あなたには、誰か大切な人はいますか。



平和がいちばん



 南エスタミル。まだ幼い少年だったダウドは、地を思い切り蹴って走っていた。後ろには怒って何かを叫びながら追いかける男。ダウドは必死で逃げていた。その手に握られているのはリンゴ。隙を見て盗み取ったが、見つかって追いかけられている。
「はっ…………は…………」
 息は乱れ、呼吸が続かない。足はもう疲れ果てて動かない。それでも、逃げ切らなければならない。このリンゴを食べなければ、明日は生きていけない。追いかけてくる男、店の店主も、このリンゴを売らねば明日は暮らしていけないのかもしれない。同情などはかけられなかった。そんな余裕、どこにもなかった。
 石階段を一段飛ばしに下りて、最後の何段かは一気に飛び降りる。脇の道を通って、袋小路に突き当たったら、あらかじめ用意しておいた木箱を伝い、塀の上に登る事が出来れば、完全に巻く事ができる。
「どんなもんだい」
 塀の上を駆け抜け、飛び降りて、別の地区に出る事ができた。だが、顔は見られてしまったので、ここ当分は、あの地区を通るのは避けた方が良さそうだった。逃げ切れて気が緩んだのか、ダウドは前を歩く人に気付かず、ぶつかってしまう。
「あっ」
 その拍子にリンゴは手の上からこぼれて、コロコロと転がっていく。
「……あっ…」
 誰かの足元で、リンゴは止まった。
 深く被った帽子に、背中には大きなギター。恐らく吟遊詩人だろう。流れるような長い髪が美しかった。
 詩人はゆっくりと背を屈め、リンゴに手を伸ばして拾う。ダウドは後退る。せっかく手に入れたリンゴを、取られてしまった。


「君」
 呼ばれているのは自分か?ダウドは詩人を見た。
 帽子の影から、宝石のような瞳が覗く。ダウドは視線を逸らし、下を向く。
「これは、君のですか?」
「そ、そう。そうだけど」
 口から出たのは、どもりかける、頼りない声。
「はい」
 詩人はリンゴを差し出す。しかしダウドは受け取ろうとしない。その顔は、困惑、怯え、警戒。不信を表していた。
 一度引っ込めて、拭ってから、もう一度リンゴを差し出した。
「どうぞ。君のでしょう」
「……………おいら、何も無いよ」
 ダウドはもじもじと、手を後ろに組んだ。
「え?」
「おいら、お金無いよ」
「何も取りはしませんよ。返すだけですから。ね」
 返す。その言葉にダウドが僅かに反応した気がした。
 彼のものでは無いのか。詩人は目を閉じ、開いた。


 出来るだけ優しく微笑んで、歩み寄る。3歩歩けば、ダウドは1歩下がった。
「大丈夫、大丈夫」
 何度も語りかけて、徐々に近付いていく。
「顔を、上げて下さい」
 ダウドの顔は俯いたままだった。
「大丈夫。ほら、顔を上げて」
 恐る恐る、見上げてくる。
「世界は、あなたが思っているほど、酷ではありませんよ」
 ダウドの手の中に、リンゴを握りこませた。長く持っていた為、ほんのりと温まっていた。


「ほら、見て御覧なさい」
 詩人は指を指す。その指の示す先には、穏やかな海が広がっていた。
「綺麗な海でしょう」
 ほら、と。詩人は空を見上げる。快晴の空が広がっていた。
「美しい空だとは思いませんか」
「わかんない」
 ぽつりと、ダウドは呟く。
 詩人はそっと、ダウドの横顔を見つめた。無表情で、何も感じていないようだった。
「あなたには、誰か大切な人はいますか」
「いない」
「あなたを、思ってくれる人はいますか」
「いるもんか」
 口早で投げやりな答え。一瞬、詩人の瞳は悲しみを映すが、彼は笑って見せた。


