オジイの家は海の見える一軒家。彼の教え子は自然と集まってくる。千葉を離れたOB、OGもふらりとやってくる事もある。待ち合わせでも、約束でもない。押しては引いてくる波のように、水源が海へ流れゆくように、彼らは恩師の家へ戻ってくる。 千葉から東京へ転校した木更津淳。暑いアスファルトの道路を歩きながら、彼は空を仰いだ。 真っ青な空に、真っ白な雲がゆっくりと穏やかに流れていく。 「今日で夏休みも終わりかー」 今日は八月三十一日。明日は九月一日。二学期が始まる。 「淳ぃ、まだ今日があるだーね」 隣を歩く友人の柳沢が唇をクチバシのように尖らせた。 「ああ、そうだ」 淳は手を合わせる。 「今日、友達が誕生日なんだよ」 「へえ」 「覚え易いだろ」 「そうだーね」 柳沢が頷くと、二人は笑い合った。 きっと六角の友人たちは彼を祝っているのだろう。 淳はまた、空を仰いだ。 その頃、千葉では――――。 ジー、ジー、どこからか蝉の鳴き声が聞こえる。 天根は暑い砂浜に入り、履いたサンダルに砂が入るのも気にせずに横断した。 オジイの家の垣根を、長身を生かして飛び越え、庭から入る。 縁側に膝を乗せて家の中を覗くが、ここから見える居間に人は見当たらない。止まると汗が一気に噴出してこめかみを伝う。サンダルから踵を浮かせ、砂を落として天根は呼んだ。 「オジイー!誰かいるかー?」 …………………………。返事は返って来ない。 「ちぇっ。樹ちゃんなら、いっちゃん先にいそうだったのにな」 ぼそりと呟いた途端、後頭部を衝撃が襲う。 「つまんねえんだよ、このダビデが!」 華麗な旋風脚で天根を蹴りつけ、黒羽が現れた。 「バネさん、いるなら……」 縁側に突っ伏した顔を上げ、天根が振り向く。鼻は薄っすらと赤い。 「今来たところだ。つまんねえギャグを言いそうな予感がしたもんだから、急いでやって来ちまった」 仁王立ちで豪快に黒羽は笑う。 「誰もいねえのか」 「そうみたい」 黒羽も縁側に膝を乗せて伺った。 「あー、二人とも来たんですかぁ」 二人を指差し、葵が台所から居間に出てくる。彼の片手には棒アイスが握られ、裸の足は畳をぺたぺたと軽い音を立てた。 「さっきダビデが呼んでいたけど、アイス銜えていて返事できなかった。ごめん」 ほら、と葵はアイスを銜えて見せる。 「オジイは?」 「さっきいたんだけど、どっか行っちゃったみたい」 後ろを振り返るだけで足は動かさなかった。三人の間で顔を見合わせ合うと―――― ピンポーン。チャイムが鳴り、訪問者の来訪を伝える。 「僕、行って来るね」 「行っといで」 黒羽と天根は同じ動作で手を振った。 「俺たちも上がるか」 「そうっスね」 靴を脱いで並べ、家に上がる。 「バネさーん、ダビデ、皆来たよー」 葵が亮と首藤を連れてきた。早いのは玄関がすぐそこだからである。 「ケーキ買ってきた」 亮は箱の入った袋を上げて見せると冷蔵庫の中にしまう。 「皆って、サエさんも肝心の樹ちゃんもいないぞ」 的確に指摘する天根。 「サエは樹ちゃんを連れてくるって」 首藤は居間の真ん中にあるテーブルの傍に腰をかけた。 「じゃあそのうち来るだろよ」 「オジイもな」 「そうそう」 黒羽、天根、亮も座る。 「今日は一段と暑いなー」 「そうだねー」 「さっさと冬になれっての」 「喉が渇いたー」 口々に好き勝手言った後、八つの瞳は葵を注目した。気付けば、立っているのは葵一人きり。 「お茶」 声が揃う。 葵は何か言いたそうに両手の拳を上げるが、諦めて腕を下ろした。 樹は自宅にいた。佐伯が家に上がり、オジイの家へ誘おうとする。 「樹ちゃん、オジイの家に行こうよ。皆待ってるから」 にっこりと佐伯は笑うが、樹の顔は沈んでいた。あまり感情を表に出さない樹だが、目に見えてわかる。 「どうしたの」 「見つからないのね」 「何が?」 「…………ラケット」 テニスプレイヤーの命であり、六角テニス部はオジイ手製のものを使っている特別製だ。落とした、忘れたならまだしも、そう家に戻って来て“無い”となるものでは決して無い。 「昨日から探しているんですけど、ちっとも見つかりません」 「そ…………そうなんだ……」 佐伯も一緒に気落ちしてしまう。 せっかくオジイが作ったものを無くしては、樹も家に行き辛いのだろう。 「心当たりは?」 無言で首を横に振る。 「見つからないものは…………んー……」 腕を組み、俯く佐伯の脳裏に何かが過ぎった。似たような何かを昔、先輩から聞いた事があったのだ。 途切れた記憶の糸を紡ごうとするが、なかなか結びつかない。けれども、そう落ち込むような事態ではないのはわかっていた。