奥から叩きつけるような心音。
指先の間接の軋み。
上昇と下降を繰り返す体温。
今でも覚えている。魂が堕ちる感覚を。
震え
「はっ……は……は…………」
口をぽっかりと開けて息をする様は、まるで打ち上げられた魚のよう。
開かれている瞳はただ映る天井だけを見詰め、染みの数を数えている。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
よっつ……
粗方数えたら、また最初から数え始めた。
いくつ数えたら、この地獄から抜け出せるのだろうか。
早く、早く、終われ。
そう、少年――――若き日のダウドは願った。
「ねえ」
ダウドの顔に影が差す。
視界に男が顔を覗かせたのだ。首にかけられた宝石が鈍い光を放つ。
「気持ち良いかい?」
男の問いにダウドはかくかくと頷いた。
「んん?」
男はダウドの頭を鷲掴みにし、目を自分の方へ向けさせる。
ダウドは男と顔を向き合わせて、もう一度頷いた。
「そう。良かった」
顔を引っ込めて、男はダウドの身体を揺らしだす。
「う」
つい目を瞑ってしまうが、開いて天井を向く。口の端を僅かに上げた。悦んでいる顔を作って。
下から木の軋む音が耳の中に入り込み、微かに雨音が聞こえた。
外は凍えるように寒くても、肌を合わせれば温かく、もっと触れ合えば軽く汗も掻く。
ここにいれば雨にさらされる事も無い、飯は先ほど男から貰った。湯にだって浴びさせてくれる。
しかし、どうしようもなく気持ちが悪い。
ダウドは心の中で吐き気を覚えていた。
屋根と飯と温かさ。この三条件を手に入れる為に今、必死に腰を揺らしている男に抱かれなければならなかった。
誘われるままに宿に連れて行かれ、こうしてベッドに横たわっている。
世の中は色々な人がいて、色々な趣味を持つ者がいる。食べるものに困っていたダウドは度々、こういった趣向の者の誘いに乗っていた。
おかげで食い繋いでいる訳だが、堕ちる所まで堕ちてしまった気持ちだ。
昔も昔で最悪だった。今はより最悪であった。
ダウドは生まれた早々捨てられて、孤児院に預けられた。
立って歩けて、僅かな言葉を喋れるようになった頃、親と名乗る者に引き取られたかと思えば、富豪の家に下働きとして売られた。だが数年も立たぬ内にヘマをやらかし追い出され、路頭に迷って今に至る。
「はぁ、はぁっ」
男が荒い息を吐きながら、しきりに打ち付けてくる。
男自身は“お優しい”つもりなのだろう。
だが実際、彼は乱暴で性急で相手の事を全く考えない。気持ち良いという合図を送るだけで喜んでいる。
逆らえない自分のような子供にしか相手に出来ないのだろう。
下手に何かを喋れば逆上されかねない。富豪の家もそれで追い出されたのも同然であった。
だから善がる演技だけをする。痛みの嘆きを歓喜に変えて、切なく鳴いた。
呼吸をする度に、男と情事の匂いの入り混じったものが鼻腔に入り込む。
「そんなに、良いかい」
一人で楽しんでいる男の顔は何とも情けない、色に呑まれた表情を浮かべている。
おいらも大人になったらこんなになっているのだろうか。ダウドは思う。
そこまで生きていられるのだろうか。このまま、ずっと地を這いずるだけなのか。
歩んで来た道は薄暗く、先も深い闇のように見えない。
戻りたくも、進みたくも無い。
このまま時が止まれば、今ある苦しみだけを耐えれば良い。
このまま時が止まれば――――
「は………………………」
細められたダウドの目尻に涙が滲む。
「逝きそうかい。こうすると、天国が見えるよ」
男が手を伸ばし、ダウドの細い少年の首を掴んだ。ごつごつとした大人の指に力がこめられていく。
「あ………………っ…………あ」
ダウドは苦しそうに首を横に振るが、男は解放してくれない。
引き離そうにも、もっと酷い事をされそうで、ダウドは首を振り続ける。
喉から空気が漏れて音を立て出す。
「苦しい?ああ、締まってきた……」
身体が強張ろうとする力を利用して、結合の締めを良くした。
「ああ」
男が欲望を吐き出し、結ばれていた自身を引き抜く。彼の下腹部には別の白濁の体液が付着しており、恐らくダウドが吐き出したものだろう。
「は、あ、はっ、は、は」
首を解放されると、ダウドは蹲って空気を取り込む。
ダウドの上に乗っていた男は横に転がり、自ら命を脅かした少年の髪を撫でていた。
身体がベタつくが、起き上がる気力も無く、ダウドは眠りにつく。
軋む音は無くなり、男の寝息と雨音は子守唄のようであった。
