ケーアイエスエス
青い海、青い空。青に囲まれた世界に浮かぶ船の上は、食事が出来るようにテーブルと椅子が並べられている。不二と河村は洒落込んで、ここで朝食を食べる事にした。朝日が真っ白なテーブルクロスに反射して、眩しくも爽やかな光を放つ。食器もキラキラと煌き、潮風も程よく気持ちが良い。
ああなんて素晴らしい時間なのだろう。
不二は幸せに浸っていた。
硝子の器に入った水をコップへ注ぎ込んだ。河村のコップも受け取って装う。
しかし、不二とは異なり、河村の顔はどこか曇っているようにも見えた。膝に手を置き、俯いている。
「タカさん、どうしたの。眠れなかったのかい?」
くすっ。不二は柔らかく微笑む。
「不二。あのさ」
河村は決心でもしたかのように、急に顔を上げた。
「実は」
言いかけた後で、眉が自信を失ったかのように下がる。
「言ってみてよ」
君と僕の仲じゃないか。不二は座り直して、河村の話に耳を傾ける姿勢を取った。
「相談が、あるんだよ」
「相談?」
「こんな事、不二にしか言えなくて」
不二にしか。
他でもない自分を示した言葉に、不二の胸はどきりと高鳴る。
「うん、僕で良ければ」
「有難う。……あのさ」
河村は背を屈め、顔を近付けた。不二も顔を寄せて耳を向ける。
キス、した事ある?
「え?タカさん、もう一回」
いけない。いけないいけない。
不二は過度の期待による幻聴に違いないと聞き返した。
だが、返って来た言葉は同じであった。
顔を引いて、河村は不二の反応をおどおどした眼差しで伺う。
「な、ないよ。ある訳ないでしょ」
声が裏返らないように、ゆっくりと答える。
「不二はモテるし、あるでしょ?」
「いや、その、幼稚園の時、無理矢理女の子にされた事はあるけど、ね」
ははは。乾いた笑いで昔を話した。
小学生の時も似たような理由でした、された事はあるが、中学に入って、河村と出会ってからは一度だってした事は無い。どんな状況においても避けるようになっていた。
この人になら口付けをしたい、されたいという、心から惚れ込んだ存在に出会えたからだ。
その存在とは、目の前にいる河村なのだが。
彼は男。自分も男。それらを全て取り払っても構わないと思える人であった。そう、ベタ惚れだった。
「ねえ不二。その無理矢理されて、どう思った?」
「忘れちゃったよ。だって幼稚園だよ」
不二は水を飲み、喉を潤しながら言う。
「もし、もしだけど、相手が女の子じゃなくて、男だったらどうする?」
「ええ?」
「ごめん、変な事言って。事故でも、嫌だよね、そんなのされたら。当たり前だよね」
「タカさん?」
河村は再び顔の角度が俯き出し、声もぼそぼそと聞き辛くなっていった。
「ねえ、タカさん。一体何があったの?」
ごくごくごく。緊張か、不二の水を飲む量が増えていく。
「不二、俺……」
がばっ。顔を上げ、河村は泣きそうな表情で言い放つ。
「俺、男とキスしちゃったんだ!」
ぶっふううううううう!!
不二は開眼し、口の中に含んだ水を一気に噴出した。
けれども、水は河村に掛かる事は無かった。
一瞬の隙に、二人の間には一枚のトレイが差し込まれたのだ。
水の滴るトレイを戻し、彼らが見上げる先には亜久津の姿があった。
「てめえ食事中になんて真似をしやがる」
舌打ちをして、いつの間にか置いてあった追加椅子に彼は腰をかける。
「タカさん」
口元も拭わずに不二は河村を見据えた。
「話を聞こうじゃないか」
彼から感じるただならぬオーラに、河村はたじろぎ、言葉を濁す。
「だって僕」
「俺は」
「友達だろ」
かけがえのない温かで頼りになる言葉とは裏腹に、不二と亜久津の瞳は刃物のように鋭く、温度を感じない。
逃げ道はなく、河村は語り出した。
あれは先日。食後に桃城と廊下を歩いていた時であった。
「タカさん、何も起こらなければ良いですねー」
話題はアクシデントを危惧する内容。河村はそうだなと、相槌を打っていた。
丁度その時、四天宝寺の石田と財前が通りかかったのだ。たまたま、彼らの耳に河村たちの話題が入った。
「河村はん。起こるって何がです?」
「ああ、石田くん。実は」
四人は立ち止まり、河村が説明をする。
「物騒ですわ。ワシら四天宝寺は前回参加しとらんかったですから、皆にも伝えておきます」
「そうだね、それが良いと思うよ」
石田と河村が頷き合い、そこで会話は終わるはずであった。
「退屈しとった所です。刺激があった方がおもろそうっすわ」
だが、横で聞いていた財前が粋がった発言をする。
「財前てめえ、何も知らないくせに」
聞き捨てならないと桃城が反論をしだした。
「知らないからってなんです?臆病やな、青学は」
「財前はん。それぐらいにして下さい」
「わかりましたわ」
