無邪気に笑う君の顔に、
 肩さえ抱けずじまいの臆病な手がビクッと震えた。



Nice Boy



 昼休み、学校の図書館で優雅に読書をする柳生の横に、仁王が座って耳打ちをする。
「昨日のデートどこまで行ったのか、ちと俺に聞かせてくれないかのぉ…」


 べしっ。


 読んでいた本で仁王の顔面を叩く。
「紳士が公共物にそんな真似をするとは………」
 鼻を押さえて目をギュッと瞑る。
「引退して暇だからって、私に絡まないで下さい」
「おぅおぅ、その暇をデートにあてている奴に言われてしまったのぉ」
「なっ!」
 柳生の上げた声が図書館中に響き渡り、興味と怒りの混じった視線が一斉に突き刺さった。
「図書館では静粛にという字まで見えなくなったのかのー」
「揚げ足ばっかり取らないで下さい」
 本を閉じて、眼鏡のフレームを押し上げる。
「そもそも」
 キッと仁王の方を向く。
「私達の清らかな交際に汚れたイメージを持ち込まないでくれたまえ」


「清らか?男じゃったらイヤらしい事の一つや二つや三つくらいの事、考えるじゃろ」
 かぁっ。
 仁王の言葉に、面白いように柳生の顔が赤くなって反応する。
「君と一緒にしないでくださいっ」


「こんな比呂士が相手で、桜井くんはじれったいと思っとるかもしれんのー」
「………………」
 気にしていた所を突かれ、柳生は黙り込んでしまう。
「不安になるこつなかよ。ここは詐欺師に任せんしゃいっ」
 とん、と。仁王は自分の胸を叩いてみせる。
「結構です」
 本を脇に抱えて柳生は席を立つ。
 1人取り残された仁王は寂しい顔もせず、企んだ笑みを見せていた。








 放課後の東京近辺のあんみつ屋で、柳生と桜井は雑談をして注文したものを待っていた。
 主な会話は橘が引退した後の不動峰テニス部の事で、身振り手振りで話す桜井に、柳生は穏やかな笑みで耳を傾けている。それは恋人ではなく、普通の先輩後輩の風景であった。


 柳生の脳裏に、仁王の言葉が過ぎる。
 桜井くんはじれったいと思っているのでしょうか?


 肩さえ抱けない私。
 君の笑顔はいつも清らかで。
 初めてあった時よりも、君は純情そうに見えて。
 そんな君でも、私の、男の手に触れられたいと思うのですか?


 柳生と桜井の間に一本の手が横切って、テーブルの上に湯飲みが置かれた。その中に入った温かい緑茶が、眼鏡を白く染め上げる。
 桜井が湯飲みを取ると同時に、柳生は眼鏡をはずした。
 曇りを拭っている柳生の素顔に、桜井の視線を感じる。


 君の前で眼鏡をはずしたのは初めてかもしれない。
 曇りを拭う振りをして盗み見た恋人は、緑茶に口を付け、ただじっと上目遣いでこちらを見ていた。
 そんな顔をいやらしいと思うのは私だけかもしれない。
 気にしない振りをしているが、顔だけは正直に熱くなる。


 綺麗になった眼鏡をかけ、改めて桜井の顔を見た。
 ただぼんやりと、桜井は柳生を見つめる。心なしか頬は染まっているようだった。


「どうしました桜井くん?」
 このまま見つめられるのが恥ずかしくて、柳生は声をかける。
「あ、いや…………その」
 桜井は小さく首を横に振った。
 視線を落とし。テーブルを見つめるその瞳は、熱っぽく潤んでいた。


 少し様子がおかしい。


「大丈夫ですか?」
 柳生は桜井の顔を覗き込む。


「…………………」
「桜井くん?」
「…………………」


 桜井はゆっくりと手を伸ばし、柳生の手首を掴んだ。


「……………っと。来て……下さい」
「はい?」
 連れられるままに柳生は席を立ち、洗面所へと向かった。








 戸を閉めるなり、桜井はしがみつくように柳生に抱きついた。その勢いで柳生は後退り、壁に背中を打つ。
「ど、ど、どどどど、どうしましたっ?」
 心臓が異常な速さで脈打ち、絡まりそうになる声で柳生は問う。彼の胸に顔を埋めていた桜井は僅かに離れ、上目遣いで柳生を見上げた。
 ドォンッ…!
 耳の奥で銃弾の音が聞こえた気がした。
 その瞳に心臓を打ち抜かれそうになる。


