襖の向こう
「は――っ、気持ち良かったぁ」
風呂から上がり、大部屋に戻った菊丸は息を吐いた。
「俺が一番乗りか」
並べられた蒲団の上に転がる。
「菊丸、早いのね」
樹が二番目に戻って来た。
「皆長風呂だな」
「そうなのね」
菊丸の隣に蒲団の上へ座った樹は、彼に同意した。
2人きりの大部屋で、言葉を交わす。
「濡れていると、違って見えるものですねー」
樹はカールの取れた菊丸の髪を眺める。
「お前とおんなじようになっちゃったな」
「………………え?………ええ」
胸がどきりと脈打ち、戸惑いを隠せずに曖昧な返事をしてしまう。
樹の反応を特に気にも留めず、菊丸は次の話題を振った。
「疲れ取れた?」
「コートの整理をする時、重い荷物運んだから、肩が凝ったのね」
「ああ、タカさんと運んでいたアレか」
「河村、力持ちなのね」
ふ―――――っ、息を吐いて樹は肩に手を置いて回す。
「いっちょ俺が揉んでやろうか?」
菊丸は上半身を起こして樹に笑いかけた。
「は?」
「大石直伝マッサージ術ってね。俺こう見えてもマッサージ得意なんだぜ?」
自分を指差して、それは嬉しそうに説明する。
「皆来ねえし暇だし、良いじゃん。な?」
ぽむ。
樹の肩に菊丸の手が乗る。瞬時にして火を噴いたように顔が赤く染まった。
「じゃ、じゃあお願いするのね」
そんな顔を隠すように、俯いて頷く。
樹はうつ伏せに寝て、横に菊丸がくっつくように座った。
手の平が背中に触れる。
マッサージだというのはわかるが、想い人に触れられるのは心が尋常ではない。
「始めるぞ」
ぐっ。
刺さるように親指が押された。
「った!」
「ずいぶん凝ってんなぁ」
菊丸の指圧はピンポイントにツボを刺激していく。
「あ」
吐息のように口から漏れた樹の声に、手が強張った。
「へ、変な声だすなよ」
「そんな事言われても困るのね」
「…………………」
手を閉じたり広げたりを繰り返して、緊張を解すが、偶然目に入った樹の髪の隙間から見えたうなじに、菊丸は顔が熱くなるのを感じた。首を振って冷まそうとする。
一方、その頃。
「あ――っ、気持ち良かったっスねぇ」
桃城は首にかけたタオルで髪を拭いながら、隣を歩く黒羽に笑いかけた。冷たい木の廊下に白い跡を残して、ペタペタと音を立てる。
「ふ――――――っ」
「おわっ」
突然2人の間に顔を出した人物に、思わず桃城は声を上げた。
「だ、誰…………でした……っけ?」
「ダビデだよ」
「あ、天根かぁ………」
濡れて髪のボリュームを無くした天根は、一瞬誰だかわからない。
「あれ?英二は?」
天根の真後ろを歩く河村が声を上げた。
「もう上がったんじゃないか?」
「早いな」
「去年の合宿も菊丸は早かったよ」
大石、首藤、乾は頷き合う。
「樹ちゃんも早いんだよ」
「そうなんスか」
「うん」
木更津が樹の名を出し、彼の側を歩く海堂と佐伯が相槌を打った。
「到着っと」
大部屋の襖の前に立った桃城は、戸に手を伸ばす。
「……………………」
「どうしたよ、桃城?」
そのままのポーズで硬直する桃城に、黒羽が声をかける。
「え…………いや、その」
「あ?」
しゃがみこんで、襖に耳を寄せる。
「……………………」
黒羽の頬に赤い点が浮かび、同じように赤くした桃城と顔を見合わせた。
「前がつっかえちゃ、入れないよ。湯冷めするだろ」
彼らを見下ろすように、誰かが苛立ったように言う。
し――――――っ。
見上げるように、桃城が口元に人差し指を立てて見せる。
「…………………?」
その場にいた人間は皆口を閉じ、耳を済ませた。
襖の奥から聞こえるのは、菊丸と樹の話し声であった。
ここ、どうだ?
痛!痛いのね!
