二度目の雪
南エスタミル郊外に、小高い丘がある。
なにもない場所ではあるが、そこから眺める海は美しい。
しかし世界は今、邪神サルーインの復活に怯え、緊張を張り詰めていた。
そんな日々の中でも定期的に訪れる者がいる。
ターバンを被り、肩にはゆったりとした布をかける南エスタミルの一般的な服装を纏う青年。名前をダウドといった。手には一輪の花を握っている。
この日は朝から天気が悪く、空は雲に覆われ、気温はぐっと冷え込んでいた。途中、ダウドは空を見上げて雨が降りそうだと思う。丘の上に辿り着くと、持ってきた花を供えるように置いた。
腰を屈めた時、気配に気付いて感じた方向を見れば、木の影から衣服の裾が覗いた。
「いるんでしょ」
ダウドが言えば、隠れていた人物は姿を現す。
「よ」
軽く手を上げる人物は、ダウドとそう年が変わらない青年だった。名前をジャミルといった。
「また会ったね。久しぶり」
「そうだな」
笑いかけるダウドにジャミルは相槌を打つ。
「またどうして、ここに来たの」
「うん?この前と同じさ」
「気まぐれ?」
「そ」
ジャミルは肩を竦めるようにして笑い、木の幹に寄りかかる。
「兄さんは偏屈者だね。ここは何もないでしょ」
「そうだな。でも、そこがいいんだ」
ダウドはジャミルを“兄さん”と呼んでいた。それは親しみをこめた訳でもなく、ジャミルの名前を知らないからだ。ジャミルはダウドに自分の名を教えていない。
ダウドはジャミルの事を何も知らないのだ。
「兄さん、ここに良く来るよね」
「お前こそ来るだろう」
「うん。ここに来ていれば、何か思い出せそうだから」
ほら、話したでしょう。ダウドは瞳をきょろりと動かし、ジャミルを見た。
「おいら、記憶がないんだよ」
明るく笑ってみせるダウドに、ジャミルは相槌を打つ。
「この南エスタミルに生まれて、育って。ファラがいて、ファラの母ちゃんがいて、そこまでは覚えているし、十分なはずなのにね。なにか、大事なものがぽっかり抜けてる。それはある時、ここで寝っ転がっていて、そこからね、思うようになった」
「何度も聞かされたさ、覚えてるよ」
「兄さん、これも何度も聞くけれど、なにか知らないかい?」
「知らねえよ。俺がここに来るのは、お前には関係ない別件だしな」
「へえ、初めて聞いた」
ダウドが無邪気に指摘する。
「そうだったっけか」
「そうだよ。とぼけてないでさ、兄さんの事、おいらに教えてよ」
「俺の話を聞いても、お前の人生になんの得もないぜ」
「そんなのいいよ。聞きたいから」
ジャミルはいかにも面倒そうに息を吐き、腕を組んだ。
「えーと、どっから話そうか」
「そんな所にいないで、もっとこっちに来てよ」
無邪気な誘いに、ジャミルは一瞬どきりとする。いや、ぎくりの方が近い。胸が短い痛みを発した。
「なんでこの俺様がわざわざそっちに行くんだ」
「じゃ、おいらが来るよ」
「うぜえ、来んな」
けっ。拒絶を示すジャミルだが、ダウドには通じず、隣に寄り添われる。
「ね、話して」
ダウドの視線が向けられると、ジャミルはそらす。
視線のあたる場所が、毛筆でくすぐられるかのようにこそばゆく、むずむずする。
「ん」
ジャミルは微かに肌の細胞に針のように触れる“なにか”に感付く。
空を見上げ、注意深く凝視すれば白い点が見える。
「雪だ」
放った途端、ダウドがはじかれたように首を動かした。
「え、嘘。いくら寒くても……」
「雪だって」
ダウドの肩を反射的に掴み、向かせて指差す。
咄嗟に口にした音は、昔の頃のように柔らかい。
「あ…………」
ボロを出し、思わずダウドの方を向くジャミルの瞳はダウドのそれと交差した。
「兄さん?」
「いや…………」
瞬きされるダウドの瞳の奥に罪深き己の姿が映る。表情は強張り、ごまかしの咳を払う。
「すまん。ここじゃ珍しいだろ。浮かれたんだ」
「ああ、…………そう。なんだ。兄さん、エスタミルに詳しいんだね。でもちょっと違うよ」
「は?」
ダウドはくすくすと笑って空の上を指差す。
「エスタミルの雪は珍しいどころじゃないよ。とーっても珍しいんだ。激レア?おいらは生まれた時からここにいるけれど、見るのはこれが二度目」
「二度目…………」
「ずっと前……十年以上も前……おいらは住み込みの仕事をクビにされて、下水近くを屋根にしてさ、物乞いして食い扶持稼いで、やたら冷える日があったんだ。その日に確か、おいらは雪を見た」
「どれくらい降ったんだよ」
