悲しくて、悲しくて、苦しい。
ひとつ
夜。野暮用を済ませて宿に戻って来たジャミルが、階段を上がっている時であった。
仲間が泊まっている部屋の方から、何か大きな物が倒れる音が聞こえた。足を速めて、ノブに手をかけようとすると、勢い良くドアが開け放たれる。
構えようとするジャミルだったが、出てきたのはダウドで、思わず怯んでしまう。目が合い、動きを止めるダウドだが、何も言わずにジャミルを横切って、階段を下りて行った。立ち尽くし、ダウドが去った方をしばらく向いていたジャミルは、ドアを閉めながら部屋の中へ入る。
室内では、床に倒れていたダークが身を起こそうとしていた。大きな物音の原因は、恐らく彼だろう。
ジャミルは側にあった適当な木の椅子を反対側に座り、ダークを眺め、一言呟く。
「どうしたよ」
起き上がったダークは言う。
「何でもない」
素早く言い返す。
「なわけねーだろ」
マニキュアの塗られた細く長い人差し指が、ダークの頬を差す。
覆面で隠れているが、ダークの頬は腫れていた。
「ダウドに叩かれた後、叩き返したら、殴られただけだ」
胸の方に拳を持ってくる。グーで殴られたのだろう。思い返すと、ダウドの頬も赤かったような気がした。
「何やったんだよ」
「何もしていない。俺とは関わり合いにならない方が良いと言うのに……勝手に怒り出してな」
のろのろと歩き、ベッドへ腰をかけた。その足取りは、記憶を失っている頃のようだった。
「だから、だろ。何も関心の無い奴に、誰が怒るかよ。お前だって、わかっていたんだろう」
でなければ、黙って叩かれはしない。その気になれば、ダークはかわせるはずである。
「俺が叩き返してみれば、黙ると思っていた」
「ダウドは退かずに、今度は殴られたって訳か。ざまぁねえ」
ジャミルが意地悪そうに笑っていると、ダークはベッドへ転がり、背を向けた。
「ダウドには、お前の方からも俺に関わるなと、言っておいてくれ」
「………………………」
笑い声は止まり、しんとした部屋に溜め息が吐かれる。椅子を軋ませて、ジャミルは立ち上がった。ダークは背を向けたまま、耳を澄ます。足音が聞こえ、辺りが暗くなった。明かりを消したのだろう。ドアのノブを掴む音がして、瞼を閉じようとすると、ジャミルの声が聞こえる。
「寝るなら鎧は脱いでおけよ」
そう言い残し、彼は部屋を出て行った。
心の落ち着かなさを見透かされた気がして、ダークは舌打ちをする。無視を決め込むかのように、そのまま瞼の重みに従い、目を瞑ると、視覚以外の他の感覚が冴えて来るのを感じた。ダウドを叩いた手と、殴られた頬は、まだ違和感が疼く。先ほどダウドと言い争った光景まで思い浮かんでしまい、振り払おうと他の事を考えようとする。
逃れ、避ける事ばかり考えていた。ずるく、弱く、情けない行為。伝えるべき言葉は1つ。それで2人は幸せになれる。だが、それは言ってはならない。それとも、言う勇気が無いのか。
大切なものが出来ると、人は弱くなるのか。昔の、アサシンギルドにいた頃の強さはどこへ行ったのか。アサシンギルドは大切ではなかったのか。ダークは自問を繰り返した。
伝えるべき言葉は1つ。わかってはいる。わかってはいるのだが、それを言う事は出来なかった。
一方、ジャミルはダウドを捜しに宿の外へ出ていた。暗い空に浮かぶ眩い満月とは正反対に、彼の心は憂鬱だった。
「ったく、なんで俺が…。部屋には居辛ぇし。ダウドもダークも、サルーインと戦う前に何やってんだか」
口から漏れるのは愚痴と溜め息ばかり。だが決戦を前に仲間の結束が乱れるのは由々しき事態。ここはリーダーとして、何とか取り持たねばならない。
「ダウドー。どこだー。世話焼かせるなー」
手をメガホンにして、宿の周りに沿って呼びかけた。声はやや気が抜けている。