樹に同パターンが当て嵌まるかはわからないが、大丈夫そうな予感だけはしていた。 「それだけ探して無かったんだもの。オジイだってわかってくれるよ。それに……なんとなく……」 ううん。佐伯は首を横に振る。 「行こうか」 「ええ」 二人は樹の家を出て、オジイの家へ向かった。 太陽は真上に昇り、カンカンに照らす。涼しそうな陰の領域は少なくなり、見るからに真夏の景色が気を遠くさせる。 後ろを電車が過ぎていき、人気のない駅の前で少年――――越前は立ち尽くしていた。 父・南次郎にオジイへ菓子折りを渡すようにと使いを頼まれて、彼はこうして千葉の外れの駅にいる。わざわざ手渡しでなくても宅急便で良いだろうと意見はした。だが、子供は外に出て遊ぶものだと追い出されるように行かされた。そもそも、これは使いであって遊びではない。矛盾だらけの父親の横暴に、言い返したい言葉は溢れ出して収集がつかなくなるので、怒りが空しくなる。 千葉の海へは合同合宿で訪れており、なかなか良い土地だったので着くまではそれなりに楽しみではあった。しかし着いてみれば、あれは顧問に連れてこられたのであって右も左もわからない現状に越前は気付く。 「暑い………………」 クーラーがガンガンに効いた電車の中とは正反対の外。冷えた肌が解凍されるように温まるが、じっとりと汗が滲んでくる。 途方に暮れていた。道を聞くにも人がいない。駅員に聞けば良いという考えは暑さで消えていた。 立ち尽くしても汗をかくだけ。頭を冷やそうと、越前は自販機へ行く。 好物のファンタを見つけ、金を入れて押そうとすれば、誰かの指が割り込んで押されてしまう。 「あっ」 口をぽっかりと開け、越前が相手を見れば、やはりオジイその人。小脇にラケットが抱えられていたが、特に指摘はしなかった。 オジイが言うには、南次朗から電話があり、越前を迎えに来てくれたらしいのだ。話が恐ろしく遅いので、要約するとこんな感じである。 一方、オジイの家では樹の誕生日祝いが行われていた。 人数分のケーキを並べ、樹の十五歳を祝福する。仲間の好意に樹の沈んでいた心は浮上していた。完全にラケットの事を忘れる訳ではないが、嬉しかった。 「樹ちゃんも十五歳かー。次は誰だ?」 「バネとサエだよ」 「そっかあ」 黒羽と佐伯の誕生日は近いので合同扱いをされている。 「オジイ、遅くない?」 壁掛け時計を見上げ、木更津が言う。 「本当だ。俺、ちょっと周り見てくるよ」 首藤が立ち上がる。その時丁度、チャイムが鳴った。 「俺、行ってきますね」 玄関へ行ってしまう樹。 「誰だろう」 誰かが呟いた。 玄関へ行くと、すでにドアを開けて入ろうとするオジイと越前がいた。越前の顔には“長居させられんのかな”とありありと書かれている。 「オジイ。自分の家なんですから、チャイム鳴らさなくても」 樹が言うと、オジイは舌を出した。よくよく見ればラケットがあり、思わず指差す。 「それ……」 「ああ、これ。はい」 樹に渡す。持ち主の勘でわかる。樹のラケットであった。 しかし、違う箇所がある。ガットが綺麗に張り替えられていた。 「また、来年も使うでしょ」 「ええ…………ああ……はい」 反応が遅れそうになりながら頷く。 中学の夏は今日で終わってしまうが、これからも夏はやって来る。これからの為に、オジイは直してくれたのだ。 涙ぐみそうになるが、すぐには泣けない引っ掛かる点がある。 「どうして、オジイが持っていたのね」 オジイは何も言わずに目を細めた。謎が多すぎる老人である。 「樹ちゃーん、どうしたー?」 後ろから、なかなか戻って来ない樹の様子を見に、皆がやって来た。全員で来れば、玄関は狭くなる。 樹の後ろから顔を出し、オジイと越前を見る彼ら。 「オジイ帰ってきたんだ。心配したよ」 「越前くん、いらっしゃい!」 「樹ちゃん、ラケットあったんだ。良かったね」 一斉に口を開けば、うるさくなった。 越前は気後れさえ感じている。 「じゃあ…………俺はこれで」 帽子を深く被り、一歩下がった。 「せっかく来たんだし、中へ入ったらどうですか」 葵の一声に六角メンバーとオジイがうんうん頷く。 「丁度、樹ちゃんの誕生会やっていたんだ。ケーキも余っているし」 「人数は多い方が楽しいのね」 「外は暑かったろ、休めよ」 「帰りはちゃんと駅まで送るから」 カモン!心が一つになり、何本もの手が差し出される。完全に六角ペースだ。越前は観念せざるを得ない。 顔を上げれば、樹の笑顔が映った。 「あの、樹さん、おめでとうございます」 「有難うなのね」 >>Back |