二度寝



 そう。まるで、そよ風のようであった。


「財前くん」
 昼の天に昇った眩しい太陽が女生徒を照らす。
「レギュラーになったんやろ。おめでとー」
 太陽の光に負けないくらい、眩しく微笑んだ。
 彼女は同じ四天宝寺の学生で小学生の時から知っている隣のクラスの恋人。昼休みは校舎裏にある日の当たる庭で良く二人だけの会話を楽しんだ。
「ああ」
 彼女の笑みに対して、財前はぎこちない笑みで返す。照れであった。
「うちはテニス、あまり詳しくないんやけど、財前くん頑張っていたもん。せやけど、寂しいわ」
「なんでやねん」
「財前くんはテニスにベタ惚れやもんなー。彼女としては、テニスに取られているみたいで寂しい言うとるんや」
 彼女は後ろで手を組み、財前の周りを歩いてみせる。
「阿呆ぬかせ」
 彼女を目で追おうと財前も回ろうとした。
 背中に回られ、振り向こうとした財前の首が硬直する。彼女の横顔がすぐそこにあり、柔らかな唇が触れたのだ。初めての口付けである。
 確かに触れていた。柔らかなものだと感じていた。だが、あまりにも一瞬で顔の熱さと心臓の高鳴りしか思い出せない。一瞬で過ぎ去る何か。そう。まるで、そよ風のようであった。


 彼女を愛して、恋をしていた。精一杯で、ありったけの力で走り抜ける季節たち。
 レギュラー入りを果たし、天才と呼ばれるようになってきた頃。隣にも、後ろにも、前にさえ彼女はいなかった。
 今も少年としての世界は止まる事無く流れ行く。ほんの少し前の彼女との記憶は、既に思い出となって過去を振り返るだけだ。同じ風は二度と吹かない。頬を掠めた風の感触を反芻するしか出来ない。いつしかそれも、忘れ行ってしまうのだろうか。






「………………………………」
 財前は閉じられた眼を開く。映った景色は現実を教えてくれる。
 ここは船の上。時刻は深夜で、ベッドの上から天井を見上げていた。
 すぐ横から聞こえてきた不快な音に、財前は顔をしかめる。同室の遠山が隣のベッドで眠っているのだが、いびきが酷い。
 なんの罰ゲームや。心の内で悪態を吐く。
 朝まで時間はたっぷりある。眠ろうと瞼を閉じると、昨日の記憶が浮かび上がってくる。
 突然の船の揺れ。突然の、口付け。しかも、相手は男。


 口付けは初めてじゃない。驚く事など無かったはず。
 気持ち悪いとさえ、感じても良いはずなのに。初めて感じた、あのそよ風とは当然、全く違う。
 思い出した相手の顔に、胸が嫌な高鳴りを見せた。内から揺らぎ、身体全体に広がり、指の先、爪先、頭の上を痺れさせる。
 意識すれば意識するほど、頭から離れなくなる。
 腕枕をして、気だるそうに寝返りを打った。
 もしかして、そっちの気でもあったん?
 自分自身へ問いかけると、その気がありそうな先輩の姿が浮かぶ。
 キモイ言う資格ないんか。
 ずるずる引き込まれる思考の罠を慌てて振りほどく。
 そんな訳あるか。
 目を瞑る力をこめた。脳裏の中の相手の顔は、笑顔のままであった。迷っても、肯定しかかっても、嫌がっても、笑顔のままであった。
「あーっ。なんや、もう」
 頭を抱えてうつ伏せになる。枕に唇がくっつき、ある事に気付く。
 彼女との口付けは頬であった。唇同士は初めてであった。
 俺の唇が!また好きになった女にするはずだったのに!悔しさと恥ずかしさが込み上げてくる。
 追い討ちをかけるように、遠山のいびきが容赦なく耳の中へ入り込んできた。
「黙れっ」
 急に起き上がり、枕を掴んで遠山に投げつける。
 だが野性の勘か、遠山は足を上げて枕を受け止め、蹴り返してきた。
「ぶっ」
 見事に顔面に当たる。財前はひっくり返り、後頭部がベッド下の絨毯についた。危うくのびてしまう所であった。恐るべしワイルド。
「白石部長に訴えたるわ」
 枕を剥がした鼻は、ほんのり赤くなっていた。






 そして朝。再び眼を開く財前の瞳は、重く座っている。
 清々しいはずなのに、ちっとも心地良くは無い。あまり眠れなかった。
 身を起こして見てみれば、遠山の姿は無く、ぐしゃぐしゃのベッドがあるのみ。どこかへ行ってしまったようだ。
 部屋の中で一人きり。音の無い静寂の空間であった。
 立ち上がろうとした財前は息を吐く。外に出たら、彼に会ってしまうかもしれない。危惧の念を一度抱くと、なかなか一歩が踏み込めない。
「なんや、もう」
 布団を被り、横になる。昼まで眠る事にした。


