今日も、暑い日だった。
 桜井は額の汗を拭って、まだ慣れぬ道を歩き、尊敬するあの人の入院する病院へと向かう。
「…………」
 いつもとは違う街の雰囲気に、彼は難しそうな顔でキョロキョロと伺った。



僕だけのマドンナ



「こんにちは」
「桜井だけか?」
「はい」
 病室へ入ると、橘がにっこりと笑って桜井を招き入れる。背を屈めるように挨拶をして、前に出た。
 部の様子や学校の事などを雑談していると、橘が思い出したように“そういえば”と話を切り出す。
「立海の部長が、この病院に入院しているらしい」
「はぁ」
 桜井は動揺を悟られまいと曖昧な返事をした。


 立海の名を出され、こないだ柳生に少しの時間でも一緒にいた事が見つかってしまったのではないかと、一瞬の間に色々いらぬ心配を脳裏に過ぎらせてしまう。危うく言い訳の言葉まで探してしまいそうだった。


 部長…………。
 柳生は友人と言っていた。ああ確かに柳生は3年、友人という言い回しは嘘ではないだろう。
 遠回しに気を遣ってくれたのかもしれない。これはただの予測であって、自惚れかも知れないが。


「どうして…俺だけの時にそんな事を言うんですか?」
 つい、聞いてしまった。
「うん…………神尾とかは立海の名を出しただけで怒ってしまいそうだったからかな。桜井は大丈夫かと思った。ま、それだけの話だ。病院は退屈で、お前たちから外の話を聞くのも楽しいが、たまには中の話をしたいと思って」
「はぁ」


 大丈夫かと思った…………。
 大丈夫では無かった。実際、柳生に会うなり攻撃的な態度を取ってしまった。いつも橘の周りにいる仲間達から一歩離れた場所にいた。それはただ彼らの勢いについていけなかっただけで、橘を尊敬し、依存している事は全く同じだった。これを損だと思うか、彼に認められて嬉しいと思うのか、答えは出ない。買い被りとは言えなかった。




 また他愛のない話をして見舞いを終えた後、何の運命か、バッタリと会ってしまった。
「こんにちは」
 柳生が口元を綻ばせて会釈をする。眼鏡の奥は見えないが、嬉しそうに見えた。彼の連れは見当たらず、1人のようだった。
「こんにちは」
 遅れて桜井も挨拶をした。
「毎日のように君と同じ制服の子を見かけると、友人が言っておりました。本当に………」
「あなたの所も、部長が入院されているらしいじゃないですか」
 柳生の話を遮って、言い放つ。
「はい……………そうです、部長です」
「どうして」
「ごめんなさい。言い辛かったんです」
「……………」
 刺々しい言い方だったのに、素直に謝る柳生に、桜井は苛立ちを感じるが、優しさに困惑してしまう。
「ええと…………そうだ、この近くでお祭りでもやるんですか?」
「はい?」
「外がそんな様子だったので………」
 部長のことは詮索せず、桜井はここへ来る前に外で見た事を口に出した。
 いつもとは違う街の雰囲気、それは駅からポツポツと見かける祭りを知らせる媒体が飾られている事であった。
「言われて見ればそうでした。もうすぐお祭りが開催されるんだった。遠くから来る方もいらっしゃったり………賑やかで楽しいですよ。去年は今のレギュラーメンバーと行きましてね………桑原くんの浴衣の違和感にあの柳くんの眉間が今までに無い深さを」
 こほん。
 柳生は咳払いをする。
「失礼しました。つい思い出話をしてしまって」
 桜井は黙って首を振る。思い出を語る柳生の顔が、とても幸せそうで何も言えなかった。
「ええと………とりあえず、オススメです。お友達と行ってみては如何でしょうか?」
「アイツらは、ここでお祭り気分になれないと思います。橘さん自身は、そんな事は気にしないと思いますけど。俺、お祭りは好きだし、興味はそそりますけど、1人じゃ」


