河口の橋 まるで盆地の底に溜まった湖のような狭い海だった。海に沿って半円を描く街並みと、大小の島や半島に囲まれてしまって水平線は切れ切れの一部しか見えない。その上、ここの海水浴場ときたら遊泳を許可されている区間は砂浜を中心にして50メートルプール程の広さもないのだ。藻で滑ったブイをぐるりと辿るロープを乗り越えて沖を目指すことは容易いだろうが、数キロ離れた隣のリゾートビーチから発進する水上バイクが頻繁に行く手を横切るので危なっかしいことこの上ない。日々見慣れていた外海とは全く様相の異なる湾内を改めて一望し、樹は何度も瞬きをした。 そもそも、サンダルを片手に裸足で一歩踏み込んだ時から妙な違和感を感じていたのだ。足裏で掴んだ砂の感触が違う。到着した瞬間に掴んだビーチを包む空気や肌を洗う風の匂い、そして何より目の前に展開する海景から受けたのは新鮮な感動というよりは正直に言うと拍子抜けに近いものだった。 「人工海浜だからだろ」 ちらほらと人影のある砂浜で唯一、樹の知人に該当する黒羽が、樹の素直な感想にさもあらんと頷いた。狭い砂浜を飾って行儀良く並んだ松の向こうに見える小綺麗ながらも生活感たっぷりの住宅街では、自動車が忙しなく行き来している。 「俺もなー、この浜に来始めたのはここ何年かだけど、毎年やっぱ違うかなって思うぜ?砂?つうか水の色とか。今更驚いたりはしないけどよ」 周囲の目を気にすることもなく大仰にストレッチをしながら笑っている姿は馴染みの海岸で見るものと変わりない。海など珍しくもないのに自分ばかり初心者のようだ。 「毎年遊びに来ててもそう思う?」 「チビの面倒見てたらそれどころじゃ無いけどな。海は海だし」 「どうせ弟さんの代わりならダビデも誘ってあげれば喜んだかもしれないのね」 「それもそうだけどよ、偶にはガキ共から解放されるのもいいだろ」 黒羽兄弟の夏休み恒例の旅行への代理出席は、黒羽によって選ばれたというよりも親同士の井戸端会議が発展して降って湧いた役回りだった。黒羽は幼い頃から夏休みには必ず親戚が暮らすこの地を訪れている。例えそれが忙しい親の厄介払いでも、既に子供が家を離れた伯父夫婦の大歓迎を兄弟も毎年楽しみにしていたらしい。そこに余所者として入り込む樹の気後れは搭乗口までで、飛行機の窓から見えた美しい夜景はつまらない懸念などあっという間に期待へとすり替えてくれたし、その後に受けた大らかな歓待は予め聞いていた通りのものだった。 そして今日、海があって黒羽がいて、空はこれ以上ないと言うほどに晴れ上がっている。 樹は、体を伸ばすついでにもう一度、この目新しい地形をぐるりと眺めた。 決して広大な地形ではなかったが、湾を取り巻く住宅街は山の手まで広がっていて海岸線に沿ってところどころに高層マンション群があったり繁華街らしきビル群がある。夏のぴかぴかした日光にくっきりと浮き上がるそれらは、樹たちが育った町とは懸け離れた人のひしめき合いを雄弁に語っている。雪崩のように埋め立てられた湾内には島を含めて幾つもの海水浴場があるようで、隣のビーチなどは樹達が立つ小さな浜からでも鮮やかな色も取り取りに人で溢れ返っている様子がよく見えた。浜までの道々に黒羽が語ったところによると、そちらは当初からリゾート目的に造成された場所らしく浜を囲んでホテルやショッピングセンターまで備えているという。 「…もしかしてすっごい都会ですか?」 「六角辺りよりは遙かにな」 海辺だから田舎だという理屈などあったものではないが、人口密集地と言って思い起こせるのは都心くらいのものだ。それに比べれば、いやそれどころか故郷の町と比べてもこの地の空は青が濃い。そんな不思議なバランスの街中でも特に地元の穴場だというので期待してついてきたところがまた造成された人口の浜だというのが樹には益々解せなかった。「穴場」らしいのは人影が少ないくらいのもので、海水浴客向けの施設が一切無い割には入念に手入れされていて見た限りではゴミらしいゴミも見当たらない。 