「世界は、あなたが思っているほど、酷ではありません。しかし、あなたに受け入れる心が無ければ、どんな愛も、優しさも、届く事はありません」
「おいらが悪いの?」
 ダウドは振り向き、詩人を敵意むき出しで睨みつけた。
「おいらだって、好きで…」
 悲しみに顔を歪ませる。ダウドの悲しみは痛いほど伝わってくる。しかし、彼個人の悲しみを救ってやる事は出来なかった。してはならなかった。
「いつか現れる大切な人を、信じてあげてください。そうすれば、きっと」
 曖昧でいい加減な言葉。だが、真実の言葉になるように、ダウドの心が絶望のまま閉じきってしまわないように。詩人は祈った。
「きっとなんて」
 無意識にしてしまった瞬き。目を開くと、先程まですぐ隣にいたはずの、詩人はいなくなっていた。
「あれ?」
 辺りをぐるっと見回すが、やはり姿は無い。空耳か、波の音の中に、誰かの歌声が聞こえたような気がした。




「ダウド」
「った!」
 後ろ頭を叩かれて、ダウドは悲鳴を上げる。目を開けるとグラスが見えた。氷が溶けた水の中に映る、自分の顔。瞳はとろんと、間抜け顔。
「おいら、眠っていたんだ」
 眠気まなこをこすり、大口を開けて欠伸をした。ここは酒場、どうやら酒を飲んで眠ってしまったようだ。
「ジャミルは乱暴なんだから」
 後ろ頭を摩り、ジト目で、叩いた本人を見る。
「撫でたら起きたのか」
「はいはい、起きませんでしたよ。だからお酒飲むの嫌なのに…」
 ぶつぶつと小声で愚痴をこぼす。
「あー?聞こえませんがー?」
 ジャミルは長い耳に手を当てて、嫌味なポーズを取った。
「そんなに長いのに聞こえないなんて、意味無いん…………あたたたたた」
 こめかみを拳でグリグリと押され、ダウドはギブアップをする。横では、2人のやり取りを見ていた仲間のミリアムとゲラ=ハがくすくすと笑う。
「おいら、夢で昔を思い出していたよ」
「昔?」
「ジャミルと出会う、ちょっと前の事」
「ふぅん」
 ジャミルは拳を離し、目をパチクリとさせた。
「あの言葉を聞いていなかったら、今こうしてジャミルといる事も無かったのかも」
「どんな言葉だ、そりゃ」
「ときどき忘れて、見失いそうになるけど、また思い出して。その繰り返しだけど、それで良いのかも」
「だから何だよ」
「良いの良いの」
 ダウドはパタパタと手を横に振って、教えようとしない。


「明日、行くんだよね」
 ふと、真顔になる。
「ガレサステップの、太陽の祭壇か」
 太陽の祭壇。ジャミルの口にしたその名前に、重い空気が流れた。
「試練を突破して、エロールに…そしてサルーインと戦う…」
「ダウドのくせに、頼もしいな!」
 雰囲気を戻そうと、カラカラ笑ってジャミルはダウドの背をバシバシ叩く。
「くせには余計。あのね、平和が一番なんだ。まずはそれから」
「だな!」
 ジャミルは帽子を被り直した。
「うん」
 ダウドは頷き、ふと横を見ると、少し離れた場所で詩人が座っているのに気付く。立ち上がり、隣に腰掛けた。


「詩人さん」
「なんでしょうか?」
 帽子で隠れているが、優しさに満ちた、人の良い笑みを浮かべる。
「何か弾いて」
「なんにしましょうか?」
「優しい曲。出来れば海っぽいものが良い」
 ジャミルが“眠くなる曲が良いんじゃないのか”と、茶々を入れた。ダウドが“うるさいなー”と反撃する。
「これは難解なリクエストですね」
「無理かい?」
「どれ……こんなのはどうでしょう」
 詩人はギターを取り出し、奏で始めた。
「うん……そう………こんな感じ」
 ダウドは目を瞑り、何度も頷いてみせる。
「ねえ詩人さん」
 目を閉じたまま、詩人の名を呼んだ。
「昔、どこかで会った?」
「さて、どうでしょう」
「詩人さん、おいらが海を好きになるきっかけを作ってくれた人に似ている」
「その人の歌は、どうでした?」
「優しくて、波のような歌だった気がする。もう、忘れてしまったけれど」
 ギターから流れる曲は、波に揺らされているような、優しい音色を奏でていた。ここにいる誰もが、いつか、どこかで聞いた覚えがあった。しかし、どれだけ思い返しても、思い出せはしなかった。もしかしたら、生まれる前の、母の胎内で耳にしたのかもしれない。










皆どこかで会った事のある詩人さん
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