8.ジンクス破り
携帯電話が鳴って、樹は液晶画面から相手の名前を見ると、席をはずして部室から出て行ってしまった。
「サエ?」
木更津が佐伯に首を傾げてみせる。
机に座って部誌を書いていた佐伯は、落ち着きが無いのか片足をしきりに動かしていた。
「ん、うん」
煮え切らない返事をした後にペンを置き、席を立って部室を出る。
理由はわからない。樹が気がかりであった。
外へ出て、辺りを見回すが樹は見当たらない。裏にいるのかもしれないと、回ってみると話し声が聞こえてくる。樹の声であった。
潜められてはいるが、その中に隠しきれない苛立ちが含まれており、内容はわからないのに佐伯の心は痛む。彼にあんな声を出させるのは、誰だか知らないがやめて欲しい。
会話が途切れ、待っても話す気配を見せない。電話を終えたらしい。
樹が部室へ戻ろうとすると、立ち尽くしている佐伯に鉢合わせになる。下を向いていて、ぶつかりそうになった。
「サエ」
樹は顔を上げて、佐伯の落ち込んだ表情を見ると息を吐く。
「盗み聞きは感心しないのね」
「ごめん」
佐伯は視線を彷徨わせた後、一人頷いて言う。
「誰?」
樹が答えないので、もう一度問う。
「誰なの?」
それでも答えないので、当ててやった。
「菊丸でしょ?」
図星であったが、樹は冷静で動揺を見せない。
「知ってるなら、それで良いじゃないですか」
「良くないよ。喧嘩?菊丸が酷い事言ったの?」
「俺にも悪い所はあるのね。サエは気にしないで」
「気にするよ」
歯がゆそうに、佐伯は顔をしかめる。
「俺、樹ちゃんが大切。樹ちゃんには笑っていて欲しい。だから樹ちゃんを傷付ける菊丸が許せないよ」
口早に意見を放つ。口に出せば、止まらなくなる。今まで樹を見ていて抑え切れなかった言葉が次々と飛び出した。
「だいたい、菊丸に言われっぱなしなんじゃないの?はっきり言わなきゃ駄目だよ。言えないなら、俺が言ってあげる。あいつ、そういうの言わないとわからなそうでしょ?それに電話代とか、交通費、大変じゃないの?大丈夫?キツいんじゃないの?」
「サエ」
「考えてみれば遠距離なんだよね。遠距離って」
「サエ」
強めに呼び、口を閉ざさせる。
「サエは俺と菊丸が合わないって言いたいのね?」
「そこまでは……。そんなんじゃなくて」
口籠った。確かに少なからず、そう思っている部分はあるだろう。
辛そうな樹を見るのが、辛いのだ。六角で、皆といる時の、菊丸と出会う前の彼と、つい比べてしまう。
人が人を想うのが美しいというのは、ただの理想なのかもしれない。しかしそれでも、辛そうな彼を見るのは耐えられない。
樹を思って言っているのに、樹にはきっといらぬ世話にしか聞こえないのだろう。それもそれで、切なかった。
六角の仲間たちは、理由は知らなくても雰囲気だけで樹を心配している。口に出さないだけである。佐伯が勝手に代表して汚れ役を買ったまでだ。
皆、君を思っているんだよ。言葉に出来ない想いは喉に染みた。
「樹ちゃん……」
硬く口をつぐみ、佐伯は俯く。
「サエ、悪かったのね。ごめんね。有難う」
声が震えていた。樹は横を向き、口と鼻を手で隠して俯く。瞬きをすると涙が零れる。
「樹ちゃん」
手を伸ばそうとしたが、樹は首を振って拒否をした。
「樹ちゃん」
それでも佐伯は一歩前へ出て、樹の肩に触れる。抱き寄せる訳でもなく、ただ触れていた。慰める訳でもなく、一緒に悲しんだ。涙の理由は問わず、ただ傍にいた。
一方、青学の部室裏では菊丸の方も電話を聞かれてしまった。よりにもよって、相手は大石。詮索されるのを恐れ、菊丸は素早く何事も無かったようにこの場を抜け出そうとするが、案の定捉まってしまう。