隣の砂浜はもっと人工的なのかしらん、と想像しようにもそもそも人工海浜などというもの自体どういった具合に出来上がっているのかが樹には分からない。ごく近所に住むと思われる数人の日焼けした子供が既視感を呼ばなくもなかったが、黒羽の足下で光ったビーチグラスは劈開面に年季の足りない鋭い黒を湛えていた。 「行こうぜ!」 まだ首だの腕だのをぐるぐる回しながら波打ち際に突っ込んでいく黒羽を追って樹も砂を蹴る。昼の日差しは凄まじく、松の間に微かにちらつくサルスベリは心なしか紅が深い。そして引き潮の波はぬらぬらと油のように穏やかだ。 +++ 「あっちの方にでかい川があるんだよ。来る時に橋渡ったろ?ここからでも岩伝って回り込んだら三角州がみえんじゃねえかな」 どこか兄貴風が抜け切れない素振りで黒羽が言ったのは、一旦浜に上がってそう間もない頃だった。一度は海に入ってみたもののこのささやかな浜辺でどう楽しめばよいのか考えあぐねていた樹は、遊泳区間の中央辺りで潮の味見をした程度にしか海を味わえていない。海の底なら面白いものでもあるかと思って顔を突っ込んでみても緑が濃くて何も見えなかった。 「なあ、行ってみようぜ!サギとかカメとかいるかもよ」 黒羽がそう言うなら海の方は諦めた方がいいのかもしれない。しかし黒羽の指した先を見ても5階建ての茶色いマンションに視線がぶつかってしまって、言われなければ川も何もただ住宅が立ち並んでいるようにしか思えない。 不審顔の樹を置いて黒羽が向かったのは、浜の隅に磯を模して積み上げられたテトラポットの山だ。 「バネ!そっちは立ち入り禁止になってるのね!」 慌てた樹が声を上げた。 「遊泳区間が決まってんのは海ん中だけだろ?大丈夫だ」 「駄目なのね!ちゃんと浜にもラインが引いてあるでしょう」 テトラポットの数メートル手前まで追いかけて来た樹の足下の砂の上には、海に浮かぶブイから続く赤いロープが横切っている。樹はそれを指差し仁王立ちで鼻息を荒げた。 「ここ!ちゃんと区切ってあるのね」 「浜の方は別に繋いであるだけなんじゃねえ?泳げる場所がせめーんだしさあ、浜で遊ばないでどうすんだよ。エイが上がってくる訳じゃなし」 「エイ?何のことですか」 「昨日空港の待合いのテレビで湾内にアカエイが大発生してるって言ってたろ?だから海も区切ってあんだよ」 「知らないのね」 「あー、樹っちゃんな、到着ロビー着いてすぐ一人でウロウロしてたもんな。あんときにロビーのテレビに出てたんだよ」 「知らないのね」 「とにかくエイとかサメがいるから泳げる場所が狭いんだよ。つまり海の中じゃなきゃ関係ないってこと」 「でも駄目なものは駄目なのね、何かあったら他の人に迷惑ですよ」 「昨日兄ぃに迷惑かけといて良く言うぜ。行方不明になって空港で時間ロスしたから今日は遠出しないでここで我慢しとこうってことになったのに」 黒羽の声音が明らかに変わった。他の誰かに向けてならば偶に耳にする声だ。 滅多に飛行機など乗ったことがなかったものだから、興味に引かれて空港内を動き回ってしまったのは仕方なかったと樹は自分で思っている。樹の兄よりも年上かと思われる黒羽のの従兄弟の青年に探し当てられてやっと人を待たせていたことを思い出したくらいなので余程熱中していたのだろう。 「ああ、昨日はねー」 出発空港の人混みに比べれば夜の到着ロビーなど大した人手ではなかったにしろ、見たこともない赤の他人をよくぞ特徴を聞いただけで見分けられたものだとあの時は酷く感心したものだ。実家である黒羽の親戚宅に関東から帰省中だという彼は妙に無機質な人で、黒羽が幼少時から兄のように慕っていたと聞いていただけに後から改めて彼と紹介された時には少々意表を突かれた。その彼は勿論、黒羽さえ昨日は怒ってもいなかったのにここにきてその言い草は理不尽だ。 「でも、今はその話じゃないでしょう」 じり、と夏の日が肌を灼く音が聞こえた。