「身体が、熱くて…」
 胸を押さえて、息を大きく吸って吐いてみせる。店では照れ臭くて見る事が出来なかったが、よくよく見ると頬が上気して、熱そうに見えた。その表情は何とも言えない色気を帯びており、桜井が呼吸をする度に柳生の理性の皮を一枚ずつ剥がされていくかのような感覚を覚える。
「熱でも出たのでしょうか………」
 理性の糸を必死に頭の中で紡ぎながら、桜井の額に手を伸ばす。


 カツッ。


 触れか触れないかのすれすれの瞬間に、戸の先から音が聞こえた。
 誰かが入ってくる?
 こんな所を見られたら一大事である。


「こ、こちらへ」
 恐る恐る桜井の背に手を添えて、柳生は個室へと入った。


 しん…………と、静まり返った洗面所に、桜井の荒い息のみが響き渡る。柳生はこの早鐘のように鳴る心音が外に聞こえてしまっているのではないかという恥ずかしさに、1人頬を染めた。




 しばらく待っても、誰も入ってくる気配を見せない。先程の音は気のせいだったようだ。
 個室から出ようと身体を動かそうとした柳生の表情が固まる。
 強い力で桜井がしがみついて、動く事が出来ない。
「桜井くん、出てしまわないと」
 やんわりとした声で話すが、桜井は柳生の胸に身体を預けたままで動こうとしない。
「身体が、熱くて…」
 かろうじて聞き取れる、掠れた声で桜井は言う。
「熱があるんでしょう。早く出ましょう」


「う」
 ぎゅうっと桜井は柳生の制服のシャツを握り締めた。
 緊張で噴出した汗がシャツに張り付いて、変な感じがする。心臓はまだバクバクと鳴り続ける。どうしようもなく落ち着かない。


「違う………んです………」


「違う?」


「身体が…………もどかしくて……………」


「???」


 良くわからない。
 何とかしてやりたい。
 しかし、それよりも柳生は危機的状況に立たされていた。


 このまま彼にしがみつかれていたら、理性の糸が全部切れて、どうにかなってしまいそうだった。
 紳士の皮を剥いで、狼になってしまいそうだった。


 どうしよう。
 どうしよう。


 今までずっと、大切に大切に接してきた愛しいこの子を。
 自分の手で滅茶苦茶にしてしまうかもしれない。


 どうしよう。
 どうしよう。


 何か他の事を考えようと、天井を見上げた。




「………………………」
 柳生はぽかんと口を開けたまま、思わず立ち尽くしてしまう。


 二人が入っている個室の隣の壁に、仁王がよじ登ってこちらを見ていた。


 開いた口が塞がらない。


 仁王はス――――――――っと湯のみを顔の横に持ってきて揺らして見せた。
 僅かに見える肩には店のエプロンのようなものが…………


「っ!!!!!!」


 謀られた!


「仁王!君は何て事を!いくら友人でも許しませんよ!」
 とうとう柳生は声を上げた。
「ただ桜井くんのお茶に媚薬を混ぜただけじゃろう」
「大問題ですッ!」


「桜井くん、辛そうじゃのう…………。こんな比呂士が相手で、すまんのぉ…」
 仁王は体勢を整えて、桜井に目をやる。彼は荒い息を吐き、膝が僅かに震えており、立っているのさえ辛そうであった。
「恋人じゃろ?何とかしんしゃい柳生比呂士」


「な、何とかっ?」
 ついさっきまでの仁王に食って掛かりそうだった態度とは打って変わり、声が裏返るのも忘れてわたわたする。
「情けないのぉ。そんな比呂士の為に………ほれ」
 仁王はス――――――――っと避妊具とローションを顔の横に持ってきて揺らして見せた。
「俺ってば何て気の利く友人なんじゃろ」
 うっ、うっ、と泣き真似をしてみせる。


