20.愛が見えない



 とある日の不動峰テニス部の練習帰り。
「腹、減ったな」
 内村が腹を押さえて呟く。
「何か食べに行くか」
 橘が賛同すると、皆も笑顔で彼の意見に乗る。
 何を食べようか、という話に神尾がラーメン屋と言い出し、他に案が出なかったのでそれに決まった。


 適当に美味しそうなラーメン屋へ行き、それぞれカウンター席につく。
「豚骨ラーメンお願いします」
 桜井の注文が特に早い。
「好きだなぁ」
 隣の石田がらしさに笑う。
「俺も豚骨にしようか」
 橘も桜井と揃いのものにした。
「橘さんは九州ですから、本場ですか」
「本場は博多だろう。同じ九州ではあるが」
 伊武の問いに橘は即答するが、懐かしそうな顔をしているように見えた。


 匂いで気付くべきだったが、注文のものが届いてから橘は知る。
 これが豚骨……?
 スープを味見した形で固まり、橘の眉間にしわが寄る。
 これはより多くの人間が食べられるように関東用に味を調整したもので、本場のものとは違う。
「…………………………」
 調整するのは仕方の無い事だが、本場のものと思い込んで食べられると微妙な気分だ。
 ましてや、すぐ横にいる同じ志を持つ後輩に。
「どうしたんです?」
 様子に気付いた森が聞く。
「なんでもないさ」
 箸を止めていた手を動かし、ラーメンを完食させた。
「桜井」
 箸を置いて名を呼ぶ。
「はい?」
「今度、俺ん家に来い」
 橘と店主以外の時が止まった後、二年生は一斉に声を上げる。
「ええええええええっ!」
「贔屓はいけないと思いますっ」
 すかさず神尾が挙手をした。二年生内の暗黙のルール“橘さんを独り占めしない”を掲げたのだ。橘直々の誘いは言語道断である。
「桜井が行くなら俺も行く」
 石田が言うと、伊武と内村も頷く。
「皆、行きたいそうですよ」
 森がまとめた。


「いや、ただ俺は桜井に豚骨ラーメンをご馳走しようと思っただけだが」
 言葉が足りなかったと気付き、説明する。
「豚骨ラーメンですか」
 好物なので桜井はパッと顔が明るくなった。
「そうだ。お前に本場の九州男児の味をだな」
 九州出身の橘としては、どうせ好物なのなら本場の味を好きになってもらいたい心境なのだろう。元から料理を作るのが好きなので、腕のなりどころだ。
「俺も豚骨好きですから」
「ああ俺も」
「俺もなんですよ」
 次々と好物を主張する者が現れだす。
「お前ら何嘘吐いてんだよ。特に伊武っ、こないだ豚骨の匂いやだって言っていたじゃないか」
 周りの盛り上がりぶりに乗り遅れながら、桜井が指摘する。
「………桜井、桜井」
 伊武は囁いて口元に人差し指を添えた。
 彼の合図に桜井はつい口を滑らせてしまった事を察する。顔が熱くなった。


 “こないだ”は、伊武と二人きりで食べに行った時の話だ。
 友情とは異なる、親密な関係として――――俗に言う密会である。
 友人間の付き合いでは別行動が多いので、口に出せば浮いてしまう。


「深司、桜井とラーメン食べに行ったのか?」
 神尾が無邪気に問いかけてくる。恐らく彼も一緒に行きたかったのだろう。
「ああうん、そうだよ」
 後ろめたい面があるせいか、ただの返事でも声がおかしな方へ出ていないか慎重になった。
「俺も連れてけよ」
 予想通りの反応を見せてくる。
「今度はほら…………橘さん、楽しみにしてます」
 桜井は神尾から橘へ顔を向け、愛想笑いに限りなく近い引き攣った笑みを向ける。
「ああ、任せとけ。お前らの反応によって俺のレパートリーが増えるかもしれんからな」
 穏やかに言うが、彼の身体からは己を高めようとするオーラが湧き上がっていた。
「それはそうと桜井。豚骨以外に好きな食べ物はあるのか」
「あー……、はい。和菓子とか好きですね」
「…………そうか」
 なんだその間は。二年は橘の妙な間に瞬きさせる。
 橘は甘い物が苦手であった。
 本場の味を知らず、しかも甘い物も好きと来ている。
 桜井、お前はなかなかけしからん奴だな。
 好みの問題以外のなにものでもないが、だからこその勝手な思いが浮かんだ。






 その後、軽い雑談をして一行は店を出た。
 帰路で橘は初めに別れ、二年生だけが残される。
「髪に匂いついちゃったかな」
 伊武はさっそくぼやきだす。
「大丈夫だよ」
 苦笑する森。
「そうそう」
 桜井も横に並んで頷く。
「桜井からは豚骨の匂いがするかも」
「そうか?」
 肩に手を乗せ、伊武は桜井の首筋に鼻をつけた。髪の近くなので整髪料の匂いが強い。返すように、桜井も伊武の頭に顔を寄せる。
「ん、普通かな」
「伊武、手入れしすぎ」
 二人が顔を離すと、森と目が合う。
「な、なにやってんの」
 見てはいけないものから逃れようと、視線の位置がさまよっていた。
 伊武と桜井は目線を合わせて、どう言い訳をしようか合図を送る。
 どうも店から浮かれているのか、ボロが出てしまう。
「なにも、なあ」
「そうだ。森もどう?」
 なにがどうなんだ。発言の後で後悔する。
「お断りするっ」
 森は彼らの前を歩く石田たちの方へ行ってしまった。口止めしようと二人も追いかける。


 桜井が好物の豚骨ラーメンの匂いは、人を惑わす香りのような気がした。







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