願い



 淡い明かりは、ここだけ切り取られた空間のように思わされる。
 天井へ昇った蒸気が水滴になって戻ってきた。
 バスタブには暖かで柔らかい泡。菊丸と樹は並んで浸かっていた。二人の髪は濡れてボリュームを失っている。
 豪華客船は風呂の中まで豪華であった。


「一体どういう風の吹き回しなのね」
 息を吐き、樹は問う。
「風呂なら見られないと思ってさ」
「はあ?」
 菊丸を見て、樹は首を傾げる。


 無人島では、榊に監視カメラから生活を見守られていた。今回の旅行でも、カメラが無いとは限らない。カメラの無さそうな密会に適した場所は――――そう考えた末に選んだのが風呂場であった。ここにカメラがあるなら、それは犯罪以外の何ものでもない。逆手に取ったのだ。
「………………………」
 樹に気付かれないように、菊丸は横目で彼を見た。
 さてここまで来たのなら、行為に及ぶべきだとはわかっているのだが、風呂場という独特の雰囲気に負けそうになっている。
 明かりに照らされた肌は潤いを持ち、ほんのりと赤みを帯びていた。
 反面、身体だけは正直で、泡の間から見えないように膝を立てて足を閉じる。
「そういえば、同室って誰なのね。大石ですか」
 樹が問いをかけてきた。横顔に視線を感じる。
「そう。当分は帰ってこない」
「ふーん」
「そう、なんだよ」
「じれったいですね、お前」
 樹が肩を寄せてきて、菊丸はくすぐったそうに喉を鳴らした。
 微かな音だけでもよく響く。濡れた肌は吸い付いてくる。
 擦り寄るように、樹は菊丸の首筋に唇を付けた。
「あのさ。駄目だって、駄目」
 避けようと身体をそらすと、向き合う体勢になってしまい、足を割られて正直な部分を捉えられてしまう。
「あ」
 顔がカッと熱くなり、声が漏れた。
「菊丸が誘ったんじゃないですか。お前はいつも誘いっぱなしですね。気分屋もほどほどにして下さい」
「お前の辛抱が持たないからだろ」
 菊丸は樹へ手を伸ばし、自分と同じように正直な部分を捉える。腕が楽になるように、身体を引き寄せあう。
「やっとその気になってくれたのね」
 樹は笑いをこらえながら、指の腹で菊丸の自身を弄る。
「悪かったな、遅くて」
 菊丸も弄り返すが、込み上げる心地よさに動きはぎこちない。
 二人の瞳は蒸気と快感で色を持ち、熱を帯びていた。とろけるような半眼は、互いの本能を引き摺り出そうと企んでいる。
「は」
「………んっ」
 もっと心地よくなろうと腰を寄せて、自身を合わせて高まり合う。前屈みになり、熱い息を吐いて、生唾を飲み込む。
「良い事、考えた」
「ん?」
「先に、出した方が、言う事なんでも、聞く」
 乱れた息で、途切れ途切れに言う。
「良いですけど。不利だって、わかってるのね」
 樹の指が、菊丸の快楽の箇所を刺激させた。自身はひくひくと反応し、涙を零す。
「なにを、聞いて、もらいましょうか」
「聞かせる気になってんなよ」
 菊丸は手を離し、樹の頭を抱き寄せて身体を倒すように泡の中へ埋めた。押さえた手を離さず、キツめの口付けをする。窒息しそうなほど、隙間を作らせない。樹は菊丸の肩を叩いて苦しい事を訴えるが、彼は逃してはくれない。避けようとしても角度を変えられて塞がれる。
「はっ、はっ……………」
 ようやく唇を解放され、樹は空気を取り込もうとした。だが両手を離した菊丸が次に押さえ込んだのは彼自身。彼の方からは見えないが、あらゆる箇所を弄られているのはわかる。急激に押し上げてくる快楽に、たまらず樹は果ててしまった。
「………………ほら、俺の勝ち」
 唇と唇を銀糸で繋いだまま、菊丸は勝利を宣言する。
 樹は開放感か、それとも悔しさか、口をつぐんで黙り込んだ。