 一方、河村は朝食を終えて、船の中の通路を歩む。
「謝った方が良いかなぁ」
 不意に足を止め、思いを巡らせる
 昨日、財前は随分と怒っていた。河村自身も気まずかった。事故とはいえ、割り切れぬものもある。そりゃ、あんなのは嫌だろう。
 曲がり角を行ったり来たりを繰り返す。
 財前は四天宝寺の生徒。旅行が終われば遠い大阪へ帰ってしまう。それに河村は中学でテニスをやめる。今、雰囲気の悪さを解消せねば、ずっと一生そのままだ。後悔はしたくはない。河村は決意する。
「……河村はん」
「よお」
 角を曲がって進むなり、石田と遠山に出会った。
「昨日の怪我、どうですか」
「ん、うん。大丈夫だよ」
「そうですか。良かったわ」
 石田は口元を緩める。
「そうだ。二人とも」
 河村は財前の部屋がどこにあるのかを問う。
「お、財前やったらワイと同室や!」
 豪快に笑う遠山は、親指を立てて己の胸を突く。
「まだ部屋におると思うで」
 部屋の番号とここからの行き方を教えた。
「わかった。ありがと」
 歩調を速め、小走りで手を振りながら去る河村を、石田と遠山も手を振って見送る。


 教えてもらった財前と遠山の部屋の前にたどり着くと、戸を叩く。しかし何度叩いても、なかなか返事は来ない。
「留守かな」
 諦めて立ち去ろうとした時、鍵の外れる音がした。
「やかましいなあ」
 僅かに開いた扉の隙間から、財前が顔を覗かせる。目をこすり、かなり眠そうであった。
「起こしちゃった?ごめんね」
 声に財前の手が止まる。鮮明になっていく視界に、河村だと気付く彼の目が丸くなった。
 反射的に閉めようとするが、河村が手を入れて阻止をする。
「待ってよ。財前、昨日さ」
「昨日の事はもうええですわっ」
 開け閉めの攻防を繰り広げるが、時間はそうかからず、河村の勝利であった。パワープレイヤーとの力の勝負に適うはずもない。
 “昨日の事”を廊下で誰かに聞かれるのを避けたい財前は、河村を部屋の中へ招き入れた。
 奥へ行こうとする財前の背に、河村は声を掛ける。
「…………寝癖、立ってるよ」
「………………………………」
 見えない所で歯を噛み締め、苦い顔をした。後ろ頭を撫でるようにして直し、適当な椅子に腰をかける。河村も財前につられるままに開いた椅子に座った。


「それでなんですか。昨日の事をあんな場所で話さんで下さい」
「え」
 河村の表情が一瞬硬直する。
「えっ、てなんです?なんです今の間は。まさか」
 まさか誰かに話したんじゃないでしょうね。
 財前の瞳はそんな言葉を物語っていた。
「いや、その」
 話した相手――――不二や亜久津は信用の置ける人物だ。言いふらしてはいない。だが、不味かっただろうか。思い直し、正当化、反省が頭の中で回った。
「ま、ええ訳ではないですけど、用件は」
「だから、昨日の事、ごめんよ」
「はあ?」
 眉がぴくりと震える。
「河村のせいやないやろ」
「でも、さ」
 河村は眉を下げて、愛想笑いを浮かべた。
「怒ってたみたいだし」
「……そりゃあな。河村にぶつけてはいないっすわ。船の構造に文句言いたいだけです」
「………………………………」
「それだけ?」
「…………………………うん」
「それだけ、ですか」
 はー……。財前はわざと聞こえるように溜め息を吐く。
「何か、言わないと、と思ってさ」
 しゅんと頭を垂れる河村。
 財前は視線を逸らし、壁を見詰めて頬を掻く。
 確かに、河村が来てくれなかったら、煮え切らない嫌な気持ちを胸にずっと溜め込んでいただろう。少しだけ、あくまで少しだけ、胸の内が安らいだ。
 少し、面倒な奴だと思っていた。けれども、嫌いでは無い。
 憧れとも友愛とも異なる温かな何かが湧き上がるのを感じた。
「あ」
 財前が声を上げると、河村も顔を上げる。
「腹、減ったな。昼まで寝てたもんやから何も食べてないっすわ」
「もうお昼時か。俺も変に緊張していたから、お腹空いたよ。一緒に食べに行こうか」
「ええですよ。着替えるさかい、待っとって」
 二人は同時に立ち上がる。
「ああ、財前」
 河村が手を伸ばした体勢で呼び止めた。
「なんですか」
「その、寝癖が」
「またそれですか」
「……ここがさ」
 財前の頭の上に手を乗せ、髪の不自然な場所を教える。
「後で鏡見て直しますわ。ほっといてくれます」
 手を軽く払えば“ごめん”と詫びる河村。
 不機嫌そうな顔を見せた後、ぎこちない笑みで返した。







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