楽園



 異形の魔物の雄叫びが大地を揺るがす。
「あ………ああ……」
 ダウドは倒れまいと足を踏みしめ、魔物を見上げた。
 大きく、凶悪そうで、おまけに初めて見る姿。あまりの巨大さに首が痛くなりそうだった。
「なんでおいらは……」
 愚痴を吐く余裕すら無く、声が震える。見開かれた瞼が、緊張と恐怖で痙攣する。
「う」
 魔物と目が合い、全身が凍り付く。
 そうしてそれは、大きく口を開けてダウドめがけて噛み付いてきた。
「うわあああああああ!!!」
 殺される!絶体絶命のピンチに、喉の奥底から力いっぱい悲鳴を叫んだ。




「あああああああ…………あ?」
 魔物の大口だった闇が、真っ暗な部屋の天井に変わると、ダウドは大口を開けたまま声を出すのをやめた。
 どうやら、夢だったようだ。ここは宿の寝室であった。
 うなされていたようで、額とシーツに密着する背中は薄っすらと汗をかいている。
 左右を見渡すと、仲間たちはぐっすりと眠っており、起きる気配を見せない。
 夢は夢だったが、半分本当であった。夢で見た魔物は昼間に倒したものと同じ。今まで見た事の無い姿で、見た事の無い攻撃を仕掛けられて苦戦を強いられた。戦った仲間は疲労で、ダウドの声にも気付かず深い眠りに落ちている。
「嫌な夢だったな」
 夜明けまではまだ時間もあり、二度寝をするには汗が気持ち悪い。
 ダウドは身を起こし、宿の裏庭にある井戸で顔を洗う事に決めた。


 横になった事で皺になった衣服を整えながら、一階に降りて外に出る。
 内と外との気温の差に一度身震いをして、裏に回って井戸に辿り着いた。水を汲もうと縄を引くと、自然と欠伸をしたくなり、眠気が戻ってくる。
「あふ」
 つい口元に手をやってしまい、せっかく引いた桶が落ちてしまった。
「あーあ」
 一人呟き、もう一度縄を引き始める。
 そんな彼の背に近付く、一つの影があった。
「もし」
 風に消え去りそうな声で呼びかけ、肩に手が触れる。
「ひいっ!」
 ダウドはゾクゾクと爪先立ちになって身を竦ませ、危うく井戸の中に落ちそうになった。
「だ、誰だいっ」
 振り向いた先にあった見知った顔に“あっ”と声を上げる。
「詩人さんか」
「こんばんは、ダウドさん」
 詩人はにっこりと笑う。彼は旅の吟遊詩人で行動を共にしていた。本名は知らない。謎の人物であった。


「どうしたの、一体」
 井戸に背を付けて、ダウドは耳を傾ける。
「あなたの階段を下りる音で目を覚ましましてね。寝付けないのかと思いまして、私の出番だと直感しました。どうです?眠りを誘う曲でも」
「布団に戻ったらすぐに眠れそうだから大丈夫」
「おや、そうですか」
 詩人はわざとらしく、肩を落とす振りをした。
「明日も大変だろうから詩人さんも寝た方が良いよ。魔物も強くなっているし。……あの噂、本当なのかな」
「あの噂と言いますと」
「サルーインが復活するかもしれないって、噂だよ。聞いた事あるでしょう」
 はあ。ダウドは溜め息を吐く。
 にこにことした顔で、詩人はダウドの隣に移動し、井戸に寄りかかった。
「サルーインなんて復活したら、マルディアスはどうなるんだ。どこにも逃げる場所が無いよ〜」
 頭を抱えたオーバーリアクションを取る格好は、ダウドがやると本当に情けなく見えるものであった。
「あーあ、楽園でもあれば良いのに」
 口を尖らせ、ぽつりと呟く。
「楽園なんてね、ありませんよ」
 詩人がぽつりと返した。
「無いだけで、作れば出来るかもしれませんが」
「だーめ。そんなのあってもさ、どうせおいらみたいなのには回ってこないんだ。これね、最近やっと学んだよ」
 ダウドは手を下ろし、夜空を見上げ、また溜め息を吐いた。
「どうして、こう世の中は不公平かな。おいらには親もいない、家だって無い、お金も無かった。最初から全部持っている奴だっているのにさ。せめて綺麗でおいらだけの言う事を聞いてくれる従順な彼女ぐらい、用意しておくべきだよね、神様は」
 無理です、無理。詩人は突っ込みたい衝動を抑えた。
「南エスタミルにいた頃も。今の旅をする生活も。おいらの手は、すす汚れたまま。いつも走って、お金に困って、命の危険さえ狙われる。本当にどうしてだろう。日頃の行いが悪いせい?」
「どうでしょうか。私はあなたの生き方、結構好きですよ」
「うわー、凄い他人事だね」
 ダウドは詩人の顔を見て、うんざりと言った顔をする。
「ダウド、あなたはわかっているでしょう?」
 詩人の穏やかな瞳は、ダウドの瞳の奥をじっと見据えた。
「苦痛から逃れられない事を。この苦痛の世界の中で、幸せを見つけなければならない事を。ようするにですね」
「ん?」
「腹ぁ括れって事です」
 は――――っ、ダウドは長い息を吐く。三度目の溜め息であった。
「わかったよ。もう優しい言葉は期待しないよ。厳しいなぁ」
 井戸から背を離し、ダウドは軽く伸びをする。
「おやすみ。おいらは明日も頑張って生きる」
「ええ、そうしてください」
 詩人は手を振り、宿の中に戻るダウドを見送った。


「苦痛、か」
 残った詩人は、先ほどのダウドと同じように夜空を見上げる。
 かつてサルーインと戦い、命果てたミルザはエロールによって天へ招き入れ、永遠の命を与えた。人の世という苦痛から開放させたのだ。
 果たして、それは正しかったのか。詩人はミルザの物語を詠う度に思う。
 再び脆弱な人間は邪神との戦いを、そう遠くは無い未来に迎える事になる。恐ろしい思いだろう。この上も無い恐怖だろう。それでも、迎えなければならない。
 人は弱い。だが強くなる事が出来る。
 言葉を交わした全てに恵まれなかった青年は、少しずつ、確実に輝けるものを手に入れてきた。
 彼と、その仲間たちなら、邪神と向き合い、刃を掲げる事が出来るのではないだろうか。
 たとえ恐怖に震えても、大地に立ち、前を向いていられるのではないだろうか。


 新たな詩が誕生する奇跡の瞬間を、予感せずにはいられなかった。










愛☆ダウド博へ投稿させて頂いたものです。
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