「では………私と、行って見ませんか?」


 柳生の言葉に、俯き加減で話していた桜井は驚いたように顔を上げる。


「あ………何を言っているんでしょうか私」
 頬をかきながら、赤面をした。


「……………………」
「気にしなくて良いですからっ。今のは無かったことにっ」
 黙ったままの桜井に、柳生は慌てて先程の言葉を取り消そうとする。


「あなたは…………友達と行かなくて良いんですか?」
「今年はレギュラー全員で行けそうにないですから。真田くんは彼がいないと、行かないと思いますし。勝手に丸井くんは桑原くんと切原くんを連れて行ってしまいそうですし。仁王と柳くんは………わかりません。ああ、こちらの話でしたね。また、何を言っているんでしょう」
「……………………」
「本当に、気にしなくて良いですから」
「俺で、良いんですか?」
 低い声で桜井は問う。


 君とが、良いんです。


 思わず言いそうになった言葉を飲み込み
「もちろんです」
 と、頷いて見せた。
 簡単な待ち合わせの約束をして二人は別れる。


 思い返した後で、これはデートであると柳生は気が付いた。あの子と一緒にいられるチャンスだと思った。チャンスというより、あの子と一緒にいたいという意志が招いた結果かもしれない。








 祭りの当日の夜、待ち合わせ場所で柳生はしきりに時間を確認する。朝起きた時から、しつこいくらいにこの日は時間を確認している気がする。
 桜井は、まだやって来ない。
 桜井は、やって来ないかもしれない。
 恋人でも無い、友達でも無い、ただの知り合いの簡単な約束。忘れられているかもしれない。
 けれど、柳生にとっては人生の瀬戸際であった。
 心の中で必死に祈り続ける。


 会いたい。
 あの子に会いたい。
 どうしても会いたいんです。
 今日あの子が来てくれるんだったら、何だってします神様!


 神頼みをした。
 あの子に会う前だったら、何をそんなくだらない事をしているのだと思うだろう。
 しかし、今の自分には、それが全てだったのだ。


「こん………ばんは………」
 様子を伺うようなか細い声に、柳生は顔を上げた。
「夜だとすっかり雰囲気が変わってて、迷ってしまいました………遅れてすみません……」
「い、いえ。そういう事を考慮していませんでした。駅にすれば良かっ……」
 最後の方は声にならなかった。目の前に映る光景に息を呑んでしまった。
 目の前には、浴衣を着た桜井がぽつんと立っている。薄暗い中にぼんやり光る明かりに照らされ、幻想的だった。初めて見るその姿に驚きはしなかった。あの子ならこんな感じで来るかもしれないと、様々なパターンを想像していたせいかもしれない。思えば今この時まで、ずっと彼の事を考えていた。


 どこにでもいる、普通の中学生男子。
 しかし恋する目には、唯一無二の神聖なモノに見えた。


「浴衣に眼鏡というのも、悪くないものなんですね」
 桜井がクスっと笑う。柳生も浴衣を着ていた。
「君も良くお似合いですよ。そろそろ行きましょうか」
「あっ………………………あ、どうも」
 初めて言われた褒め言葉に、反応が遅れてしまう。




 人の波に乗って2人は歩いて行った。人が多すぎて、祭拍子は微かに聞こえるのみだった。
「す、凄い人…」
 桜井は柳生の後ろをついて行くのがやっとだ。
「大丈夫ですか?」
「掴まっていても良いですか?」
 柳生がほんのり頬を染めて頷くと、桜井は彼の浴衣の裾を軽く摘む。
 衣服なのに、それが自分の肉体の一部のように桜井が触れている場所を電流が通って、体中を駆け巡った。ピリピリする。それが鼓動と重なって、別の生命体のように内がうごめいているようだった。
 進めば進むほど、歩き辛くなり、狭くなって行く。桜井は離されまいと強く握った。


