夢の中
今は遠い昔のような思い出。
予感とでも言うのか。何か変わる事が起こる。
そんな気がしたのだ。
ファラが連れて行かれた前の日。
豪邸へ盗みに行った前の日。
忍び込むルートの計画を立てて、早めに眠るつもりだった。
しかし、このまま眠ってはいけない。眠ってしまっては駄目だ。
そんな気がしたのだ。
ジャミルと何か話をしなければ。
確かな言葉を聞かなければ。
絶対に後悔する。
そんな気がしたのだ。
「ジャミル」
ダウドはジャミルの指先を摘まむように、手を引いた。
「なんだよ」
「いいから」
後ろ歩きで自分の寝室の戸を開けて、中へ入れる。
「来て」
手を離して、布団に座り込む。
ぱたっという音と共に転がった。
「どうしたんだ」
声が明るくなり、ジャミルは靴を脱いでベッドへ飛び込み、ダウドの上に乗る。
「珍しい」
顔を見下ろしたまま、彼の靴を脱がす。
「そーお?」
「明日の、ビビッてんの?」
ダウドの腰布を解き始める。
「ちょっと」
「大丈夫だ、心配するな」
「不思議。ジャミルが言うと、そう思える」
ジャミルを見上げたまま、ダウドは言う。髪を掻き揚げるようにターバンをはずした。
「一体どうした。気持ち悪ぃな」
「そーお?」
何かを秘めた瞳はゆっくりと閉じて、開かれる。
静かに伸びる手は、ジャミルの股間を掴んだ。
「おっと」
「理由が無いといけない?」
「いけなくはないな」
耳の後ろに髪をかけて、どう暴いてやろうか企む。
足を抱えられ、その間に体を入り込まれて閉じられなくさせられると、ダウドは短く呻いた。
「ねえジャミル」
「あ?」
「おいらの事、好き?」
「ああ、好きだよ」
こくこくと頷いて、ジャミルはダウドの体に口付け、愛撫する。
「ほんとに?」
「好きだって、好き」
「ねえ…………」
言いかけるが、口を閉ざした。
確かな言葉は聞けた。
しかし、何かが違う。
胸に届いて、そのまま通り過ぎて行ってしまうような。
ジャミルに何を求めているのか。
言葉は所詮、言葉でしかない。
そこにこめられた何かを求めるのは、高望みなのか。
揺らされながら、薄く開かれた唇は音を発さずに、言葉の数だけ形を作る。
おいらも好き、と。
2人あまりに共にいて。
いつか当たり前になってしまった言葉。
改めて意味を思うと、かけがえの無いものだと感じた。
淡い、紫の輝き。
目に焼きついて離れない。
その眩しさ、その魅力、しきりに目の間を摘まんでいた覚えがある。
その度に、自分の手を眺めた。
罪に汚れて、頼りない手。
指の隙間から、ジャミルの顔を見た。
ジャミルはずっと、紫の輝きに目を向けていた。
紫の輝きを持つアメジストを持った銀髪の踊り子、バーバラ。
ファラを取り戻した日、彼女は現れた。
光に導かれるように、ジャミルは話しかけ、ニューロードが何なのかを聞いていた。
ダウドは横で黙って聞いていた。声は、かけられなかった。
なんだか、眩しくて。
ジャミルの瞳は、遥か遠くを見つめていて。
もう、届きそうに無かった。
こんなに近くにいるのに。
この手では、掴めそうに無かった。
ジャミルと夢を共に見る事は出来そうに無い。
ここが良い。ここで良い。
ダウドは、別れを告げた。
ジャミルが遠くなっていく。
ジャミルが光を連れて、遠くへ行ってしまう。
ダウドの周りは暗くなって行き、1人暗闇の世界に取り残された。
何も見えない、誰もいない。今、どこに立っているのかさえわからない。
歩けば躓いて、すりむいただけの膝の痛みは、酷く続いてなかなか癒えない。
その中でも、ファラの声だけは聞こえていた気がする。
わからない方向に、笑顔を返した。
何もかも上手く行かない。転んで、倒れて、傷を受けた。
足元はぬかるんで、体が沈んでいく。
突然、底が抜けて落ちて行った。
どこまでも、どこまでも落ちて行く。
爽快なまでに落ちて行く。まだ底は見えない。底の底まで落ちて行く。
水の中へ入ったような気がした。ごぼごぼとした音の中に、誰かの声がする。
懐かしい声。必死に、呼びかけてくる。
ぼやける視界の先に、かろうじて見えたのはジャミルの顔。
この水は涙なのか。拭えば、その顔を良く見る事が出来るのか。
腕を持ち上げたいのに、なぜか体が動かない。ぞっとするような痛みがする。
ジャミルが泣いているように見えた。
いつも、大丈夫と言ってくれた顔はどこへ行った。
それだけで、どれほど救われたか。
また、遠くへ行ってしまう前に。
あの頃と変わらない笑顔を見せて欲しい。
指先だけでも良い、少しでも触れられたら。
腕を持ち上げたいのに、なぜか体が動かない。
届かないまま、じわじわと暗闇が近付いて、また1人に戻った。
瞳は遥か高くの虚空を見つめていた。
どれほどの時間、見つめていたかはわからない。
いつだったかはわからない、一瞬だけ暗闇の空がチカッと光った気がした。
紫の、輝きだったような気がした。
ダウドは瞼を開けた。自宅の見慣れた天井が映る。
暗く、まだ夜明けまでは遠い。
唇を噛み締め、心臓に手を当てた。
今、思い出した。
「おいら、死んでたんだ」
掠れた声で呟く。声に出すと、胸がきつく締まった。
心臓は脈打ち、その確かめた手で服の間に滑り込ませて素肌に触ると、温かくて湿り気を持っている。この奇跡に、誰が関係しているのかは容易に想像できた。ジャミルだ。この広い世界で、自分の存在を知っているのは、ほんの一摘まみである。
ああ、なのに、それなのに。ダウドは眉を顰める。
「なぜ、来てくれないの」
ジャミルへ投げ掛けられた言葉は、誰に届く事無く、静寂が訪れた。
“友へ”のジャミル過去回想と、微妙に場面の食い違い。
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