タルミッタの西へ。


 友の言葉が脳に焼きつく。


 タルミッタの西へ。


 友の言葉が体を焼く。


 西へ。
 西へ。


 怒れる魂が向かえと示す。


 西へ。
 西へ。


 友の言葉が、悲しみ、憎しみ、怒り、全ての感情を燃やし尽くす。
 燃え尽き、真っ白になった頭の中で、ひたすらに響くのだ。西へ向かえと。



友へ



「なんだよこれは…」
 アサシンギルドへ辿り着いたジャミルは、目の前の光景に自然と開かれた唇の隙間から、そんな言葉が零れた。
 そこは闇であった。本物の闇がそこにあった。
 ありとあらゆる負の感情を押し込め、塗りたくったような“黒”。


 感覚を失うほどに吸い込まれそうな闇に、足がすくんだ。
 あれほど熱かった熱が、一気に氷点下へと下がったように感じた。ひんやりと肌寒いはずなのに、こめかみから汗が伝う。


 この先には地獄より恐ろしい、未知の何かが、ただ静かに眠り、餌を待っているかのように見えた。


「なんて闇なんだ…」


 この通路を、友は歩いて行ったというのか。
 あの弱虫で気の小さいアイツが。


 いや、進むしかなかったのか。
 進むしか、道は無かったのか。
 あの奥へ逃げるしかないまでに、友は、追い詰められていたというのか。


「ダウド……」
 友の名を口に出した。


 なぜ…
 どうして…
 こんなはずでは…


 意味の無い後悔の言葉が、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。


 ジャミルは一歩前へ出た。また一歩、一歩と進み、一気に走った。
 友の歩んだ道なのだ。歩むしかないだろう。その為にここへ来たのだ。




 闇の中に蠢く異形の物。あれはアサシンではない。それとも幻なのか。憎しみで覆われた心が見せる幻なのか。ジャミルは避ける事無く立ち向かった。
 殲滅させるつもりはない。どうでも良かったのだ。もうどうでも良かったのだ。憎しみと悲しみと、友の思い出を抱えて、消えてしまいたかった。もう何も無いのだから。何をしても、友は帰って来ないのだから。もう何もいらない。何も欲しくない。そして最後に友の顔を思い出して消えられたら、どんなに良いだろうと思い、愚かさに自嘲した。


 キュ…!
 弓を取り出し、引いて狙いを定める。グローブに弦が擦れて音を立てた。
 急所を射抜いて一匹目を仕留める。
 断末魔の叫びに、他の魔物が気付いてジャミルの方へ群がってくる。


 無意識に口の端が上がった。ああ笑っているのだ。
 友の仇をとっているという、自己満足に浸っているのだ。
 それで良いのかと心が問う。
 それで良いのだと心が答える。
 そうしていくしか、救われはしないのだと心が答える。


 テンポ良く弓を放っていく。
 舞うように反撃を交わし、翻して背後に回って至近距離からの一撃。
 近寄りすぎた相手には、直接弓で殴りつける。
 折れたり壊れたりしたら次の弓を取り出して放つ。


 魔物の数は底を見せない。一人では限界がある。
「はっ…はっ………はっ……」
 息は乱れ、弓が重みを増す。矢を掴む指の感覚など、とっくに無くなっていた。


 同じ箇所を弦が擦れすぎて、グローブが避けた。
 ピッという音と共に、鋭い痛み、目の前に細く赤い筋が飛んだ。
 怯み、隙を見せると魔物は一斉に飛び掛ってきた。圧し掛かられて、胃の中のものが逆流していきそうな、嘔吐感に見舞われる。
 素早く小型剣を構え、首元を切り裂いて周りを排除し、道を確保する。
 間合いを取って後退しながら、扉を抜けて逃げ込んだ。


「…………あっ………?」
 扉を抜けた先には、さっきいた部屋と同じ光景が広がっていた。
 だが立ち止まる訳にも行かない、魔物はすぐ後ろまでやって来ている。
 仕方があるまい。
 ジャミルは小瓶を取り出し、歯で蓋を開けて吐き出す。中の物を飲み干して、集中力を限界まで高める。すると、体の回りを炎が舞い始め、荒々しくうねり、雄たけびのような爆音を立てて、さらに燃え上がった。
 敵陣へ飛び込んで、身を屈めた後に一気に放つ。闇の中がパッと光ったかと思うと、通路全体が紅蓮の炎で染まる。


 腕を口に付けて、煙を吸うのを防いだ。その煙に混じって、生き残った魔物が腕を振り下ろす。
 既の所で槍を突きつけて押し上げた。体液が衣服に付着する。人ではない、赤とは異なった色をした異臭のもの。
 反対側を見ると、また生き残った魔物の影が見えた。気付かれる前に細剣を投げ付けて止めを刺す。
 普段なら、この術を使って生き残る魔物などいなかった。サルーインの復活で強くなっているのか。それとも運が悪かったのか。焼きが回ってきたのか。このまま魔物の相手をし続けていたら、そこに待つのは死だろう。仇をとれぬまま命尽きるのだ。現実味があるな。所詮そこまでだろう。友も、そんな事を言っていたような気がする。いつだったか、思い出そうと目を細めた。