「さて、何を聞いてもらおうか」
 菊丸は樹の身を起こさせ、壁に身体を向けさせて後ろから抱き付く。彼の手は水とは違う、べったりとしたもので濡れていた。
「これがお願いじゃないのね?」
 両手と頬の片側を壁に付けて、樹は聞いた。
「これはこれ」
 言葉と共に、指が樹の中へと侵入してくる。
 水の滑りと行為の経験が、スムーズに受け入れてくれた。慣らしている間は二人言葉を交わさず、出し入れする際に立つ水音だけがする。場所が風呂場のせいかどこか自然で、ふと気付くと静かな羞恥の炎が燃え上がる。
 静寂の中にも、菊丸の熱は内に篭もったままで苦しい。樹の返事を待たずして、腰を沈めて打ちつけた。
 湿り気を帯びた肉と肉はよく音を立てる。引き寄せれば暖かくて、中は締め付けてたまらない。最高だった。
「あ、ああ……!」
「…………はっ、あ……!」
 静は動へと姿を変え、二人は快楽に酔いしれて、快楽のままに鳴く。
「樹」
 後ろから首筋から耳へ甘噛みをしていって、口を寄せて呼ぶ。
「なあ、このまま、良い?」
「はい?」
 意味が良くわからない。
「なあ、今回は許して。お願い」
「え?」
 だんだんと意味がわかってきた。
 菊丸は樹の中へ欲望を吐き出したいらしい。
「あのね、二人とも大変になるの、わかってます?」
「わかってるわかってる」
 絶対にわかってない。樹は頭痛を覚えた。
「一つ質問良いですか。最初から、そのつも」
「否定は、しな、い」
 言い終わる前に、彼は欲望を樹に注ぎ込む。どくどくと流れ込む感触に、樹は目を瞑って耐えた。
「は――――っ」
 菊丸の安堵の息が樹の頬をくすぐる。
 そうして事を終え、自身を引き抜こうとしたその時であった。


 ギィ。
 扉の向こう側から、微かにドアの開く音がした。
 静かにしていたので耳が捉えたのだ。
 次に“英二ー?”と菊丸を呼ぶ声が聞こえる。熱かった身体が、一気に冷え込むのを感じた。
 大石が戻って来たようだ。
「当分は戻ってこないんじゃなかったのね?」
「知るかよ。ま、風呂の中にいれば大丈夫にゃんじゃないか」
「でも、脱衣所には俺の服があります」
「ヤバいじゃん!」
「当たり前じゃないですか」
 危機に気付いた菊丸は、慌てて立ち上がり、風呂場を出て行く。
「忙しい人なのね」
 残った樹は、バスタブの中に座り込み、一人呟いた。
 下を見れば下腹部は前も後ろも二人の体液でぐしゃぐしゃに濡れている。
「あーあ」
 勝手に注がれた白濁の液が、漏れて零れる嫌な感じが疼いていた。


 バタッ。
 腰にバスタオルを巻いた菊丸が風呂場のドアを開けると、素早く閉める。
「ああ、英二」
 大石はのんびりとした声で彼を呼ぶ。
「な、なに、何かっ?」
 ドアに背中を押し付けて、菊丸は問う。
「そうなんだよ英二。それにしても……」
 くくく。大石は身体の角度を僅かに変えて、笑いを堪えた。
「風呂なら風呂で、慌てなくても良いのに。くく……」
 相当慌てていた菊丸には泡が付着していた。おまけに髪の毛にまで付いているのだから、大石にすれば可笑しくて仕方が無い。
「あー可笑しい。そうそう、ノート取りに来たんだよ。ああ、これだこれ」
 鞄を開けて、大石はノートを取り出した。
「今、各校の生徒と話をしているんだけど、英二も来ないか?」
「あーっと、俺はまだ風呂でゆっくりしたいんだよー」
 ははは。張り付いた笑顔で笑う菊丸。
「そうか。俺は行くから、来たくなったらいつでも来いよ」
「あー、うん、わかった」
 適当な相槌を打って、菊丸は入り口の所まで大石を見送り、彼が出て行くとさっと閉じて鍵をかける。
 数回振り返りながら、彼は浴室へ戻った。
「大石、ただの忘れ物だった」
「もういないのね」
 バスタブの中から樹は菊丸を見上げる。
「ああ、いないよ」
「俺、上がりますね」
 樹は立ち上がり、菊丸の横を通り過ぎようとした。
「待てって、まだ」
 引き止めようとした菊丸に一言吐く。
「お腹、痛いんです」
 お前のせいで。
 樹の言葉の先には、そう続くような気がした。
 菊丸は硬直し、小さく詫びた。







Back