恋人よ



「うん…………それでさ……」
「へえ………」
 買い物袋を提げて、伊武と桜井は学校へ続く道を、雑談を交えて歩いていた。
 校門が見えてくると、その横に神尾の姿が見える。待てなくて来てしまったのだろう。
「しょうがない奴だな」
 桜井は苦笑して、彼の元へ駆けていった。伊武はマイペースでついていく事無く、そのまま歩いている。
 彼が先ほどまで隣を歩いていた場所と、先の方で神尾に袋を漁られている姿を交互に見つめた。


 なんか違う……


 そんな言葉が脳裏を過ぎると、歩いていた足が止まった。


 伊武と桜井は誰にも内緒で先月から付き合っていた。伊武からの告白であった。桜井は受け入れてくれはしたが、男同士の恋愛はわからないと伝えた。だから、2人で一緒にいる事から始めてみようと、こうして買出しに行って会話を交わしたりしていたのだが………


 今の2人の関係を一言で表すと“良いお友達”であろう。
 お友達は、恋人などではない。その言葉の通り、お友達である。


 もう一ヶ月である。もう一ヶ月も経ってしまったのだ。
 伊武は空いた手を開いたり、握ったりを繰り返した。この手はまだ、恋人の温もりすら知らない。
 手だけではない、唇も、胸も、この体は恋人の温もりを知らない。


 こんな関係になる為に、あの日勇気を出して告白した訳じゃない。
 仲間じゃなくて、友達じゃなくて、恋人になりたくて告白をしたのだ。
 彼に自分を好きになって欲しくて、告白をしたのだ。


 伊武は焦りを感じていた。
 恋人になる努力をしなければならないと、今更ながらに気がついた。


 一方桜井は、袋を半分持ってもらった神尾と部室へ戻りながら、心の中で安堵をしていた。


 男同士で付き合うなんて、正直怖いと思っていたけれど、友達っぽくて良かった。
 ついこないだまで仲間だった奴と抱き合ったりキスしたり、考えられないよ。


 ずっとこのままの関係が続くと良いと、伊武と正反対の事を願っていた。








 次の日。伊武は休み時間に、神尾に会いに行くという振りをして、同じクラスの桜井に会いに行った。神尾と話をしつつ、桜井の隣の丁度空いている席に腰をかけた。


 何を思ったか、伊武は桜井の手をこの状態で握りたいと考えていた。
 触れたい、とにかく触れなくてはと、表情からは見えないが、焦るあまり混乱して時と場合という単語が、彼の辞書から失われていた。
 友人の言葉は耳に届いていなかった。今、伊武の意識にあるのは、すぐ隣でノートに書き込んでいる桜井の手にあるのだ。


 今だ、と思った時と
 桜井の「痛て!」という声が同時に伊武の頭に響いた。


「し、しし、深司っ!?」
 神尾が席を立って驚いている姿が目に入り、我に返った。
 伊武の手は、しっぺをするように桜井の手を押し付けている。彼のノートに不自然な一本の線が引かれていたのが見える。
「すんまそん……」
 伊武はぽつりと謝った。
「…………………」
 本当に申し訳無さそうに見えたので、桜井はあえて何も言わなかった。


 この日の伊武の奇行は、誰の目から見ても明らかであった。
 昼休みの時には桜井の弁当がいっぱいになるくらい、自分のおかずを彼に与えていた。
 部活の時には何度も桜井にぶつかって、その度に彼を転倒させていた。


 内村が冗談まじりに“伊武が桜井を暗殺しようとしている”と言って、他のメンバー達が苦笑まじりに相槌を打っていた。
 そんな中、当の被害者桜井は、怒る事も無く文句を言う事も無く、平然と振舞っていた。


 部活も終わり、学校帰りにラーメンでも食べて帰ろうかと桜井は石田と森と共に校門をくぐろうとした時、伊武が声をかける。
「俺も、一緒で良い?」
 彼の発言に、石田と森がギョッとした。いかにも脂っこいものが苦手な伊武が、ラーメンを食べたいだなんて、おかしいにも程がある。
「伊武…………あのさ、ホント……どうしたんだ?」
 恐る恐る森が口を開いた。
「どうもしないよ」
「でも」
「良いじゃん。行こう」
 桜井が話に割り込み、2人に笑いかける。