「降ったなってわかるくらい。積もりはしなかった」
「正解だな。俺もいたんだ。確かに積もりはしなかった」
流してしまいそうになる不意すぎるジャミルの話に、ダウドは目を丸くさせた。
「えっ?えっ?兄さんも南エスタミルの生まれなの」
「まあな。だから言ったろ?俺の話を聞いても、お前の人生になんの得になんないってさ」
ジャミルは幹から背を浮かし、両腕をだらりと下ろす。そうして、丘を下りようと歩き出した。
しかし――――。
「そんな事、ないよ」
背中に投げられたダウドの一言に歩みが止まる。
「初めてだった。おいら、雪の話するの、初めてだった!」
「嘘吐けよ」
細くも、はっきりした声で返す。
「二度目だったはずだ」
再び歩き出した。振り返らず、前へ前へと進む。
背中越しでダウドの気配が遠くなっていく。少しだけホッとして、町の外へ出た。
そこにはジャミルの仲間たちが待っており、仲間のうちの一人・バーバラが声をかける。
「今日は長かったね」
「待たせたな」
「もっと長くても良かったのに」
バーバラの言葉に、仲間たちは同意とばかりの空気でジャミルを包む。
「そりゃなんの拷問だ。すまないな、予定より遅れちまって。行くか」
ジャミルと仲間たちの目指す方向はイスマス。エロールに選ばれた戦士として、サルーインとの決戦の地へ向かうのだ。イスマスへと続く空は、ただでさえ雲が覆い雪を降らすこの空よりも暗く、禍々しい色を滲ませていた。
「あんたさ、いいの?」
バーバラが問う。
「最後のお別れかもしれないって言いたいのか?俺は世界の犠牲なんてまっぴらだが、最後なら最後で構わねえ。その方がダウドも幸せだろう」
「呆れた。あんた頭は切れる癖にとことん使い所間違ってる」
「はいはいっと。俺はな、あいつの人生には関らない方が良いんだ」
バーバラに背を向け、歩き出すジャミル。バーバラは足を踏み出さず、代わりに声を張り上げる。
「いい加減にしな!どこまでそんな」
「俺にはもう、どうこう出来る時間はないんだよ」
バーバラの声を遮り、放つ。
そう、ジャミルの残された人生は短い。
理由はサルーインとの決戦ではない。もっと別にある。
彼は悲運に命を奪われた相棒であり、親友であったダウドを救う為に自分の生命源の一部を死の神に捧げた。
運命の悪戯といえども、ダウドに致命傷を負わせたのはジャミル本人。しかし、罪の償いではない。そう何度も思いながら、ジャミルは蘇ったダウドの様子を見に来ていた。自然の摂理を逆らってまで起こした自分の行いが、正しいのか間違っているのかを。
命は重い。世界は常に因果応報。ダウドの息は無事に引き返ったが、彼はジャミルとの記憶を一切失ってしまった。ジャミルの命の分をダウドから引いたように。同じ人生はやり直せなかったのだ。
それでも、ジャミルは苦しみ抜いた末に答えを出す。
「いいんだ、これで。俺はこれでいい」
「……………………………」
バーバラは一人頭を振るい、ジャミルの後をついていく。他の仲間たちも続いた。
雪は止まず、しんしんと降り、ジャミルの肩を薄っすらと濡らし、白く染める。
――――こりゃ、積もりそうだ。
一人ジャミルは思い、心の内でダウドに語りかける。
――――ダウド、お前は雪が積もるのを見るのは初めてだろう。
――――もっと生きてりゃ、三度目も四度目も見られるのかもしれねえ。
――――せいぜい長生きしろよ。俺の分まで。
――――生まれ変わっても緩んだ顔して危なっかしいお前の為に、せめて道だけは引いてやっから。
「……………………………」
ジャミルの瞳が鋭く細められ、決意に熱を灯す。
絶対に負ける戦いはしない。討たねば全てが無駄になる。
ダウドの為に命を捧げた時、思ったのだ。
願う気持ちが大きいほど、己を滅ぼす。
サルーインを倒したい思いは、どうしても譲れない。
全てを賭けてしまえば、まるごと己というものが消える予感がした。
それでも不思議と、受け入れられてしまう自分がいた。
それでも構わない。そう思える存在に出会えた。
その存在である彼自身からも思い出を奪い、一人抱いて死んでもいい。
そこに悲しみはなかった。
最後の打ち上げ花火のような、輝き散る時を待つかのようだった。
「……………………………」
口の端が上がる。引き攣ったように震えた。
これはなんの震えか。ジャミル自身でもわからない。勝手に震えてくるのだ。
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