。ほら、あれだ……あれなんだ、違うんだ、僕じゃない。
あの子、あいつ、あの野郎なんだ。全てはあいつ。
あいつの出来事なんだ。
あいつは可哀想な奴。とっても不幸な奴。
いっつも父親から暴力を受けて、母親は見ているだけなんだ。
誰も助けてはくれない。誰もあいつを必要としないんだ。
だから救われない。恨むとしたら、自分の運命か。
暗く沈んだ瞳は、鋭い刃を抜く時を見計らっている。
名前は知らない。どっかの誰かのあいつ。
リヴィオ。
笛の音のような僕を呼ぶ母さんの声は闇の中へ消えていった。
もっと普通に呼んでくれれば良いのに。
聞いた直後の感想はそれで、後で最後の言葉だったと知った。
「んん………っ……」
低く唸って、リヴィオは目を覚ます。
薄暗い天井が見えた。
身を起こそうとすると身体が重い。昨日の訓練の披露がまだ残っている。
まだまだ未熟なこの身体に、今日もたくさん覚え込ませるものがある。
リヴィオは両親を失ってから孤児院に入った。
だが人間関係が上手くいかず抜け出して、彷徨った末にここへ落ち着いた。
ミカエルの眼――――説明すると長いが、簡単に言うと“殺し屋の寄せ集め”である。
道は下にしか繋がっていない。罪を犯すしか進む道が無い。生きたとしても、上がる階段など無いのも承知だ。
堕ちる所まで堕ち、これからも堕ちていく。だが、たとえ闇でもその先に、この僕を必要としてくれる――――
「いや」
一人呟き、首を横に振るリヴィオ。
ミカエルの眼が必要としているのは自分ではない。
横を向き、壁に付けられた鏡を見る。見るだけで、顔は映らなかった。
床に足を置いて立ち上がる。そろそろ起きる時間だろう。
自分が必要とされなくても、がむしゃらに腕を磨かなければならない。
必要とか、不必要とか、もうどうでも良いはずなのに。無意識に表現として使ってしまう。
着替えて部屋を出ると硝煙の匂いがした。この建物には硝煙の匂いが染み付いている。息を吸うだけで入り込んでくる。
この身体にも、内蔵の隅々まで染み込んでいくのだろう。
胸の辺りを掴む手は乾いていた。
ドンッ。
射撃場へ行き、的に向けて銃を撃つ。正確に、確実に、急所に当たるように。頭と心臓を位置する部分へ集中的に撃ち込んでいく。
ドンッ、ドンッ。
初めて持った銃は冷たくて重かった。引き金を引くと、すぐに鉛玉は発射される。
場所が悪ければ、人はそれだけで死に至ってしまう。
たやすく脆い、軟弱な生き物だ。その中にある魂さえも弱いときている。
それなのに、優れたものだと思い込んでいる傲慢な生き物。
『つまんねえ事に脳細胞使ってんじゃねえよ』
突如聞こえた声に、リヴィオは目を見開く。
声は横でも後ろでも前でさえない。上でも下でもない。脳に直接訴えかけてきた。
あいつだ。
『おい、ちょっと貸してみ』
「あ」
リヴィオは銃を持ち直し、先ほどの撃ち方とは異なる大胆な乱射を始めた。
雑なようで正確な射撃。的の首が線を描くように打ち抜かれて落ちる。
『へへっ、これを参考に励め』
リヴィオは喉だけで馬鹿にしたように笑う。
いや、今の彼はリヴィオであってリヴィオではない。
内に秘めるもう一人の自分“ラズロ”である。
辛くてたまらない現実から逃げ出そうと作り上げた人格だ。
凶暴で性急、残虐でずる賢い。リヴィオには無いものを持っている。性格だけではない、才能さえもラズロには一切敵わない。ミカエルの眼が必要としたのは他でもない、ラズロであった。
「楽しそうだな、ラズロ」
ミカエルの眼に来てからラズロの機嫌が良い。呼びかけてくる感じでわかる。
自分の力を存分に発揮できるのだから、居心地が良いのだろう。
リヴィオは歯がゆそうに口を歪める。ラズロがいなければ、僕は。
『リヴィオ、焦るな。少し休め』
「うん……」
目を瞑り、見開くと目つきが変わっている。リヴィオとラズロの人格が入れ替わったのだ。
「一丁なんて面倒くせえや」
ラズロは銃をもう一丁持ってきて、二丁で訓練を再開した。
多い方が爽快で心地良い。全てが吹っ飛んですっきりする。
「ラズロ……なのか?」
背後から声が聞こえる。振り返ると長身の男が歩み寄ってきた。
「マスター」
彼はマスターC。リヴィオとラズロの師である。
「ふむ……」
マスターCはラズロの打っていた的の痕を見据えた。期待を上回る上達の早さ。
真に目覚めた時、何を見せてくれるのか――――
想像するだけでも震える。
「マスター?」
ラズロは彼を見上げた。大きく開かれる瞳いっぱいに彼を映した。
「別の的を用意しよう。試してみるかね?」
マスターCの瞳がラズロを見下ろす。ラズロはこくこくと頷いた。
マスターは俺を必要としてくれている。
そう考えた時、胸の奥から喜びが込み上げた。
リヴィオさえもなかなか気付いてくれなかった俺を、こうして真っ直ぐに見てくれる。
この俺を見てくれる。
嬉しいと感じた。奥の方から熱くなってくる。
これは一体、なんなんだろうか。
他者との関わりは主にリヴィオが担当していた。リヴィオなら知っているのだろうか。
