シャンプー
「はーっ」
仁王は息を吐いて、そのまま後ろに倒れる。
ばふっ。音を立ててベッドに転がった。
「肉、美味かったナリ」
腹を摩って舌なめずりをして、食事の感想を呟く。
「のう、柳生?」
瞳をきょろりと動かすと、天井の次に椅子に座る柳生を映した。
ここは船の中の寝室。柳生と仁王は同室であった。
日は暮れ、夕食を終えると二人は部屋に戻ったのだ。後は眠れば今日は終わる。
「俺はもうしばらく食休みするぜよ。先に風呂使っても、良い……」
ぱたっ。寝返りを打って欠伸をした。
「……え?あ、はい」
柳生は遅れて反応し、振り返る。振り返る際に、先ほどまで熱心に見ていたテーブルに立てた鏡が倒れた。
「柳生、もっと大きい鏡なら部屋にいっぱいあるじゃろ」
「かが、鏡なんてっ」
カッと柳生は顔を赤くさせ、鏡をズボンのポケットに隠す。だが、手が滑って絨毯の上に落ちた。
「なんじゃ、風呂に入る前に髪型なんぞ整えて」
「私は少し、部屋を出ます。鍵を持っていきますよ」
椅子から立ち上がり、鏡を拾う。
「夜這いか」
「よっ……。仁王くん、君は」
仁王の一言にびくりと肩を竦ませ、咳払いをして何事も無い振りをしてみせるが遅い。
「違うんか?桜井くんじゃろ?」
喉で笑う口の端が上がった。
「いや、その、それは」
言い訳を口に出そうとするが、何を言ってもボロが出そうなので、もう一度咳払いをする。
「気を付けぃ、柳生。何が起こるかわからんからの」
「仁王くんも皆疑っているようですけど、疑いすぎではないでしょうか。現に今日は何も起こらなかった」
「今日は、な。ソワソワしとる奴に言っても仕方が無かったか。人は恋をすると純粋になるナリ」
「仁王くん」
今度ばかりは動揺だけではなく、声色に不機嫌も混じりだした。
「ただの一人もんのやっかみに捉えてくれぜよ。じゃ、お休み。俺は眠っとるかもしれん。あと」
「あと?」
「ほれやったじゃろ、釣り。楽しかったの。また、やろう」
寝っ転がったまま、釣りの手まねをしてみせる。
「そうですね。ではお休みなさい」
柳生はそう言うと部屋を出て、鍵を閉めた。
「健闘を祈る」
一人きりの部屋で、仁王は一人呟く。
パタン。
廊下に出た柳生はドアに寄りかかり、深呼吸をした。
「……よし」
頷き、背を離して歩き出す。
仁王の予想通り、向かうのは桜井のいる部屋。昼頃に彼に聞いて場所は知っている。
桜井に想いを告げて、受け入れられたものの、それ以上は特に進んではいない。
大会も、練習もあったし、何より学校生活がある。同じ関東圏は関東圏ではあるが、義務教育の中学生には交通費の壁が高く険しい。主なやり取りはメールぐらいであった。
いや、ぐらいではない。柳生にすればメールの文面の一つ一つに喜び、感激し、心を躍らせていた。何もかもが輝いていた。
そしてこの慰安旅行。二人がゆっくりできて、さらに近付けるかもしれない転機が待っているかもしれないのだ。特に話題は決めていないが、恐らく何とかなるだろう。とにかく会いたい、話したい。逸る気持ちは歩調を速めた。
期待を高鳴らせる裏で"もしかしたら"という、予想を上回る急展開を想像せずにはいられない。
柳生は不埒な想いに、一人頬を赤らめた。
まだ中学生なのに。それに他校生同士。そもそも男同士。関係は柳生の価値観内で“イケナイ事”だらけであった。イケナイ、だからこそ触れてみたくなるもの。スリルに惹き付けられるのだ。
「……………………」
ゴクリ。生唾を飲み込み、壁の影から通路を覗く。
ここを曲がれば桜井の部屋がある通路に入る。彼は石田と同室だと聞いた。
どう話をつけて、桜井との時間を作るか。これが問題である。来る前に考えておけというのは尤もではあるが、逸る想いが考えたら考えた分だけ通り抜けてしまうのだ。
さて、どうしよう。じっと様子を伺った。埒が明かないのは、わかっている。よーく、わかっている。
「あ」
思わず声を上げた。
ドアが開き、石田が出てくる。丁度開いたのが桜井の部屋とは、なんたる幸運であろう。きっと神様も祝福しているんだという都合の良い神への感謝をした。
石田はドアを開いたままで立ち止まり、なにやら話している様子。恐らく相手は桜井だろう。
手を離そうとすると桜井が出てきて、代わりに彼がドアを押さえた。手を振り、石田は柳生のいる方向とは逆の方へ歩いていく。石田を見送り、閉めようとするドアを柳生は慌てて駆け寄って抑えた。
「待って下さい」
「…………………ああ」
桜井は柳生を見上げた姿で、瞬きをする。柳生も見下ろし、眼鏡の奥の瞳を瞬きさせた。
交差する視線にドキリと心臓が鳴る。
次に、香ってきたシャンプーの香りに、さらに高まる。
