あなたという存在を知った時から、ずっと。
ひとがた
月の淡い光が照らす夜の街。その中で酒場は昼間のように眩しい明かりを放っている。
今夜のクローディア一行はここで夕食を取っていた。
酒が入った仲間たちは陽気に笑い、盛り上がっている。そんな彼らを一つ離れた席で眺めるクローディア。
はたから見れば無表情だが、知った者が見れば口元が綻んでいるのがわかる。
同じテーブルに座るジャンも当然察していた。
クローディアの視線が仲間たちの方を向いているのを良い事に、ジャンは彼女の横顔を見詰めていた。
バファルの高貴な血を引き継ぐ美しい輪郭と髪。瞳は皇帝にとても良く似ていた。行方不明だった皇女がこうして目の前に存在している。迷いの森で出会いを果たしてからかなり経つが、運命の瞬間を忘れられずにいた。今でも夢ではないかという思いが浮かぶ時があるくらいだ。
迷いの森に行方知れずの皇女がいる――――騎士を志した頃に知った憧れをずっと胸に抱き続けてきた。
クローディアはジャンが夢見た通りの美しい女性だった。
しかし、彼女は人間。微笑を浮かべているだけの人形ではない。
「ジャン?」
クローディアがジャンの視線に気付き、振り返る。ジャンは反射的に逸らしてしまった。
「なに、その態度」
眉を潜め、不快そうな顔をするクローディア。
「申し訳ございません。つい驚いてしまって」
「私の事をジロジロ見て、一体どうしたの」
クローディアはきょろりと瞳を動かし、ジャンの顔を覗き込もうとする。
この目は――――ジャンは肝が冷える感覚にとらわれた。
「ジャン?」
優しく、甘えるように呼ぶ声。出会った頃とは異なる、感情がしっかりとこもった音。
「クローディアさん、おかわりどうですか」
ジャンはクローディアのグラスに飲み物を注ぐ。
「ジュース、そんなに飲めないわ」
彼女の飲み物はジュース。先日、酔って気分を悪くしてしまったのでジャンに厳しく止められたのだ。
出会った頃と比べ、彼は随分と厳しくなった。
「ジャン、あなたはお酒飲まないの」
ジャンもまたジュースであった。
「今日はそんな気分ではないので」
苦笑いをして断る。
「今日って、最近ちっとも飲んでないわよ。禁酒?」
「そういう訳ではないのですが」
「そう。元気がないように見える。心配だわ」
クローディアの表情に影が差す。
ジャンの胸が高鳴った。喜びではない、緊張するかのような嫌な鳴り方だ。
「心配だなんて、あなた様は私のような者の事など」
「……………………………」
薄く唇を開くが、声を発さずにクローディアは閉ざしてしまう。
ここで会話は途切れてしまった。
ジャンはおもむろに指を額に当てる。冷や汗をかいていた。
その後、クローディアとジャンは酔って行動不能になっている仲間に手を貸し、宿に戻る。
彼らが眠るのは早く、床に着くなり寝息が聞こえた。
「……………………………」
寝室が静寂に包まれる中で、ジャンは眼を開く。ベッド横に置かれた愛剣を掴み、部屋の外へ出て行った。一階へ降りて外に出る。裏庭に回り、井戸を見つけると水を借りて剣を研ぐ支度を整えだした。
黙々と剣を研ぐジャンの瞳は鋭く揺るがない、バファル騎士の意志を宿していた。剣へ真っ直ぐに神経を注ぐ。
「っ」
息を漏らす。ずらしてしまい、危うく手を切ってしまう所だった。
剣は己を映す鏡であった。鏡はとっくにお見通しだった。
剣を研ぐのは騎士の務めではない、己が騎士という暗示なのだと。
ジャンはある局面に立たされていた。剣を研ぎながら、そこから抜け出す術を模索しようとしていたのだ。
「誰だ」
気配を感じ、ジャンは振り向く。
「私よ、ジャン」
クローディアが建物の影から姿を現す。
「クローディアさんでしたか。どうされました」
途端に声色が変わった。
「どうもこうも。酒場で言ったでしょう。心配だって」
クローディアは歩み寄り、井戸に寄りかかった。
「怖い声をしていたわね。あなた最近おかしいわ。どうしたの」
「私は元からそんなものですよ」
ジャンは剣に視線を落とす。切っ先が反射して鈍い光を放った。
「クローディアさん。休める時にお休みください。宿にいつも泊まれるとは限らないのですから」
「じゃあ、あなたも休んで」
「クローディア様」
声を低くめて強めに言う。
「あなたとは仲間になれたと思っていたのに」
クローディアの声が悲しみに染まる。ジャンはそれでも顔を上げようとしない。
「私、何か悪い事した?」
ジャンは答えない。クローディアは軽く息を吸い込み、放った。
「あなたを好きになるのがそんなにいけないの」
声が裏返りそうになりながら、彼女は告げる。
「私、あなたが好きなのよ」
ジャンは動じなかった。
心の準備は出来ていたのだ。
いつか、こうなると。
憧れの皇女も一人の人間だった。
怒りもするし、悲しみもする。人に好意を抱く事もある。