井戸の方まで回ると、ダウドが背を向けて座っているのが見えた。ジャミルの気配に気がつくと、ゆっくりと振り返る。前髪が少し濡れており、顔を洗っていたようだった。ジャミルは立ち止まり、ダウドを呼んだ。
「ダウド、戻るぞ」
「………………………」
ダウドは口をつぐんだまま、視線を逸らし、俯く。
「ダウド」
手のかかる奴だと苦笑して、歩み寄る。腕に触れようとすると、口を開いた。
「ダークは?」
「寝たよ」
「そう」
「伝言。俺に関わるなって」
「ジャミルまで……そんな事言うの」
見上げてくるダウドの声は震えていた。
「俺はそのままを伝えたまでさ」
「そう」
足をぶらつかせ、帰る気配を見せない。ジャミルは隣に腰掛け、話を聞いてやる。
「おいらは、ダークに考えを改めて欲しかっただけなんだ。アサシンギルドに戻って欲しくなくて…」
「人間、そう生き方を変えられるものじゃないしな」
「わ、わかってる。わかっているよ」
ダウドはすがり付くように、ジャミルの腕を引っ張った。今にも泣き出しそうな顔に、ジャミルは内心うろたえた。久しぶりであった、ダウドのべそを見るのは。
「でも、このままじゃ。おいら達とダークは、出会って別れるだけなの?今までの事、なんにも無かった事になるの?そんなの無いよ。あんまりだ……あんまりだよ……」
ジャミルを引き寄せ、肩口に顔を埋める。耳元で、嗚咽が聞こえた。
「何か、意味があったはずだよ。おいらは、意味を探してる。
おいらは、エスタミルを出てから変われた気がするんだ。ダークに出会った日から、変われた気がするんだ。変われたおいらを、否定される気がして、無かった事なんか、絶対にしたくないんだよ……」
涙を流し、泣き声になりながらも、しっかりとした口調でダウドは言う。
確かにダウドは変わった。一番側にいたジャミルは、痛いほど良くわかっている。手を回し、背中を優しく摩って慰めた。
「なんで、あの時、ダークに声をかけたんだろう」
泣き止んだが、まだ目尻を涙で濡らしてダウドは呟く。
「困っていたみたいだから?寂しそうだったから?似ている感じがしたから?今、思い返しても不思議。なんで声をかけたんだろう。たぶん何かを、感じたんだろうね。何かに、惹かれたんだろうね」
顔を上げるダウドの涙を、ジャミルは拭う。
「一目見た時から、好きだったのかもね。理由は無いのに、何も知らないのに」
「ああ、そうだな。お前は、ダークを気に入っていたもんな」
「おいらは1人だったから、ジャミルやファラに出会えて、好きになって良かったって思ってる。でも今は苦しい。おいらはね、ダークにいて欲しいだけなんだ。好きって温かいはずなのに、悲しいよ。胸が締め付けられて、息が詰まる。ただ悲しくなる。悲しくて、悲しくて、苦しいよ」
ダウドは胸同士を合わせジャミルに抱き付き、背中を掴む手に力を込めて、しがみついた。ジャミルはただ、抱きしめ返す事しか出来なかった。ダウドが今欲しいのはダークの言葉であり、ジャミルの言葉ではないからだ。
時間は刻々と過ぎていく。ダウドの言う通り、このままダークと別れれば、いつかは対峙する運命にあるだろう。互いの譲れぬものの為に、戦う運命にあるのだろう。
ジャミルにとってもダークは大切な仲間であり、ダウドの望むようにしてやりたい。だがしかし、どうすれば良いのかは、ジャミルにも答えは見つからなかった。
「どうして、好きだけじゃ駄目なの」
ダウドは笛の音のような、か細くも高い声を上げる。悲しみの波が再び襲い、大粒の涙が溢れ、頬を伝う。
皮肉な運命が、憎らしかった。
人間、年を取れば取るほど頑固に…。
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