 ラーメン屋で、伊武は桜井が何かを頼むまで待ち、同じものを注文する。
「思っていたより、そんなに脂っこくないね」
 そう一言言って、伊武は黙々とラーメンを啜っていた。








 店を出て、伊武と桜井は薄暗い人気の無い道を2人並んで歩いていた。先ほど通り過ぎた曲がり角で、伊武と別れるはずだった。しかし、彼はもう少しいたいと、遠回りをして桜井と歩いている。
「今日…………色々とごめん」
 呟くように、伊武は謝った。
「内村がさ、伊武が俺を暗殺しようとしてるなんて言ってたぜ」
「聞こえてた」
「そっか。内村の声が通りやすいのか、伊武が地獄耳なのか、どっちなんだろうな」
 桜井は喉で笑った。
「本当………ごめん。怪我、してない?」
「い……………」


 いや。
 そう言いかけた桜井の口は薄く開かれたまま、固まる。


 謝る伊武の顔は、夜道で白い肌がぼんやりと浮かんで、ぞっとする程美しいと思った。
 今日、彼の起こした行動は自分とコミュニケーションを取りたいが故のものだとは、気がついていた。怒る気にはなれなかった。寧ろ、可愛らしいとも感じる。
 もし、もしも、彼がもし、自分を暗殺しようとしてあんな事をしたとしても、怒る事も恨む事も出来無いだろう。彼のした事なら、許せてしまいそうだった。


 ああ、隣で歩く彼は恋人なのだと、今更ながらに気がついた。


 桜井の頬に赤みがさす。照れ臭いのか、一歩だけ、横に離れた。
 軽く呼吸を落ち着かせて、残りの言葉を続ける。


「いや、大丈夫だよ。俺を怒らせるつもりであんな事をしないって事ぐらい……わかってきたつもりだから」


 わかってきた。
 付き合うといっても友達のような一ヶ月であった。
 だが、2人共にいた日々が、何も与えなかったという訳ではなかった。


「俺、お前の恋人なんだろう?」
 はにかんで、桜井は伊武の方を向く。
「忘れられていたのかと思った」
 伊武ははっとした顔で言う。その頬にも、赤みがさしていた。


「どうして?」
「だって………」
 視線を逸らし、表情を曇らせた。
「俺が…悪かったのかな」
「悪くない……桜井は、悪くないよ」
 ふるふると、首を横に振る。


「えっと、何でまたラーメン食べたんだ?」
 雰囲気を明るくしようと、桜井はラーメンの話題を持ち出す。
「桜井の好きな物を食べてみたくて」
「で、どうだった?」
「一回で良いと思った」
「そっか」
 正直だと、クスクスと笑う。


「ねえ桜井」
 伊武は改まったように桜井の名を呼んだ。
「ん?」
「抱き締めても良い?桜井の事、抱き締めても良い?」
「うん」
 歩みを止め、桜井は返事をする。
「嫌じゃない?」
 半歩遅れて歩みを止め、問いかける伊武の顔は、暗くてよく見えなかった。
「うん」


 震える腕で桜井の体を囲むようにまわし、背中に手を置いて、自分のもとに引き寄せた。


「嫌じゃない?」
 耳元で、伊武が囁く。
「うん」
 同じ声色で桜井は答える。


 抱き締める腕に、力を込めた。
 この体に、恋人の温もりを記憶させる。


「ラーメン、また食べたくなった」
「どうして?」
「ラーメンの匂いがするから」
「今度、2人で行こうか」
「うん」


 デートと呼べるかもしれない約束を交わした後、2人黙り込んで、目をそっと閉じた。
 そうしてこの体に、恋人と共にいる時間を記憶させていた。







桜井のお相手投票で見事ダントツ一位になりました伊武×桜井のSSでした。
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