「そ、そんな事、出来る訳無いでしょうっ」
 柳生は泣きそうな声で仁王に訴える。


「そ、そんな事、桜井くんが可哀想ですっ」


 むっ。
 仁王は顔をしかめた。




 壁に足をかけて、柳生達のいる個室に降り立った。
 呆然とする柳生から、桜井を奪い取って後ろから抱きすくめた。


「仁王っ」


 柳生を無視し、仁王は桜井に話しかける。


「のぉ桜井くん。よう耐えたのー。比呂士じゃのうて、俺で良か?」
 桜井は潤んだ瞳で、仁王に視線を送るだけであった。
「薬、利きすぎてしまったようじゃのぉ」
 顎を押し上げ、顔を近付ける。


「やめたまえ!」
 柳生は仁王の顔を手で押し退けて、桜井から離そうとする。


 くくっ。
 仁王は喉で笑う。


「そんな必死な顔、初めて見た」




「のぉ、桜井くん」


「はい」
 桜井はすっくと傾いていた背を正し、はっきりとした声で返事をした。


「はっ!?」
 柳生の頭は大混乱を起こす。


「今までの、俺と桜井くんで練った作戦だったんじゃ」
 しゃあしゃあと言い放つ仁王の隣で、桜井がこくりと頷く。


「はっ!?」


 ……………………………。
 しばしの間を空けて、ようやく柳生は状況を理解した。


「仁王!本気で怒りますよ!酷すぎます!!」
「酷いのはどっちじゃ」
 仁王の一声に、彼の胸倉を掴もうとした柳生の手が止まる。


「桜井くんの気持ちも知らんで、酷いのはどっちじゃ」
「桜井……………くん?」
 桜井は僅かに柳生から視線を逸らした。


「学年も違う、学校も違う、県だって違う、告白してきたのは比呂士なのに、何もせん!
 不安になるのは当たり前じゃろ!この意気地なし!」
 仁王が初めて声を荒げた。
「桜井くんが俺に相談してきよった時、どれだけ勇気が必要だったかわかっとるのか!どれだけ比呂士を好いてくれとるのがわかっとるのか!この阿呆!」


 普段、何を考えているかわからない友人の瞳は、まっすぐと意志を持って柳生の瞳を見据えていた。


「…………………………」
 柳生は一歩、後ろへ下がり
「………………君達の気持ちもわからず、申し訳ない事をしました。すみません…………」
 ゆっくりと、頭を下げて謝る。




「柳生さん、いつも謝ってばっかり」
 桜井の呟きに、はじかれたように柳生は彼を見た。




「俺は、謝る言葉より、柳生さんの本心が聞きたい」




「柳生さん」
「はい」
 桜井は柳生の眼鏡の奥にある瞳を見据える。2人の瞳が、不安げに揺れた。


「俺の事、好きですか?」


「もちろんです」


「俺の事、男でも恋人と見てくれますか?」


「当たり前じゃないですか」


「俺の身体に、触れてくれますか?」


「……………触れても、良いのですか?」


「もちろんです」


「触れるだけじゃ、済まないかもしれませんよ?それでも…………」


「当たり前じゃないですか」




 あなたが、好きだから。




 そんな声が、聞こえた気がした。
 見詰め合う中、2人は柔らかに微笑んだ。
 引き寄せられるように近付き、吸い付くように口付けを交わす。


 触れた瞬間、柳生の瞳が驚いたように見開かれる。
 桜井の身体の熱が伝わる。燃えるように、それは熱い。




 ああ、君って人は。


 媚薬は、本物だったのですね。


 私を見つめてくれた瞳も


 私にかけてくれた言葉も


 私にしがみついた手の強さも


 全てが本物だった。


 君の嘘は、まさに猛毒です。


 たった一滴が


 知らず知らず溶け込んで


 私の身体と心に広がっていく。


 そして私を、君なしではいられないように捕らえるんですから。


 こんな危険な猛毒は


 私以外に、使ってはいけませんよ。




 角度を変えて何度も口付けをし続ける柳生と桜井の横で、仁王は1人ぽつんと壁に寄り掛かっていた。
「出るに出れなくなってしまったのぉ……………」
 ふ――――――――っ。
 深い溜め息が、空しく響いた。







タイトル通り、シャ乱Qの「Nice Boy!」をベースにしました。
この歌が柳生×桜井に聞こえて仕方ありません(断言)!
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