潮で冷ました体がまた汗を噴き出している。従兄弟には確かに初対面から面倒を掛けてしまったかもしれないが、だからと言って無愛想とか迷惑そうという訳でもなかったのだから今日は付き合って貰えば良かったと樹は思う。なのに実際そう申し出てくれたのを断ったのは黒羽ではないか。それをどう突いて良いのか分からずに苛々して足下の砂を掻くと、薄い砂の層のすぐ下から次々と瓦礫と貝の死骸ばかりが出て来た。大きめの貝殻を足指で摘んで、ひょいと投げたら黒羽の脛に当たった。黒羽は何も言わずに同じ事をして返してきた。 元より口で勝負を望む二人ではない。続かない言葉に、怒っているというより困っているのだと気付くのに時間は掛からなかった。言い争ってないで取り敢えず遊泳区間の一番奥のブイまで競争して決着でもつけるかという話になりかけたが、争いの決着を託すには沖のブイは近過ぎた。 +++ 黒羽が遊泳区間を区切って並ぶブイに沿って何度もクロールで往復している。樹はと言えば、相変わらず水面がぬらぬら揺れているのがどうにも妙で面白くて、先程からずっと水面に目だけを出してただぷかぷかと浮いていた。湾から出れば荒々しい灘が待ち受けているとも聞いたが、水上ボートの作った波に煽られるより他には大して波らしい波もないところを浮き沈みしていても今ひとつ面白味に欠けたのは本音だから、そろそろ浜に上がってもいいかと思う。波間から見上げた空には密度の濃い小さな雲の固まりがひとつふたつ、「ぽっかりと」という形容に相応しい様で浮かんでいる。島々の隙間から所々に覗く水平線はとてもくっきりとしていた。 まだどうやってこの気分を取り繕えば良いのか分からないのはお互い様らしかった。一頻り頭を冷やした後はどちらともなく隣り合って浜に座り込む。他に知る者もいない場所ではどうしようもない。二人並んで腰を下ろした波打ち際は行って戻る波が金色の粒子を巻き上げていて、水が宝石でも含んだようにきらきらと太陽の光を反射していた。海から上がって体が重いと感じるなどここ暫く無かったことだ。 「なんかさ、もしかして俺等、言い合いしたのって久し振りじゃね?」 黙って波打ち際を睨んでいた樹に黒羽がぼそりと言った。 「大体誰かいるからね、言い争う前に話が終わっちゃうのね」 「ボケもツッコミも一杯いるからな」 「でもお前とダビデはよくやってるみたいですけど?」 「樹っちゃんは相手を先に謝らせるの上手そうだよなー」 「別に怒ってなくてもサエが勝手に謝るんですよ」 「誰もサエとは言ってねえし。それに樹っちゃんが本気で怒り出したら亮でも避けるし」 黒羽が喉の奥で笑っている。樹は観念して立ち上がることにした。 「お前とダビデの冷戦よりは傍迷惑じゃないと思いますけどね!」 言われる度に、口にする度に鮮明に現れるやりとりは昔話でもないのに懐かしい。馬鹿みたいだ、聡だったら「ヤキが回ったか」と呆れるところだろう。多分、足りなかったのは海の広さでも本物の砂浜でもない。波にたゆたう砂子の煌めきに引き寄せられたのは、見慣れた海や砂浜の幻影ではなく、そこに集まる子どもたちが名を呼び合う歓声だ。 「あっちに松島が見えるだろ?」 唐突に黒羽が示した方向に目をやると、隣の浜辺のショッピングモールから突き出た桟橋を背景にして小さく黒い影が浮かんでいる。こちらの岸からならばさほど離れてもいないようで、海面に突き出た幾本もの松の枝をはっきり見て取ることが出来た。周囲十何メートルかという程度で島というよりは岩に近い。 「兄ぃがまだ中学の時は学校の真裏が海岸で、そっからみんなであの島まで泳いでたってよ」 「なんかウチみたいなのね」 「そうだな」 日常を思い出すだけで気持ちが持ち上がる。この不思議な高揚感がとても愛しい。 「じゃあその学校はこの近くにあるんですか。それなら距離的には楽勝なのね」 しかし、黒羽は、いや、とそのまま体を反転させて山手に向き直り、 「今はあっちだ。