石田の咎めに、大人しく従う。
しかし、石田の視界に隠れて後輩二人は舌を出し合っていた。
「じゃあ、これで」
「ほな」
別れを言い、別の道を行くはずであったが、彼らの行く先は真横にあった下り階段。なんだ同じだ、と笑ったその刹那――――
「わ」
船が揺れて、丁度下りようとした財前は足を外した。
咄嗟に身体を支えようと掴んだのは、河村の腕であったが、彼もバランスを崩して二人もろとも転んでしまう。
「タカさん!」
「財前はん!」
桃城と石田は壁と手摺りに掴まり、名を呼んだ。
「ああ、大丈夫だよ」
幸い、階段は数段しかなく、真っ逆様に落ちるという事は無かった。
「何が大丈夫ですか」
呆れたような財前の声が返ってくる。
床に倒れた河村の上には、財前が馬乗りになるように跨った体勢になっていた。
「でも財前は大丈夫だったろう?」
「何言うてますのや」
河村の言う通り、財前は痛い思いをしていない。だがそれは彼がクッションになってくれたからであって、しかも引っ張ってしまったのは他でもない財前自身なのだ。財前としては罪悪感が残る。
二度目の揺れが来ないのを確認して、桃城と石田は下へ降りて二人の助けに入った。
「タカさん。怪我が治ったばかりなのに。財前、早く降りろ!」
「わかってま…………」
退こうとした財前は顔を歪めて足首を押さえる。
「捻っとるな、これは」
石田が財前の肩に手を回し、足の負担にならないようにゆっくりと立ち上がらせた。
財前が退くと、河村も身を起こす。支えようと桃城が歩み寄った。
「財前はん、医務室へ行った方がええ。ここは海の上さかい、後で何かあっても施設の整った病院はあらへん」
「タカさんも診てもらった方が良いっすよ。行きましょう」
こうして四人は医務室へ行き、帰りは一人で戻れると、桃城と石田に礼を言って帰した。
「散々っすわ」
長椅子に座った財前は、包帯の巻かれた足をぶらつかせてぼやく。
「でも、大事に至らなくて良かったよ」
その隣で座る河村が笑みを浮かべた。
責めもせず、笑う彼に、財前は胸にざわつきを感じる。
文句も一つ言ってくれた方が、こちらとしても突っ込みがしやすいのに。笑顔の先にある変な間が嫌であった。
「あーっ」
無意味に髪をガシガシと弄る。
「いつまで待たせるんや」
財前は椅子から立ち上がった。
二人を視てくれた医者は診察をした後、物を取ってくると行って席を立って以来、なかなか戻って来ない。医務室は二人きりになってしまい、財前の我慢にとうとう限界が訪れたのだ。
「待てん、帰る」
「財前、駄目だよ」
河村が立ち上がり、引き止めようとする。
「そうやってずっと待っているつもりかっ?」
財前は振り向き、河村に詰め寄った。
「俺は大っ嫌いっすわ」
「……………………………」
放たれた言葉に河村は何も言えず、ただただ困り果ててしまう。その頼りない様子が、財前の神経を逆撫でさせた。
「河村っ」
名を呼び、続きを紡ごうと大きく口を開ける。
だがまたもや二度目の船の揺れが二人を襲った。
財前は体勢を崩し、またもや河村の方へ身体が傾いてしまう。
二度の借りは作りたくない、そう理性は叫ぶのにどうにも止められない。
河村は財前を抱きとめるが、膝の裏が長椅子に当たり、足が曲がって後ろへ倒れて座り込む。しかしそれでも体勢は保てず、椅子もろとも、二人はひっくり返ってしまった。
「……………………………」
「……………………………」
痛さを言う事も、身体の安否を問う事も出来ない。
なぜなら、二人の口は互いのそれで塞がれていたからだ。
倒れ込んだ拍子に唇が重なる。こんな出来すぎた偶然、普通起こるはずも無い…………と思っていたのに、偶然は起こってしまった。まさに偶然を越えた奇跡のような瞬間。
財前が前のめりになり、河村は壁に押し付けられており、簡単には抜けられない複雑な格好であった。
息はし辛く、見開かれた瞳は互いを映す。逸らしたくても逸らせない。息を呑んだ喉は、ときどきひくりと動く。
支えた手は熱を持ち、汗が滲んだ。
心臓が忙しなく脈打つのは、きっと苦しいからだと懸命に思い込んだ。
「…………と、まあ。こんな感じ。事故だったんだよ」
はあ。話し終えた河村は深い溜め息を吐き、肩を落として俯く。
「あの後、なんとか起き上がったんだけど、変に気まずくて何も言えずに別れたんだ」
絶対、怒っているよね。河村の気分は沈む一方であった。
「……そう、財前が」
「財前がねぇ」
へえ……。
ほう……。
不二と亜久津の口の端が上がるが、目は全く笑っていない。
新たな戦いの幕開けを、二人は予感していた。
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