意識を取り戻す頃、雨音は止んでいた。差し込む日の光が瞼越しにも朝を知らせてくれる。
目を閉じたまま、腕を動かすと手の甲がしっとりと濡れた。
開けると同時に、ダウドは反射的に半身を起こす。
「………………………っ」
言葉にならなかった。
隣で寝ていた男が、眠ったように殺されていたのだ。仰向けに倒された身体に短刀が一本突き刺さっていた。溢れ出す血液がシーツに染み込み、ダウドの手元に小さく溜まっている。もう半分乾いており、粘ついた感触がした。
現状を把握していけば臭覚が血の匂いを判別しだす。男は一溜まりもなかったのだろう、抵抗の後すら見えない。恐怖よりも呆然として、ダウドは短刀の突き刺さった箇所ばかりに視線を向けていた。
窓は割れ、外から流れ込む風がカーテンと部屋の中の塵を散らす。その中には札もあった。
侵入者の金目当ての殺害だろう。いかにも何も無いダウドは見逃され、男だけが狙われたのだ。
「あ…………」
ダウドは漸く、この場に居続ける危険性を察する。
出て行かねば疑われてしまう。ベッドを降りようとした時、彼の目はあるものを見つけた。
絶命した男の首にかけられた宝石。盗まれも、傷も付かず、綺麗な形で残っている。
何度かの深い呼吸の後、ダウドの利き腕が伸ばされた。
「…………は……………」
心臓が忙しく鳴り出した。
「…………………は……」
手先の温度が失われていく。
「は………………………」
指先の間接が軋む。
「…………………………」
宝石を掴み、一気に引きちぎった。男が自分を抱いたような一方的な力を発散させる。
シーツに零れる金具。細かいものが乾ききらない血で濡れた指にくっついた。
ダウドは振り返らず、自分の衣服に着替え、割られた窓から逃げ出す。
宝石を両手で覆うように隠しながら体力の限り無我夢中で走った。
追いかけてくる者は誰もいなかった。
数日後に、宿の主人や宿泊客も殺害されていたのを知った。
ダウドだけが見逃されたらしい。だが、知る由も無い町の人々は宿にいた者が全滅したと噂している。
人気の無い南エスタミルの水路近くで、一人盗んだ宝石を眺めるダウド。
宝石は赤く、どこかで付着したのか赤黒い血で汚れていた。
太陽に向けて覗き込めば、濁った赤い世界を見せてくれる。
今立っている、世界の本当の姿のようにも思えた。
「なに、ぼーっとしているんだよ」
不意に聞き慣れた声が後ろからしたと思うと、背中を押される。
「ジャミル」
振り返れば相棒が、してやったりとばかりに得意そうな顔を浮かべていた。
「ほら、引っ掛かっているんじゃないか」
「え?あ!」
ダウドは持った釣竿が揺れているのを知る。
慌てて釣り上げると、小さな魚が食らい付いていた。
「ちっちぇえ〜」
成果を覗くジャミルは声を上げて笑う。
「まだ一匹も釣れていないくせに」
小声で呟き、釣った魚をバケツの中に入れる。
今日は盗賊を休業して、ジャミルと桟橋に背中合わせで釣りを勤しんでいた。
「さっき、なに考えていたんだよ」
ジャミルはダウドが上の空だった理由がどうしても知りたいらしい。
「昔の事」
「いつの事だよ」
「初めて、盗みをした事」
思い出していたのはそう、初めて盗みをした時の事であった。
「どうせ、大したもん盗めなかったんだろ」
「そうだよ。悪かったね」
「おお悪ぃ悪ぃ、盗賊ならどーんとデカいもん盗んでだなあ」
「じゃあどーんとデカい魚釣って見せてよ」
「へいへい」
大人しくなるジャミル。釣りに集中してくれたようだ。
背中越しに新しい餌を釣り針に括りつける振りをして、ダウドは片手を衣服の中に入れた。
硬くて丸い感触がする。あの時の宝石は、まだダウドの懐の中にあった。
一度は売ろうとしたのだが、盗んだ経緯を探られるのを恐れて手放せずにいた。
あれから数年、ダウドは生きて、ここ南エスタミルでジャミルと共に盗賊として暮らしている。
相棒のジャミルは頼りになって、時に勝手で独断専行だが元気を分け与えてくれる輝かしい存在。彼といると楽しく、満たされるのを感じていた。
けれども、まだ地獄にいるのだ。抜け出せずに居続けているのだ。
ダウドは宝石を握り締める。
感触を確かめれば、ジャミルといる時が浸りきってはいけない夢だと醒ましてくれる。
体温で温まっているはずの宝石に、なぜか手が震えた。
もっと強く握り締めて、震えを止めようとする。
幸せが、怖い。
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