関東大会会場で立海大附属中と試合する前に、伊武は桜井を連れてそっと人気の無い所へ抜け出した。
「どうした?」
桜井はきょとんとして伊武の言葉を待つ。
「うん…」
伊武はきつく桜井の体を抱き締め
絶対、勝とう
と、低くもしっかりとした声で囁いた。
桜井は黙って頷く。
ペアではないので、いつも隣にはいられないけれど、心はちゃんと繋がっている。
愛が、ここにあって、幸せが、ここにあって、これからも続くと信じていた。
この時は、あんな事が起こるなんて夢にも当然思ってはいなかった。
フィアンセになりたい
学生が良く立ち寄るファーストフード店で、伊武と桜井は窓際で向かい合わせに座っていた。
伊武が深い溜め息を吐いて、外の景色を眺める。
桜井は俯いて、テーブルを見つめた。
言葉を交わす事無く、そこには気まずい雰囲気が漂っていた。
しきりに髪をいじって、伊武は外の景色を眺め続ける。
何も言う事が出来なかった。口を開いたら、桜井を傷つけてしまいそうだったから。
あの日から、2人の関係はうまく行かなくなった。
あんな事が起きてから、2人の関係はうまく行かなくなった。
橘が負傷して入院してから、2人の関係はうまく行かなくなった。
大好きで、尊敬していて、太陽のような存在だった橘が、いなくなってしまった。
伊武が一番、橘に依存していたかもしれない。
あの日から、伊武の心は不安定になった。
悲しみを、桜井にぶつけてしまった。
受け止めようとしてくれた彼に、わかるはずはないと、拒絶してしまった。
その時の、桜井の顔が脳裏に焼きついている。
悪い事をしてしまった。
すぐに謝った。
けれど、自分ではどうする事もできなくて、傷つける事を繰り返してしまう。
傷つけてしまう事をわかって、傷つけてしまう自分が、嫌で嫌でたまらなかった。
いつしか、閉ざしてしまう事を覚えてしまった気がする。
そうしたら、彼の心が離れていく足音の幻聴が、聞こえるようになってきた。
「伊武」
桜井が、伊武の名を呼ぶ。
「なに?」
視線を窓から、桜井の方へ戻した。
「橘さん、伊武に会いたがっていた」
「うん」
表情を変えず、返事をする。
伊武は一度も橘の見舞いには来ていなかった。
現実に向き合うのが、怖かったのだろうか。
「行く時は声、かけてな」
「うん」
いや、桜井に甘えているだけなのだろう。
自嘲気味に伊武は口の端を上げた。
そろそろ帰ろうかと話を切り出して、別れた。
もう駄目なのかもしれないと、心が囁く。
繋ぎとめていくので、手一杯であった。
そこにあるのは意地なのか、諦めの悪さなのか。
1人迷い込んで、孤独を感じた。
彼を愛していた。
今もそれは変わっていないはずなのに。
どうして昔と、同じ事が出来ないのか。
単純な一言でさえ、出てこない。
ボロボロで、落ち続けていく自分を
彼だけには、見捨てて欲しくは無かった。
愛していて、欲しいのだ。
帰路を歩く伊武は、おもむろに空を見上げた。
ああ、俺と同じだなと、思う。
曇って、今にも地上を押し潰しそうな、嫌な空であった。
次の日、伊武は授業を受けているにも拘らず、窓からグラウンドを見下ろしていた。
そこでは2年生が体育をしており、桜井とクラスメイトと思われる生徒が、とても楽しそうに話をしていた。胸がムカムカとする。これは、ただの嫉妬ではなかった。
昼休みに桜井を倉庫へ呼び出して、話をする。しかし、話という形にはならなかった。
「あれ、誰なの?」
伊武は先ほど見た男子生徒と桜井の仲を、彼の口から聞きだして、責めてしまう。
桜井まで、憎らしくなってしまったのだ。
「どうして………そんな事を聞くんだ。つまんないよ、束縛なんて」
暗くてよくわからないが、桜井の顔はとても悲しそうだった。
それを直視したくなくて、このような所に呼び出してしまったかもしれない。
心の距離が不安になって
そこから、疑いと束縛が生まれた。
「アイ……はただの…………もだち……だよ」
やっとの言葉は、途切れ途切れに聞こえる。
「次、移動教室なんだ。じゃあ」
バレバレの無理な笑顔で、桜井は伊武と別れようとした。
その笑顔に、伊武は桜井との距離をさらに遠く感じた。
橘、そして桜井にまで行ってしまったら、どうしろというのだろう。
「え?」
肩を掴まれ、何事かと思った時、桜井の視界はひっくり返った。