なあリヴィオよ。
語りかけても、今リヴィオは眠っているので返ってこない。
返ってこないからこそ、呼びかけたのかもしれない。
「ラズロ。こっちへ来い。場所を変える」
「わかった、マスター」
いかにも嬉しそうな声が放たれた。口の端は自然と持ち上がる。
ラズロ。そう呼んでくれる声が心地良い。
マスターCの背を追う中でラズロは思う。
もっと俺を見て欲しい。もっと俺を呼んで欲しい。もっと俺を必要として欲しい。
その為には余所見できないくらいの力が必要だった。
マスターCは力を望んでいるのだから。圧倒的な力を求めているのだから。
強くなりたい思い。それはある日、つい張り切りすぎてしまった。
「やっちまった……」
闇の中の呟き。ラズロは銃を下ろし、辺りを見回す。
血の海の中に、仲間だったものの肉片が散らばっている。敵の仕業ではない、ラズロが“つい”やってしまった惨状である。
「どんだけやったよ、俺」
人数を確認しようとする。しかし、四散した肉体を数えるのは難儀だ。
「そうだ」
ある考えが思いつく。頭の数を数えれば良い。
「ひの、ふの……」
歩くとぱしゃぱしゃ音を立てる。臓物を踏むと滑った。支給されたばかりのブーツは早くも汚れてしまった。血は洗えるからマシか。洗濯の事を考えていた。もう殺してしまったものはどうにもならないが、汚れは洗えば落ちるのだ。
死体は全部で九体。精鋭と呼ばれていたエリート揃いであった。
「これ、ヤバいのか?」
面倒そうに首を傾けて音を鳴らす。
この後、本当にヤバかったのだと思い知らされた。
連中に見つかるなり、ラズロは捕まって拘束具をはめられ、ミカエルの眼の重役が集まる広い部屋へと運ばれていく。既に人は席についており、端の方でマスターCが立っているのが見える。
「……………………………」
内容はラズロの処分についてだ。何丁もの銃を向けられ、変な気を起こせばその場で射殺。黙って事の成り行きを見守るしかない。
短い人生だった。
半眼になったくすんだ瞳は、最後の風景を映していた。
最初から全てを諦めている。生きた所で俺とリヴィオがロクな場所で死ねはしない。救い、希望、夢、見るだけ無駄なもの。耳の右から左へと素通りさせて捨ててしまった。
そんなもんさ。俺たちなんて、そんなもんさ。
ラズロはゆっくり瞬きする。
マスターCがテーブルの前へ立った。まず自分よりも上司である彼の責任が問われるのだ。
マスター……。心の内で呼びかける。詫びと別れの思いがこもった。
次の瞬間、よどんだ瞳は見開かれる。
「…………………………!」
マスターCは身をもって責任を負い、テーブルに顔を擦り付けるように頭を下げて許しを請う。
ラズロの死は免れたのだ。彼の瞳は見開かれたままだ。
初めてだった。ここまで誰かに必要とされたなど――――
「マスター!」
解放されたラズロは真っ先にマスターCの元へ飛び出す。
「マスター、マスター!」
何かを言わなければならない。彼にどうしても言いたい。身体が突き動かされる。
誰かに何かをしてやりたい。ここまでそう思ったのも初めてであった。
マスターCは自らの銃で自らの胸を撃ちぬき、重い上半身を起こして血だらけのまま退室しようとしていた。
「おいっ」
呼び止めるような声が聞こえるが気にしていられない。
「マスター!」
マスターCが扉に手をかけるところでラズロが追いついた。衣服を背中から掴んで、開けるのを手伝う。顔を見据えたいのに、なぜだか上がらずに俯いた。
「マスター……」
廊下に出ると掴んだ手を離す。僅かに水分の感触がある。血は随分と染み込んでいた。
「マスター……」
名前の先から言葉が出ない。何をどう表現すれば良いのか、わからない。
「……………………………」
喉から何かが込み上げて、発声の邪魔をする。
泣きだしそうってこういう気持ちなのか?まるで泣いてばかりのリヴィオのような心境だ。
「……………………………」
黙って、立ち尽くしてしまう。
マスターCは頭を垂れたラズロを見下ろす。まるでリヴィオのようだと思った。正反対とも言っても良い二つの人格は、やはり同じ身体を持つのだと悟る。手を伸ばし、そっと頭に触れた。血と硝煙が染み付いた、どんな殺人者でも髪だけは柔らかく繊細だ。
触れるのは一瞬。マスターCは無言で去っていった。
ラズロの耳には去っていくマスターCの足音だけを捉えていた。顔はまだ上がらない。
ただ触れられるだけだったのに、脳を揺り動かされるような衝撃を覚えた。頭の中がぐしゃぐしゃに掻き乱される。手の平から汗が滲んでズボンに擦り付けた。
どっと疲れる。ラズロはリヴィオにバトンタッチをする。
「……………………は……?」
はじかれるようにリヴィオは顔を上げ、辺りを見回す。まだ入れ替わり直後には多少の記憶障害が付き纏う。
「…………………………?」
きょとんとしたリヴィオの目頭から涙が伝った。
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