広大な海を行く船の甲板の上で、グレイは風に吹かれていた。
青い海、青い空、一見穏やかにして美しい自然は、いつ機嫌を損ねて人に牙を剥くのかわからない。神のみぞ知る神秘であった。
全てを知る神の手の平の上で、我々人はどこへ行こうとするのか。旅の行方を、グレイはぼんやりと巡らせていた。
そばかす
「グレイ」
後ろから呼ばれて振り返れば、ターバンを被った青年がこちらへ手を振りながら歩み寄ってくる。
彼は先日、グレイが加わった旅の一行の一人だ。
名前はそう――――なんだったか――――忘れた。
名前を覚えていないので、視線で返すしかない。
「グレイ、ここ眺めが良いね。気持ち良いや」
青年はグレイの横に来て、共に風に吹かれた。纏った布がパタパタと音を立てる。
彼の名前はなんだっただろうか。思い出そうとするが、思い出せない。正直、思い出す気は面倒なのであまりない。
特徴はターバン。クジャラート人が好んで被っている。彼もクジャラートの者だと言っていた――――はず。
仮に心の中でクジャラートAとでも呼んでおこうとするが、口に出さないとはいえ不憫に思い、他の特徴を探した。よくよく見れば頬にそばかすがある。そばかすに決めた。
グレイの心中など当然知らない青年、仮にそばかすは無邪気に話しかける。
「グレイ。船はリガウに向かっているけど、行った事ある?」
「ある」
素っ気無い返事ではあるが名前を忘れている為、下手に突っ込んで墓穴を掘るよりはお互いに良い。グレイなりの社交辞令であった。
「おいら行った事ないんだ。ちょっと怖いけど楽しみ」
「特に何も無い所さ」
「そうなんだ。ねえ、ジャンから聞いたよ」
そばかすが口に出した“ジャン”とは、一行に偶然加わっていたグレイの元同僚である。過去メルビルで共に訓練し、技を磨き、国を守る為に働き、戦って、そして勝った。同じ釜の飯を食い、寮生活では相部屋になった事もある。くだらない話で笑い、喧嘩もした。楽しかった青春、懐かしい思い出。今も尚、胸の奥で輝きを失わずに煌いている。
――――思えば、再会をするまでジャンの事もすっかり忘れていた。
記憶力の悪さについて医者に相談すべきかと考えるが、考えるだけ考えて満足してやめた。
「……聞いてる?」
「ん、ああ」
我に返り、グレイは軽く咳払いをする。
「それでジャンが言っていたんだけど、グレイってジャンと一緒の部隊にいたんでしょう?」
「そうだが?」
「どうして冒険者になったの?バファルにいれば家だってご飯だって困らなかったのに」
グレイがメルビルを出た理由。それはジャンの失態が関わっており、何もわざわざ蒸し返す気は無い。
「さあな。言えるのは、今に満足している事だ」
本心であった。自分でも驚くほど、後悔はしていない。もし幸せかと問われれば、そうだと答えるだけだろう。
「ふうん。そんなもの?」
「そうだ。お前はどうだ?」
「おいら?」
彼は目を細め、風で乱れた前髪を指先で直す。
「おいらは、どうなんだろう。エスタミルに残りたかったけれど、結局ジャミルに付いてきちゃったし」
「責任転嫁するな。お前の選択だ」
「わかってる。今でもこのままで良いのか迷うんだ」
「お前はどこへ行こうとしている」
「どこへ、なんて…………」
俯き、口籠った。リガウへ向かうのもジャミルの意思であって、彼は付いて行っているだけに過ぎない。
「そう言うグレイはどこに行きたいの?」
「俺?俺か」
問い返され、グレイは腕を組んで空を見上げた。
「粗方行った気はするな。奥地にも興味はあるが、あえて言うなら」
「言うなら?」
そばかすは顔を上げてグレイを見る。
「空が良い」
「空ぁっ?」
目を丸くさせて、大げさに驚いた。
「おかしいか?」
「意外だったから」
対するグレイはというと細かく瞬きをし、“そうか”と淡白に答える。
「空、かぁ」
伸びをして、長い息を吐くそばかす。どことなく安堵の雰囲気が流れた。胸の荷でも取れたのだろうか。
「おいらにも見つかるかな。行きたい場所」
「見つかるんじゃないか」
「……………………………」
あっさりと言うグレイに反応のしようが無い。だがグレイという男の言葉に、不思議と信じられる説得力を感じていた。もっと知りたいという好奇心も湧いてくる。
「そうだ」
不意にグレイは、何かを思い出したように手を合わせた。
「せっかくだ。聞いておこう」
「なに?」
笑顔で耳を傾ける。
「お前の名前はなんだ?」
「……………………………」
向かい合う二人の男。
二人の間の時は切り取られたように停止していた。
青い空、青い海。波の音は穏やかで、頭上を舞う鳥の鳴き声は清々しい。
そばかすは不機嫌を露にして“ダウド”と一言名乗った。
良い名前だとグレイは素直に思う。
覚えやすい名前かどうかは置いておいて。
グレイはムゴイ方です。
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