伊武は桜井を床に押し倒し、組み敷いたのだ。
眩暈を起こし、目を細めて見つめる桜井の視線の先には、ぼやけた伊武の姿が映っている。
両方の襟を、両方の手で持って、それを無理矢理引き離す。
ボタンの転がる音が、遠くの生徒達の楽しい声に溶けて行った。
舞い上がった埃が、肌にくっつく感じがして気持ちが悪い。
心が繋がらないのなら、
せめて体を繋げてしまおう。
肉体関係は持っていなかった。
愛情の表現の1つとして、ついばむようなキスをしたり、服の上から体に触れ合う程度の事しか、した事はなかった。
伊武は噛み付くように桜井に口付け、舌を挿入して口内を犯す。服の中に手を滑り込ませ、至る所に触れた。桜井は抵抗しようと体をよじらせるが、まだ頭の中がクラクラしており、思うように力が入らない。
「はっ」
敏感なところに触れると、体がびくりと震えて、吐息のような音を発した。薄暗い中でチラつく体の赤みに、息が詰まるほどの鼓動が高鳴る。
感じているのだと思った。
自分も感じているのだから、彼も同じように感じているのだと思った。
もっと確かめたいと、身を乗り出した時
パチンッ
桜井の平手が飛んできた。
呆然とする伊武に、桜井は見向きもせず、体を引き摺るように起こして立ち上がる。髪と衣服の乱れを正し、埃を叩く。のろのろと歩いて、落ちたボタンを拾った。もう一度、ボタンの数を確かめるように服を正す。その手は凍えるように震えていた。
「言ったろ?次、移動教室なんだ」
床に座り込む恋人を通り抜けて、桜井は倉庫を出る。
誰かにソーイングセット借りなきゃ
彼の独り言が、扉の先で聞こえた。
放課後、神尾、石田、桜井の3人で橘の見舞いへ行った。伊武は来なかった。
気が利くような素振りを見せて、逃げるように買出しへ行くと病室を出て行った。
入り口の前で桜井は立ち尽くす。外は雨が降っていて、彼は傘を持っていなかった。
1人きりになると、昼の事を思い出して、胸が苦しくなる。
痛かった。
口付けも、肌に触れる手も、痛かった。
暴力を振るわれているかのように、痛かった。
触れるだけかもしれないが、伊武の口付けの感触も、手の感触も覚えているつもりだ。
なのに、あの時触れてきたものは、全く知らないものだった。
体は熱くなっているはずなのに、何かが足りない。
胸の奥は温まる事無く、冷え切っていた。
頭の中は、恐怖しか刻み込まれていなかった。
目頭にそっと指の腹を当てる。涙という程度ではないが、少量の水がついた。
指同士をこすって消した後、雨の中を駆けていく。
その翌日のファーストフード店で、伊武と桜井は窓際で向かい合わせに座っていた。外は雨で、学生たちの声がこもって聞こえる。
「昨日、ごめん」
飲み物を口に含んだ後、伊武は桜井に謝った。
「俺、桜井の事を傷つけてばかりだ」
深い溜め息を吐いて、外の景色を眺める。
「本当に…………ごめん」
彼の側に、俺はいない方が良いのかもしれない。
そんな事を思ったとしても、別れる気は無いくせに。
むず痒い想いが、飲み物と共に、胸の中へ染みていく。
「伊武」
桜井が、伊武の名を呼ぶ。
「なに?」
視線を窓から、桜井の方へ戻した。
「そんなに謝るなよ。大丈夫だから」
飲み物を口に含んだ後、桜井は伊武に笑って見せた。
「それでも俺………嫌いになれないよ。好きだから」
彼の表情に、迷いは見られなかった。
「うん、俺も………好きなんだ」
伊武の表情にも、笑顔がこぼれる。
愛して、愛されているはずなのに、もうそれだけでは足りないのかもしれない
埋まるものが見つからないうちに、すれ違って、傷つけ合っていく
もどかしくて、もどかしくて、苦しくてたまらない
それでも愛は確かにあるはずなのだから、
彼が必要なことは変わりないはずなのだから、
いっそのこと
伊武は桜井の手を取って、ギュッと握った。
「フィアンセにでも、なりたい」
「何それ?」
桜井は空いた手で口元を押さえ、クスクスと笑う。
「何となく」
「ふぅん」
握られた手を、2人で見つめていた。
今、幸せかもしれないと、思った。
崖っぷちでごめんなさいね。 タイトルの歌が、凄い好きなんです。
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