 橘を傷つけた学校の1人だが、今ここにいる知り合いは柳生しかいない。
 柳生を頼るしかないのだ。


「あっ」
 何かに引っ掛かり、桜井は身動きが取れなくなる。手から布が離れていく。


「あっ、あのっ」
 飲み込まれ、桜井は柳生の背に手を伸ばすが、届かない。


 ぱしっ。
 大きな手が、桜井の手を握る。


 見上げると、それは柳生の手であった。


「大丈夫ですか?」


 ぐっと引き寄せられ、隣についた。


「は」
 はい、と返事をしようとした口が開きかけたまま停止する。
 柳生の顔が、あんまりにも赤かったので、驚いてしまったのだ。


「し、失礼しましたっ」
 その真っ赤な顔のままで、握った手を解こうとする。
「い、いえ…………このままで良いです。俺、またはぐれちゃいそうですし」
「良いんですか?」
「はい」
「君の隣にいても、良いのですか?」
「はい」
 桜井はコクコクと頷いた。




 手を握ったまま、最前列に出て、祭の行列を眺める。
 夢のような、光景が目の前に広がった。
 特に何も語らなかった。
 突っ立つように、焼き付けていた。


 今こうして、この2人が隣同士で手を握っているという事実が、よりいっそう現実との距離を置いた気持ちにさせる。


 柳生の手は、大きくて、少し冷たい。
 離れないよう、固く握ってくれている。
 手だけなのに、体を包まれているようだった。
 少し冷たいのに、温かくて優しくて、安心してしまう。


 柳生は離すまいと桜井の手を握っていた。


 今、この時ほど、彼を好きになって良かったと思った事はない。
 彼の手は、幸せと喜びで出来ているかもしれないと思った。








「今日は、とても楽しかったです」
 祭を見終わった駅への帰り道を歩いている時、桜井が嬉しそうな声で言う。手は既に離しており、柳生は桜井の3歩程後ろを歩いていた。
「それは良かった。あんなに人が来るとは思っていませんでした。歩くの大変でしたでしょう」
「いえ………別に………」
 背を向けたまま、頭を振る。
 真っ直ぐ歩けば辿り着けるように、人気の無い通路を通っていた。不規則な2つの足音が、響いていた。


「本当に………俺なんかで良かったんですか?」
「どうしてまたそんな事を言うんですか?」
「だって……………いえ………別に………何でもないです………」
 桜井は、少々乱れた髪を後ろへ梳き、言葉を迷うように地面を見る。


「あなたは、どうして………俺に優しくしてくれるんですか………
 たった一度………試合した俺に………
 俺………あなたにきつい事、言ったのに………怒る所か………」


「ええ………たった、一度でしたね………」


 柳生が口を開いて、桜井は肩を僅かに上下させた。


「たった……………本当にたった…………なんですけどね……………
 一目見て、君の事、好きになったからです」


 桜井が短く息を吐いたが、何も言わなかった。
 会話の途切れたまま、2人はしばらく歩いていた。




「俺、男なんですけど」
 桜井がぶっきらぼうに言う。
「そんな事知ってますよ」
「俺の事、何も知らないのに」
「ええ、なんにも知りません。
 でも、君が君だったから、私は好きになりました」
「わけわかんないです。変ですよ、そんなの」
「変になるほど、君が好きです、大好きなんです」
 一度“好き”と口にして楽になったのか、柳生は桜井の言葉を素早く返していく。


 桜井は立ち止まり、後ろを向いた。


「俺にどうしろと言うんですかっ!」


 しん…………
 足音が止まり、沈黙が走る。




「どう…………って…………。こうしてまた、君に会って、君の事を知りたい……だけです…………」
 顔を合わせると恥ずかしくなったのか、先ほどの勢いは失せ、ぼそぼそと語り出す。
「知ってどうするんですか」
「君を知って、もっと好きになりたい……だけです………」
「嫌いになるかもしれませんよ」


「どうして………そんな事を言うんですか?」
「え?」
 不意に問われる側になり、桜井は言葉を詰まらせてしまう。


「君は、とても素敵なのに」
 悲しそうに、柳生は笑った。


「そんなこと思うの、あなただけですよ」


「私が一番初めに、それを伝えたまでです」


 好きです、桜井くん。


 もう一度、愛の言葉を口にした。
 電灯が、2人を淡く照らす。遠すぎず、近すぎない距離で、見詰め合ったまま立ち尽くしていた。







両思い以外は桜井に柳生の名を呼ばせないのが、密かなこだわりです。
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