重いまぶたを開けると、見知らぬ部屋の天井が虚ろな瞳に映る。造りはエスタミルのようだった。
「んん…」
 気だるそうに唸り、ダウドは身を起こす。



夜明け



「………う………」
 立ち眩みがして、額を手に当てた。固い床の上に寝ていたせいで、体の節々が凝っていてもおかしくないのに、自然と痛みは無い。手を離し、辺りを見回す。やはりエスタミルの建築物である。耳を澄ますと波の音が聞こえた。もっとよく見ると、見覚えがある。確か、奴隷商人の住処であった。今は商売替えをして、無人のはずである。
 なぜこんな所にと、記憶をめぐらせた。金目の物を物色でもしに来たのか。それで床に寝っ転がっていたとでも言うのか。だとしたら、なんと間抜けな事であろう。
「大丈夫かな」
 体をペタペタと触り、財布のある場所を確かめて取り出す。開けて中身を確認する。眠っている間に、盗まれはしなかったようだ。


「はー…」
 ふらふらと壁の方まで歩み、背を付けて寄りかかった。
「はー……ぁ」
 溜め息を数回吐く。よく眠った気がするのに、なぜだか酷く疲労が残る。


 長い夢を見ていたようだ。暑くも寒くも無い場所で、倒れたまま、遥か遠くの虚空を眺めていた。真っ暗な闇の中であった。何も聞こえない、一人ぼっちの世界。自分の居場所さえもわからない、広大であり、狭くもある世界。寂しくは無い、悲しくは無い、嬉しいという事も無い。感情というものは無かったような気がする。息をしていたのかもよくわからない。
 ただ、何度か瞬きをしていた。瞬きをする度に、誰かの顔が映った。その誰かの正体を思い出そうとすると、目の前の世界が水で覆われ、視界が歪んだ。そうして、水が引いて行くのを待った。あれは何だったのだろう。目覚めてしまえば、忘れてしまう。訳のわからない夢であった。今度会ったら、話のネタにしようと、口元を綻ばせた。その前に盗みに入った家で居眠りをしたなどとボロを出したら、叱られてしまうのではないかと思うと、ますますおかしくなった。


「会う、誰に?」
 ダウドは声に出して、自分へ問いかける。


「ジャミルか」
 首に手を当てて動かし、ストレッチをした。
「そうだ、ジャミルだ」
 しばらく会わぬ内に相棒の名まで忘れたのか。とんだ度忘れだ。
 ジャミルはエスタミルを出て旅に出たきり、ちっとも帰ってこない。便りの無いのは元気な証拠と思い、もしもの事などは考えてはいないが。
「さみしいな」
 呟きが、さらに心の寂しさを増した。
 試しに開けてみたタンスに入っていた、安っぽいネックレスを服の中に忍び込ませて、戸を開けた。




 外へ出ると、潮風に布がなびいた。空を見上げると、朝焼けで赤紫色に染まっている。波の音が大きくなり、路地をのら猫が通っていった。大好きな南エスタミルの風景が広がる。治安の悪い国だが、良い所もたくさんある。例えばこの朝焼けのように。
 それなりに楽しい事はあるし、それなりの幸せもある。なのに、ジャミルは出て行ってしまった。
「バカじゃないの」
 誰も聞いていないはずの独り言なのに、悪い気持ちがして口ごもる。かぼそい呟きが波の音に消えていく。


「あふ………」
 寝すぎたのか、欠伸が出た。口を手で隠し、涙目になる。
「……ふあぁ………」
 時刻もあるのか、また欠伸が出る。今度は隠さずに大口を開けた。
 まだ暗い道を歩いて、家へ向かう。


「あら?」
 聞き覚えのある声がしたと思うと、その声の主は小走りでダウドの元へ駆け寄ってくる。
「ダウド!」
 ファラであった。
「………ファラ」
 のんびりとした声で返事をする。
「早いね」
「ダウドも」
 顔を合わせると、自然と笑みが零れた。なぜだか懐かしい気がする。
 ファラの黒髪が朝焼けに照らされて、淡い赤を放っていた。
「あたいはほら、母ちゃんの仕事が早くなってって……あれ?ダウドは知ってたよね。何で話しているだろう。きっとほら…あれよ」
 手を合わせて、自分で納得したように頷いてみせる。
「久しぶりね。もー、どこへ行っていたのよ」
 頬を膨らませて、軽くダウドの胸を叩く。
「そうだっけ」
「そうよ。そうやってとぼけて、ジャミルの真似しないの」
「そういうつもりは無いんだけど、そうかもね」
「変なダウド。まぁ元気で良かった」
 ほっとしたように、ファラの表情が柔らかくなる。
 そんな彼女の顔を見つめて、ダウドは口を開く。
「ファラ、綺麗になったんじゃない?」
「えー?」
 ファラは目を丸くした後、ほんのり頬を染めた。ダウドの目には、ほんの少しお姉さんになったように見えた。
「そ、そうかなぁ。ほんと変なダウド。えへへへ…」
 照れ笑いをして、髪をいじる。くすぐったいのか、かかとで地面をつつく。
「ダウドも変わったね」
「おいらが?」
 ダウドは思わず自分を指差した。
「うん。すっきりというか、爽やかというか、清々しい顔してる」
「そう?」
「うんうん。最後に会った時、心配だったんだよ。何か思い詰めているっていうか」
 ダウドの周りを一周回って、ファラは言う。
「あたい、てっきりジャミルの後を追って行っちゃったんじゃないかって、思っていたんだよ。それで旅に出る前から、胃が痛くなっちゃったのかなぁって」
「それは無いよ」
「だからあくまで思った事だって。ダウド、これから家へ戻るの?」
「うん」
「そっか、じゃあまたね」
「うん」
 軽く手を振って、ダウドはファラと別れた。
 彼女の口に出した“ジャミル”の名が、不思議と胸の奥で引っ掛かっていた。




 自宅の前まで来て、立て付けの悪い扉をずらして開けると、埃が舞う。
「……これは………」
 ファラの言う通り、久しぶりに南エスタミルへ戻ってきたようだ。ずっと町にいたはずなのに、なぜかはわからない。それを考えるよりまず、この埃だらけの家の中をどうにかしないといけない。
 とりあえず中へ入り、窓を全開にした。桟に触れると黒い埃がべっとりと指に付いた。
「ごほっ、ごほっ」
 埃にむせて、顔の前を手で扇ぐ。光の入った部屋を改めて見て、うんざりした顔をする。
 これを1人で掃除をするのか。2人だったら面倒くさい事も半分になるのに。


「2人?誰と?」
 ダウドは声に出して、自分へ問いかける。


「ジャミルか…」
 ぽつりと、呟く。
 のろのろとほうきを取り出して、掃除を始めた。
 どこもかしこも埃だらけで嫌になる。体を動かした事で滲んだ額の汗を、手の甲で拭う。


 なぜ、こんな事をせねばならないのだろう。
 胸の中で、一つの疑問が生まれた。
 なぜ?


「…………なぜ?」
 ダウドは顔を上げ、背を伸ばす。
 なぜ、そんな事を思うのか。


「なぜ、おいらはここにいるの?」
 その問いはなぜか、旅に出ているはずのジャミルへ向けてしまう。
 手が緩み、持っていたほうきがカランと音を立てて、床に倒れた。










奴隷商人の家にダウドたんがいるのは、物色をしに行ったのではないかと思ってます。
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