 弱気になった心を見透かされたように、背後から現れた魔物に地面へ叩きつけられる。反撃する時間を与えずに、衝撃が体中を走り抜けて、また戻ってくる。あばらが軋み、耐え切れなくなった骨が折れた。内臓まで達し、吐血する。血泡が口の端に固まった。意識が遠のき、回復術を唱えられる集中力を集められない。


 これだけ痛みを与えられているのに、死には至らない。
 友の味わった痛みは、これよりも上回るものなのか。
 それを与えたのは他でもない自分なのだ。
 一方的で、残酷な痛み。孤独な戦い。
 教えて欲しい、同じ痛みを味わうから。一緒に分かち合おう。2人で分かち合おう。


 一緒に。
 2人で。
 エスタミルにいた頃のように。


 ずっと一緒だと思っていたのに。
 なぜ、エスタミルから離れたくないなど言ったのだろうか。ダウドは。
 ジャミルは自問する。
 なぜ俺から離れた。
 だが、ダウドはエスタミルから離れたくはないと、前から言っていたではないか。
 離れたのは俺だったのか。
 俺も俺で、エスタミルから出たいと、前から言っていたはずだ。


 2人離れる運命だったのか。


 何かあったはずだ。2人で共にいられる選択があったはずだ。それは何だ。何を選べば良かったんだ。


 今考えても、どうにもならないだろう。


 2人、捨てられぬものがあったのだから。




 けれど、心のどこかで知っていたのだ。わかりきっていたのだ。
 ダウドが1人で、エスタミルの地で生きていけるはずはないと。
 知っていたのだ。
 馬鹿にしている訳ではない。よく知っていたからこそ、そう思えるのだ。
 優しくて、お人よしで、人を疑う事を知らない。
 あの地で何年住んでいても、変わらなかった。
 成長していない訳ではない。元からそういう性質なのだろう。
 ダウドは、エスタミルには合わない。ずっと思っていたけれど、言い出せなかった。


 ああそうか。それは罪だったのか。
 知っていて、離れた俺が悪かったのか。
 裏切ったのは俺の方だったのか。
 自分の欲を優先させて、ダウドを捨てたのだ。


 エスタミルを出て、たくさんのものに出会った。世界が無限に広がった。
 ダウド以外の仲間にも出会った。しかし、ダウド以上の仲間にも、友にもならなかった。
 生き方が違いすぎたのだ。その壁を乗り越えて、受け入れてもらおうとする勇気が無いのだ。
 自分は、思っていたより臆病者で、思っていたよりエスタミルを愛していたようだ。


「………くっ………」
 震える手で、体を支えて身を起こす。頭が冷えて集中力が戻り、回復術が体を癒した。
 体に反動をつけて、蹴りを繰り出し、散々痛みつけてくれた魔物を倒す。
 身を起こして、自分の姿を見ると、衣服は魔物と自分の血液で、染まっていた。予備のグローブを装備し直し、この迷宮のパターンを考える。冷静さを持とうと、胸に手を当て落ち着かせる。
「よし」
 頷いて、姿と足音を消して闇の奥へと駆けていった。順良く扉を抜けていくと、僅かではあるが景色が変わってくる。油断せず、パターンを忘れないように扉を抜けていく。


 最後と思われる扉を開けると、急に明るくなった。心地の良い昼の太陽の光だ。
 そこに広がるのは一面の花畑。足を一歩踏み出すと草が摩れる音がした。振り返ると、さきほど潜った扉が消えている。
 鼻で息を吸うが、何も匂わない。しゃがんで一本の花に触れるが、感触がない。風の音はしているはずなのに、髪も服も揺れない。口元に付いた血を落とそうと手で拭った後に、甲を見た。何も付いていない。もっとよく見れば、あんなに血まみれだった服が、汚れの一つもない。


 視覚と聴力を狂わせる幻覚か。
 偽りの楽園が。


 気配がして、ジャミルはその対象を睨み付けた。背に手を回し、弓を掴んだ。一度も使わずに取っておいた、特別な弓。預かったままになっていたダウドの弓。


 一仕事を終えたら、地獄にでも行ってやろう。
 そこでダウドを拾って、2人で本物の楽園を目指すのだ。
 どんなにごねられても、聴く耳など持たない。もう離しはしない。


 再会した時の侘びの言葉を考えながら、弓を構え、矢を向けた。
 顔は自然と笑みに変わっていた。恐怖も、憎しみも、悲しみも映ってはいない、曇りの無い表情。その瞳は、ずっと先を見つめていた。ずっと先に佇む、友を映していた。










出たがっていた割には、ジャミルもエスタミルが好きだったみたい。
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