良く見れば、桜井の髪は湿っており、服もジャージではなくタンクトップに短パンというラフな格好で、肩にはタオルをかけていた。正に風呂上り、そのものの姿であった。
「……お休みの所でしたか?」
恐る恐る問いかける。
見てはいけない。そう己を叱りながらも、視線は濡れた髪と首筋を眺めてしまう。
「何も用がないのなら、そのつもりでしたけど。柳生さんはどうしてこちらに?」
「君と話したいからに、決まっているでしょう」
緊張のせいか、口早に強引な言葉を吐いてしまった。
「本当ですか?嬉しい」
桜井はくすくすと笑う。笑い出されて、柳生は面を食らう。
「どうぞ。俺しかいませんので、ご自由に」
部屋に招きいれ、ベッドに腰をかける桜井。ベッド脇に置いてある鞄を、背を曲げて中身を探り出す。
「石田くんはどうされたんです?」
柳生は椅子に腰掛け、桜井を眺めた。
「石田は兄貴の所へ行きました。普段離れているから、積もる話もあるんでしょう」
「私たちみたいですね」
「ええ?」
桜井は顔を上げ、一瞬目を丸くする。
「いえ、その」
咳払いをして手をパタパタと振り、無かった事にして欲しいと合図した。浮かれているのか、変な事を口に出してしまった。
「あーっ」
桜井は声をあげ、前髪を摘まむ。急に頭を上げたせいで、髪が乱れてしまったのだ。
風呂に入ったので整髪料は落としていた。思えば、髪を下ろした桜井の姿は初めてであったと、柳生は今更気付く。
「ま、良いか」
鞄から取り出したらしいクシを持ち、ベッドから立ち上がろうとする。
「さく、らいくん」
「はい?」
「私が、とかしましょうか」
呼び止め、裏返りそうな声で問う。
「良いんですか?」
「やらせてください」
今のはいささか、別の意味のようにも取れる。
そう後悔しても放った言葉は引っ込められない。
「では、お言葉に甘えちゃおうかな」
くすりと桜井は白い歯を見せ、柳生に背を向けるように座り直した。
その場所は不味いのではないか。そう過ぎったが、言えなかった。いや、あえて言わなかったのかもしれない。
柳生は席を立ち、桜井の隣に座った。ベッドは膝を乗せるとギッと軋む。
どう座れば良いのかわからず、肩膝を乗せて残りは床に足をつけるという不自然な格好になった。
「では、お願いします」
背を向けたまま、桜井は柳生にクシを渡す。
「はい」
クシを持ち、まずは浅くとかした。
水を吸った髪は、すけばクシに膜を作る。
「桜井くん。もっと乾かした方が良いですよ」
これ使いますね。そう断りを入れて、彼の肩にかけてあったタオルで、髪を柔らかく挟んで水気を吸わせた。
「柳生さん。そんなに恐々やらなくても良いですって」
「こんな感じですか」
「ええ、そんな感じです」
一言一言が二人きりの部屋によく響く。
髪もそうだが、肌もしっとりと水気を持ち、触れれば気持ちの良い温かさが伝わってきそうであった。晒された腕、タンクトップの隙間は覗こうとすれば背中が全て見えてしまう。しなやかな筋肉、骨、男の身体は緩やかな線を描きつつ、たくましさをも醸し出していた。
彼は男。普通の少年。十分わかりきっている筈なのに、柳生の目には特別で、心のままに引力に引き寄せられてしまう。
「あ」
二人の吐息が重なる。
引き寄せられるままに、柳生の両腕は桜井の腰に手を回し、抱き寄せていた。
緩く握られたクシは滑り落ちるように、ベッドから落ちる。
ごめんなさい。発するはずの声は出なかった。
桜井の肌は見たままの、しっとりとした感触と温かさが伝わり、吸い付くよう。シャンプーの香りも水を感じ、頭の中がぼんやりしてくる。まるで自分が風呂に入ったかのような錯覚さえ覚えるのだ。
もっと引き寄せようとすると、桜井はバランスを崩してベッドへ静かに倒れた。つられて倒れる。
視界が変わって瞳に映し出されるのは、彼の乱れた髪と衣服。柳生も整えた髪が乱れてしまった。
「柳生さん」
くぐもった声で桜井は柳生を呼ぶと、ごろりと寝返りを打って向かい合わせになる。
向き合う互いの顔は真っ赤だった。
何か言おう。言ってやろう。そう思っても声が追いつかず、唇を薄く開閉させるだけであった。
不意に動かした手が相手の手にぶつかると、一回ははじかれたように離すが、二度目はしっかりと握り、握り返される。
握られた手は熱を持ち、じんわりと汗を浮かび上がらせた。
「暑い」
桜井が呟く。
「暑いですね」
同意して、ずらすように頭を動かすと眼鏡がずれた。直そうと身を起こした格好から、そのまま桜井の身体に圧し掛かり抱き締める。
「は」
吐かれた熱い息が、顔の横にかかった。
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