勿論学校が動いたんじゃねえぞ」 と、埋め立て地を横切る幹線道路を越えて連なる住宅街のそのまた先を指差した。 +++ 帰り道、散歩がてら少し遠回りをして件の中学校を辿る帰路を選んだ。それが予見以上に内陸寄りだったものだから、なるほど随分と派手に埋め立てたものだと樹は内心で感心した。まだ日は高く、吹く風は潮を含んで生温い。雛が去った鳥の巣を思わせるようなやや草臥れ気味の住宅地を縫うようにして抜けると、道は結構な広さの川に行く手を遮られた。アスファルトの道を真横にぶった切った低い堤防からは細い細い橋が対岸まで延びている。人と自転車がようやく擦れ違える程度の狭い橋だ。小さな階段とスロープを区切る柵には何度もペンキを塗り直した様子が窺えたが、匂いの強い錆が強靱な雑草のように塗料を割って浮き上がっている。一度に何十人もの行き来を支えるような橋ではないのだろう、朽ちた吊り橋でもあるまいに、何かの拍子で真ん中からぽきりと折れてしまいそうだ。 「ここ、さっき言った川。この橋が兄ぃの通学路だった」 スタスタと先に行く黒羽に続いてスロープを上がると、しかしながら踏み締める足は微塵の揺るぎもなくしっかりと受け止められて、薄いサンダル越しに感じるセメントのごろごろした感触が地元の磯を思わせた。道幅よりも高いフェンスの隙間から真下を見下ろせば、満ち始めて僅かに川底を晒した州で亀が遊んでいた。 「俺がちっちゃい頃はさ、夏休みに兄ぃに海連れてって貰う時はいつもこの橋通ってたんだよ。」 行きよりも遙かに遅い足並みを更に緩めて、黒羽は動物の檻を思わせるようなフェンスに指を掛けた。あまり帰りたがらないのよ、と愚痴る叔母の酌を受けていた彼の弱い笑みもいつかの昔にはこの場所で輝き放っていたのだろうか。 「ここから水平線が見えたんだ。いっつも海の色が違うんだよなー、分かるだろ?んで、ちょっと家に帰りたくなったりすんだよ」 樹は静かに頷いて流れの先を視線で追った。けれど、そこから臨んでしかるべき海の姿を見つけることは出来ない。真正面に見据えた川下側は、住宅とマンションが建ち並ぶ両岸が先の方で水面と思われる辺りを左右から短く切り取っている。そしてその切り抜かれた水平線の辺りで、両岸を繋ぐ立派な車道橋が空と海とを分け断っていた。大きな車が何台も行き交うその橋の上空を更に高速道路が斜めに横切る念の入れようだ。 「引き潮の時は階段の脇から降りて浅瀬に出られたんだよ。俺ちっちゃいから兄ぃに担がれてさあ」 風向きによって時折鼻を擽る磯の香が海の存在を窺わせてはいたが、それは故郷の海を彷彿とさせるというよりも余り触れて欲しくない忘れかけた思い出を揺り起こしそうな生臭さを孕んでいる。 「昔は良く一緒にここ通ったんだけどな、いつの間にか、な。無理に連れてくのも悪い気がしてよー」 軽い口調とは裏腹に、黒羽は、思ったよりも長く橋の真ん中に立ち止まっていた。 例えば自分の住む町の、あの学校裏の海岸もいつか消えてしまうことがあるのだろうか。あの浜風と松林が遠ざかっていく様を想像するのは樹には些か難しい。さっきの浜に敷き詰められた砂は一体どこからやってきたのだろうかとぼんやり考えた。 波の音が聞こえる。巨大な入道雲を冠のように頂いた海が遮るものなく視界を覆う。声が届く。 「俺達んとこはずっとほんもんの海だよな」 永遠の夏を留めておけたのはほんの僅かな瞬間で、俺も今ちょっと帰りたくなったのね、と言う気持ちを樹はそっと飲み込んだ。それとなく樹に寄り添ってきた黒羽の言葉は独り言だったのかもしれない。けれど、珍しく心細げなその声を黒羽が間違いなく樹に向けて囁いていたことは樹をとても嬉しくさせて、その橋から見たフェンス越しの風景は、代え難い夏の思い出として長く樹の胸を去ることはなかった。 うみが りょうてを ひろげて はしってきたから わたしも りょうてを ひろげて はしっていったの (岸田衿子「うみとわたし」より) fin. >>Back |