「英二。さっきの電話、穏やかじゃあなかったな」
大石は腕を組み、逃げられないように立ち塞がる。
「そう?にゃんでもないよー」
明るく笑って見せるが、パートナーの目は誤魔化せない。
「水臭いぞ。俺で良ければ相談に乗るって」
余計なお世話。瞬時に頭の中でそんな言葉が浮かんだ。
「でもさ、ほら、俺で何とかするから」
愛想笑いで手をパタパタと振る。
「まーた勝手な事を言って樹くんを怒らせたんだろう?」
「あ、わかる?俺ってば我侭だからさー……」
ついつい大石の誘導に乗ってしまった。
「ちゃんと謝れば、きっと大丈夫だよ」
人の良い笑顔を浮かべ、大石は菊丸を励ます。だがそれはあくまで“つもり”でしかなかった。
「それが出来たら、世話ねーよ」
菊丸は表情を曇らせ、呟く。
「英二?」
彼の変化に大石の顔は強張り、おろおろする。
「面と向かえられれば、こんな事にはならねーよ。声だけじゃ、言葉だけじゃ、誤解生みやすいんだよ。上手く行かないんだよっ!」
感情が高ぶり、溜め込んでいた言葉が飛び出した。どうにもならず、押さえ込むしかなかった感情。
吐き出してしまった後で大石に八つ当たりをしてしまった事に気付いて、小さく“ごめん”と付け足す。自己嫌悪が湧き上がり、地へ視線を落とした。大石の顔を正視出来ない。
「英二……」
囁くような声だが、よく聞こえた。
「俺、もう嫌なんだ。なんでこんな思いをしなきゃならないんだ……」
「仲直り、出来ると良いな」
菊丸は無言で頷く。涙が込み上げて、声が出せなかった。
眠って、起きてを繰り返して何日か経った後、菊丸は樹へ一通のメールを出した。
内容は“話し合おう”という、簡素なもの。返事は返ってきて、樹も了承してくれた。これが何度目のやり取りだろうか。思い返すのは辛いのでやめた。
二人はお互いの距離に都合の良い駅で待ち合わせをし、適当な店に入る。二人席の向かい合わせが、変に気まずさを醸し出す。
テーブルの上に注文したカップが置かれ、口を付けようと手を伸ばすが引っ込めて、テーブルの下へしまう。中身は適当に頼んだホットコーヒー。湯気が二人の間を揺らぐ。
初めに口を開いたのは菊丸であった。
「こないだは、悪かったよ」
「何が悪いか、わかっているのね?」
「あんまり。でも、悪かったよ」
「……俺の方も、悪かったのね」
はぁ。同時に呆れたような息と、安堵のような息が吐かれた。
しかし、仲直りをしても二人を包む空気は沈んだままだ。
「あのさあ」
菊丸は頬杖をついて、視線を逸らし、呟くように言う。
なんとなくその輪郭を見て、樹は好きだと感じた。見つめるだけで、言葉にはしなかった。
樹の視線を受けたまま、続ける菊丸。
「俺たち、合わねぇのかな」
「………………………」
樹の言葉は返ってこない。
「喧嘩、ばっかりだろ?仲直りしても、その繰り返しで。こうして会うのも大変だしなー」
気楽に言うつもりが、最後の方は声が変だった。
「じゃあ。別れるんですか」
普通に言うつもりだったのに、声は震える。
「俺は続けたい。どうなるか、わかんないけど」
「じゃあ。良いじゃないですか」
「樹。お前は良いの?」
「嫌じゃないのね」
菊丸は視線を樹へ戻した。
「………………………」
「………………………」
しばし無言で交差させた後、おもむろにカップを取り、口を付ける。
「砂糖、入れ忘れた」
「まだ冷めて無かったのね」
カップを置き、顔を上げて見える相手の口元は笑っているように見えた。
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