氷が溶ける時
全国大会も終り、夏もまた終わろうとしていた。そして明日は登校日。夏休み最後の一日を、部屋でゆったり寛いでいた菊丸に携帯電話が鳴る。相手は不二であった。
「なに?」
欠伸をかみ殺して用件を問う。
「今日、どうするのかなって」
不二の声は明るい。受話器の向こう側から、笑っている声が微かに聞こえる。
「今日?」
カレンダーを見るが、思い当たる節は無い。
「なにかあったっけ」
「またまたぁ」
これが電話でなければ、肘を突かれていただろう。
「僕にまで黙っているつもり?」
「だからなんだよ」
「…………………え、英二?」
不二はようやく、菊丸が本当にわからない事に気付き始める。
「冗談………だよね?」
「は?」
「英二もごまかすのが上手くなったなぁ」
「え?」
「言わないなら、僕が言っちゃうよ」
「あ?早く言えって」
不二がもったいぶるので、短気な菊丸は少々イラついて来た。
「今日は樹くんの誕生日じゃないか」
「……………マジ?」
思わず聞き返してしまう。
「マジ」
菊丸には見えないが、不二は頷いてみせる。
「忘れてたの?」
「忘れてたもなにも、元から知らねぇし」
頭の端の方から、混乱と焦りがじわじわと侵食していく。
「そもそも、なんで不二が知ってるんだよ」
「佐伯に聞いた」
「佐伯?」
「そう。樹くんから何も聞いてないの?」
「……………………」
「もしかして、喧嘩中?」
「なわけあるか!俺達は……」
「……は?」
「なんでもない」
言おうとした言葉に、頬が赤らんだ。
「あー、どうすりゃ良いんだ」
「まず、おめでとうって……」
「それを言わなきゃいけないのか…」
「照れてるの?」
「……………………」
顔の熱は、なかなか冷めない。
その後、いくらか会話を交わして電話を切った。
「さて、どうすっか」
ベッドへうつぶせに倒れる。
樹の為に何をしてやれば良いのか、なぜ教えてくれなかったのか、頭はただ混乱するばかりであった。
「俺は……」
思っているほど、樹に思われてなかったのか。
口に出しかけた時、喉の奥から何かがこみ上げる。なぜそれだけで、こんなにも落ち込むのか。心の変化に、自分で自分に驚いた。
「はー………」
溜め息混じりに、顔の近くへ携帯を持って行き、電話をかける。相手は樹だ。メールなどでは、落ち着いてはいられなかった。
“はい”と、樹が出る。
「あのさあ、今日お前の誕生日なの?」
単刀直入に問う。
はい、と。樹は認めた。
「なんで言ってくれなかったんだよ」
菊丸は感情が表に出やすい。声は悲しみに染まる。
「つかお前。なんで31日なんて面倒な日に生まれたんだよ」
「知りませんよ」
親に関係する事なので、樹はムッとなる。
「樹、今どこにいんの?」
「オジイの家ですけど」
「行くから、ちょっと待ってろ」
「は?場所知ってるんですか?」
電話は切れてしまい、返事は返って来なかった。後ろの方から誰かが“どうした?”という、気遣いの言葉が聞こえた。菊丸は電車に乗った途中で、場所を知らないことに気付く。今更聞くのもプライドが許さず、なんとかなるだろうと無理矢理、楽観的に考える事にした。
駅に着くと、待ち構えたように見知った顔が自転車で待っていた。目が合うと、お互いに張り付いた笑顔を見せる。
「よお」
「…………よ」
ぎこちなく、上がる手。その人物は佐伯であった。
「乗って」
「ん」
後ろに座ると、自転車は動き出す。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
2人無言だった。仲が悪い訳ではない、嫌いたい訳ではない。ただ、樹の事が絡むと気まずくなる。退く訳にはいかない。けれど、踏み出す事もできない。平行線の関係だった。
「知らなかったんだってぇ?」
沈黙を破ったのは佐伯であった。運転中なので、背を向けたまま話しかけてくる。
「ちょっと、驚いた」
「……………………」
「隙、見せるなよ。期待するだろ」
声は小さくなり、後の方は消えかけていた。
「菊丸を見ていると、我慢なんてするもんじゃないなって」
「なんだそりゃ」
「そのまんまの事だよ」
「言いたい事があるなら言えよ」
「俺は樹ちゃんが好き。お前なんかにやらない」
「言いやがったなお前」
呆気に取られるが、妙におかしさがこみあげる。
「菊丸はどうなの」
「俺?俺は………もらったもんは返さない主義だ」
「ふーん、覚悟しといて」
佐伯の口元は綻んでいた。夏の暑さにも溶けなかった氷が、ようやく溶けていくようであった。
オジイの家に着くなり、菊丸は樹を連れ出し、佐伯の自転車を借りて走り出す。
どこへ行くのかと聞いても、菊丸は答えない。風景は次第に海に近付いてくるので、樹はだいたいの察しがついた。
「ほら、着いた」
自転車を適当な場所へ止めて、手を引く。場所は予想通り、海であった。下りたばかりで足をもつらせながら砂浜へ出る。日は沈み始め、水平線の先が僅かに赤く染まっていた。
「俺はここら辺じゃ、お前を連れて行ける所はここしか知らない」
背を向けたままで、顔を見せてくれない。
「あの、ひょっとして、怒ってます?」
「お前が言わないから、何も出来なかったじゃねえか」
思うように言いたい言葉が思い浮かばず、砂を蹴る。靴の中に入って後悔した。
「これでも考えたんだけど、何も浮かばなかった。すっげえ考えたけど、何も」
「だから………嫌だったのね」
樹の呟きに、菊丸は振り返る。
「俺、嫌なんですよ。菊丸が、俺の事で考えたりするの」
先ほどの菊丸のように、砂を蹴って見せた。
「なんでだよ」
樹に詰め寄る。
「俺がお前の事、考えちゃいけないわけ?」
「……………………」
顔を近付けてくる菊丸に、視線を逸らす。
「だって、俺は何もしてあげられないのね」
僅かに開く唇は、音は出さずに“こんな距離じゃ”と形を作った。
「……………………」
そんな事はない。
こうして来ている。
なんならお前が来い。
多くの言葉が浮かぶが、どれも確かなものは無く、答える事は出来なかった。何も言わず、腕を引き寄せる。
「腹、減ったな」
ぽつりと菊丸は呟く。
「どこか、食べに行きますか?」
「洋食が良いや」
「はいはい」
樹は苦笑するが、嬉しそうだった。今度は樹が菊丸の手を引いて、砂浜を歩く。
もう少し近づけたら、自信を持って答えを言える日が来るのだろうか。菊丸は連れられるまま、ぼんやりと繋がれた手を見つめていた。
31日生まれの方、申し訳ございません。
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