なぜ
 どうして
 答えられるなら
 苦しみは、しない



なぜ



 観月は寝室の鏡台の前に立ち、ジャージ上着のチャックを下ろした。
 同室の赤澤は出ており、一人だけ。周りは海の、この空間には音がよく通る。
「ふー」
 独り言のように、息を吐く。
 慰安といえども、慣れない場所では運動とは違う、別の疲労に襲われた。日は沈み、外は暗い。
 やや早い気もするが、もう寝てしまおうと思っていた。


 だが、引っ掛かりがある。
 上着をたくし上げるつもりで回した手を止めた。
「……………………………」
 横を見下ろす先にあるテーブルの上にはノート。開かれ、書きかけのままでペンが載せられている。船で起きた出来事の情報を集め、記していた。
 通路で、寝室で、様々は事が起こっている。
 一つだけなら、ただの偶然で済むだろう。だが、こう各所で起こっているとはどういう事か。ここは無人島ではない、人の力で作られ、守られている殻の中のはずなのに。
 特に不可解なのは、船が揺れて偶然階段を踏み外した二人が医務室へ行った事。揺れを感じたのは、この二人と彼らの連れだけであった。観月自身もわからなかった。
「おかしい」
 過ぎった事をそのまま口に出す。
 二人で踏み外す。もしこれが、男同士ではなく男女の二人組みだったら、とんだB級ラブロマンスだ。他の出来事も合わせれば、スパイスになるだろう。
 しかし、男同士だからそれはない。絶対に、ない。
 そう神があざ笑っているようだった。
 神?それは本当に神か?観月は自問自答する。


 もし、もしも、神の仕業だとしたら。
 観月の唇が、震えるように薄く開く。


 恋の奇跡を叶えて欲しい。


 瞳を閉じ、手の力を抜いて下ろす。


 叶わない恋をしていた。
 なぜ、あの人なのだろう。
 どうして、あの人でなければならなかったのだろう。
 答えられるなら、苦しみはしない。


 遠くはない。
 だが届かない。


 もし伝えたら、どう反応されるだろうか。
 笑いもしない。
 驚きもしない。
 反応すらしないんじゃないか。
 日本語として、聞き入れてくれもしないんじゃないか。
 想像の隅っこにすらないものだろうから。


 目で見える。
 声が聞こえる。
 隣に立てる。
 だが、絶対に届かない。


 やめたら良いのに。
 諦めれば良いのに。
 何度も心の内で自分は囁く。
 やめたら良いのに。
 諦めれば良いのに。
 愚痴であった。
 どうにも足掻けずに、立ち尽くし、引き摺っている。


 もし、奇跡があるならば。




 トン。
「……は」
 ドアを叩く音がして、観月は我に返った。
 赤澤は鍵を持っているし、音は控え目なので彼ではないのは確か。
 考えにふけ、待たせてしまったと錯覚して、確かめもせずにドアを開けた。
「ああ」
「こんばんは」
 訪問者は伏せ目がちに観月を見る。後輩の金田であった。
 口を薄く開き、観月は固まりそうになる。
 今さっきまで、彼の事を考えていたのだから。
「なんのご用ですか」
 表情を変えずに問う。
「赤澤部長はいますか」
「彼は外出中です」
「そうですか……」
 赤澤がいない事を知らせると、金田は去ろうとする素振りを見せる。
「この部屋で待ったらどうです」
 横に動いて中に入れようとした。
「で、では」
 金田は会釈をしながら部屋の中に入る。


 しかし、しばらく待っても、なかなか赤澤は戻って来ない。
 待つ間、話題を振ってもすぐに途切れてしまい、沈黙が多い。
 微かな時計の針が動く音も捉える事ができた。
「観月さん、長居はなんですし。また後で……」
 もう一度会釈をして、金田は入り口の方へ歩もうとする。
「お待ちなさい」
 観月は手を伸ばし、彼の腕を掴んでいた。
「あ」
 咄嗟の行動に、慌てて離す。
「観月……さん……?」
 金田の瞳が観月の瞳と交差する。
「駄目、ですか」
「ええ?」
「赤澤でないとわからない用件なのですか」
「ええと」
 瞳を彷徨わせ、金田は回答に迷う。
 観月の言う通り、用件は上級生に問いたい事であり、赤澤に限定されたものではない。ただ、赤澤が一番話し易かっただけだ。同室の観月に聞き辛かっただけ。単純に、近寄り難いだけ。
 観月自身も気付いている。踏み込もうとしても、金田を困惑するだけだというのも。
 もっと、僕を必要として欲しい。
 喉のすぐそこまで出かけた言葉がもどかしく、観月は口元を歪めた。


 奇跡よ。
 奇跡よ起これ。


 一度離した腕を、もう一度触れた。
「……………………………」
 金田はどうすれば良いのかわからず、言葉を失う。
 けれども、この普段とは異なる空間は、普段では見えないものを映してくれるような気がした。
 触れられた手は、不思議と心地が良い。
 なぜだか、胸の鼓動が気になる。妙に危険な匂いがしたのだ。
 いけないと思うのに、引き寄せられていく奇妙な感覚。観月が、入り込む隙間を作ってくれているような。
 観月も、触れたものの、その先の行動が見えない。
 立ち止まり、寄り添ったまま、触れているだけ。


 もう、なにも起こってくれなくても良いとさえ思う。
 この時が、続いてくれさえすれば。
 考えて、迷い、困惑して、真っ白になった。







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