有難う
「あー、そうそう。それでさ……」
「ふーん……」
廊下を歩く、菊丸と樹は雑談をしていた。
穏やかな時間、人気が無く二人きりなのもあって、菊丸は随分とお喋りだ。彼は本当に嬉しそうに話す。樹も幸せな気分になり、綻んだ。
「樹」
「はい?」
不意に名を呼ばれ、菊丸の手が樹の腕に触れようと伸びる。
だが、既で止まった。
反対側から人がやって来たのだ。
田仁志と甲斐の比嘉の二人である。
甲斐は菊丸と目が合うと軽く手を上げた。対戦相手のよしみだろう。
菊丸も手を上げて応えるが、樹は無表情で視線を逸らす。六角には比嘉に因縁があった。快く思わないのは無理も無い。
二組同士の距離は縮まり、やがて横を通って遠くなっていった。
「菊丸」
呟くように、樹が呼ぶ。
振り向かずに菊丸は“ん”と応えた。
「あの時は、有難う……なのね」
「あの時?」
聞き返した後で、比嘉戦の事を言っているのだろうと察する。
「俺の方こそ。佐伯のヒントのおかげさ」
「ちゃんと、勝ってくれた」
樹は菊丸を見た。複雑そうな表情ではあるが、口元は笑っていた。
「応援も、してくれた」
「そりゃあ氷帝のでチャラだ」
照れなのか、むず痒くなり、菊丸は腕を上げて頭の後ろに手を当てる。
「サエ、嬉しかったって言っていたのね……。サエは大事な人ですから、俺個人として言わせてもらいたかった」
「……………………」
菊丸も樹を見た。二人の視線が交差する。
「有難う。菊丸」
「……………………」
手を下ろし、菊丸はまた視線を逸らす。
「俺から言わせてもらえば…………いや、なんでもない」
口に出そうとした言葉を途中で噤んだ。
青学と六角は戦い、合宿や応援もしあった仲である。
菊丸にとって苦手だった樹。しかし今は別の感情が生まれ、特別な関係に変化していた。
それでも、この場で"お前も大事な人"と言い切るのはまだ早い気がしたのだ。
「本当に、いいのね?」
言いかけた菊丸に首を傾げる樹。
「いいのいいの」
菊丸の手が樹の背を叩く。
背に置かれた手はなかなか離れなかった。
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