当たり前ではあったが、ジャンにとっては掴み辛い現実であった。憧れは抱きすぎて引き摺ってしまっていた。
いつからか、どこからか、ある時ジャンは悟ってしまった。
皇女クローディアは自分を好いてくれているのかもしれないと――――
初めはただの妄想だと忘れようとした。憧れに憧れた皇女に、騎士として頼って欲しい思いが先行したに違いないと。
まさか皇女様に、などと自惚れと身の程知らずが天秤のように上下した。
だがしかし、徐々に確信が増していくのを感じていた。
ドジなジャンでもさすがにわかってしまう。
これはただの好意ではない。一心な恋なのだと。
クローディアの瞳が、クローディアの声が、真っ直ぐな想いとなってジャンへ向けられる。
皇女の愛を手に入れた。これは騎士として誇るべきなのかもしれない。
けれども、それは絶対にいけない。
禁忌とも悟った時、ジャンは恐ろしさを抱いた。
役目、使命、故郷……ジャンを形成していったものが頭の中で巡りだす。
皇女、女、騎士、男。どれに手を伸ばせば良いのかわからない。滑って根元から折ってしまいそうだった。
悩み苦しむのは自分も好いているからだとわかっていた。
皇女は顔を知らずとも、存在を知った時から恋をしていた。恋焦がれすぎて気付くのが遅れたのだ。
それまでは綺麗で美しかった秘められた恋だった。
しかし蓋を開けてみれば、禁忌に満ちた絶対にいけないものだった。
駄目だ、駄目だ。ジャンが拒否し、騎士であり続けようとしてもクローディアには通じない。
いつか、告げられてしまう。わかっていたのだ。
「……………………………」
ジャンは立ち上がる。だが、何も言わない。
クローディアは察し、息を吐く。
「知ってたのね。酷い人だわ」
「あなたの心が変わってくれる事を密かに願っていました」
「だからあんな態度を?私が他の人を好きになれば良いの?」
「それは」
クローディアと顔を合わせるが、言葉が続かない。
「身分に見合う、王子様ではないといけない?随分勝手ね」
正に彼女の言う通りだった。
ジャンはあの日、あの時。迷いの森で出会ったクローディアに、外の世界への道標を差し出してしまった。クローディアを運命の荒波へ呼び込んだのには十分過ぎるほどの責任がある。騎士として彼女を守ろうと心に誓った。けれども彼女はジャンにそんな事は全く望んでいない。だからといって彼女の望みは叶えられない。
「私とジャンが皇女と騎士だからいけないのね」
「そうです」
クローディアはジャンの瞳をじっと覗き込む。
悲しみや怒りとも異なる、静寂。彼女の中に森があるような感覚に襲われる。
たくさん傷付けてしまい、合わせ辛いのに剃らせられないでいた。
「ジャン。私たちが何をしに旅をしているかわかる?」
落ち着きの中に力強さを秘めて、クローディアは問う。
「サルーインの復活を阻止するためです」
「そうよ。私たち、神を滅ぼそうとしている。私は勝つつもりでいるわ」
「ええ、私はあなたの意志に従います」
「あなたにとってバファルが大事なのはわかるわ。でも、私は皇女だとか騎士だとか、つまらないと思うの。神に立ち向かえるなら、運命も変えられると信じている」
クローディアは一歩前に出る。二人の距離が縮まるが、ジャンは引き下がれないでいた。
「私はあなたに会いに森を出た。ジャン、あなたを手に入れるわ」
目を瞑り、顔を近付けて唇をジャンの口に押し付ける。
「ん」
口付けなど、初めてではなかった。
なのに、脳を揺さぶられるほどの衝撃を覚える。
心の奥の何かが崩れ、血潮が全身を忙しく巡って身体が熱くなる。
駄目だ、無理だ――――
諦めの言葉が過る。
彼女の意志を曲げる事は出来ない。
「……………………………」
「……………………………」
唇が離れた。
夜の闇の中でも、互いの顔が赤く染まっているのがわかる。
クローディアは先ほどの力強さはどこへやら、ジャンも少年のような反応を見せている。
何かを言おうとクローディアの唇が開くが、それだけだった。そんな彼女の頬にジャンの手が触れる。
困ったような、照れたような、様々な感情をこめて彼はぎこちなく笑みを浮かべた。いつものジャンが戻ってくれた。そう感じたら、クローディアは目の奥が染みて唇を歪める。
「ごめんなさい」
慰めるように抱き寄せた。
二つの影が一つとなり、クローディアの身体はジャンの腕の中におさまる。
彼女の肩をおさえて隙間を作り、身を屈めると、今度はジャンの方から口付けをした。クローディアは目を丸くさせて驚くが、そっとジャンの額に口付けを返す。時を思い出すまで、触れるだけの口付けを交互にし合った。
こんな事はいけない。わかっていたし、そうそう曲げられるものでもない。
しかしジャンもまた騎士である前に、一人の人間であった。
まあ良いじゃないか。
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