あー、ここか。我慢しろよ。
もう少し優しくして下さい。そ、そう、ゆっくり………はい………
気持ち、良いか?
はい。気持ち良いのね。もっと、して下さい。
し――――――ん…………。
廊下には異様な空気が漂っていた。
「大部屋でなんつー事してんスか……英二先輩………」
呆れながらも聞き耳を立てるのはご執心な桃城であった。
「…………ゆ、許さないよ英二…………僕と、たた、た、タカさんだってまだなのに…………」
桃城の横で開眼している不二は、どこから持ってきたのか筒を使って中の様子を伺っている。
「不二先輩、息荒いっス……」
海堂がぼそりと突っ込みを入れた。
「明かりもまっぴかりじゃねえか。……い、樹ちゃん…………」
ずずっ。湯冷めか、鼻血が出そうになったのか、黒羽は鼻を啜る。
「あ、新しいデータが………新しいデータが………だ、誰か、誰か、俺に紙とペンを………」
「手塚…………英二が…………」
「あーはいはい」
「あーはいはいはい」
手をわなわなと震わせる乾、ここにはいない九州の人物の名を出す大石を、河村と木更津が手を引いて退場させた。
「え?何?何なの?」
事態を把握出来ない佐伯の耳を、首藤が塞ぎ、体を天根が後ろからブロックをかけている。
あっ。
高めの掠れた声を樹が上げると、外の人間は総毛立つ勢いで、ブルッと体を震わせた。ぞくぞくするほど、色気を感じる。
下の方、良いですか?
ん、ああ。
し――――――ん…………。
再び廊下は静寂になる。
「た、体位チェンジか」
「き、騎乗位スか」
「人それぞれ形によるからね」
「不二先輩、鼻血、鼻血」
床に落ちる赤い滴を海堂が指摘する。
「何やってんスか?」
「何やってんの?」
遅く風呂から上がってきた1年コンビ越前、葵がやって来た。止める前に小走りで襖の前に滑り込んで、耳を寄せた。
「まじスか?菊丸先輩と樹さんが?」
動揺を隠し切れない越前に、桃城は何も言うなと静かに首を横に振る。
「こんな事しちゃって良いのかなー?」
楽しそうに葵ははしゃぐ。エッチな事には興味津々なお年頃であった。
何か聞こえねえ?
聞こえるのね。
いくら声を潜めても、これだけの人数が集まれば、気付かれないはずはない。
立ち上がる際に出た声が、気だるそうで、妙にいやらしく聞こえた。
「く、来るよ?」
「ちょっ………」
慌てだす時には既に遅く、襖は開けられてしまう。ドッと雪崩れ込む彼らを、目をパチクリさせて見下ろす、菊丸と樹の姿があった。
「あ、あれえ?」
着衣の乱れが無いので、思わず桃城は素っ頓狂な声を出す。
「一体、何なのね?」
「てっきり俺たち………樹ちゃんと菊丸が………まぁ………ええと…………」
言葉を濁す黒羽だが、2人には彼の言いたい事がわかり、首まで上気させる。
「ばっ………んな訳ねえだろ!」
「ただ菊丸に指圧マッサージしてもらっていただけなのねっ!」
「なに焦ってんスか?」
越前の呟きに、さらに2人は焦りだす。
「脈、あるんじゃ…………」
「おチビ、黙ってろ」
菊丸が越前の口を手で覆うように塞ぐ。横目で樹の方を見ると、真顔でこちらの方を見ていた。それは越前の言っていた事の真意を確かめるように。すっと顔の熱が冷めると、菊丸も真顔で樹の事を見てしまう。引き寄せられるように、目が離せない。
その刹那、ぐらりと視界が反転する。
「樹ちゃん、マッサージって………へへ、変な事されなかった?」
「?」
菊丸が瞳を動かすと、佐伯が樹の肩を押さえて、揺さぶっているのが見えた。どうやら佐伯に足をかけられたようだ。蒲団の上なので痛くは無いが、これは偶然やられたものではない。
あいつ、やたら俺に突っ掛かってくるんだよなぁ。
菊丸にはまだ、佐伯の嫌がらせの理由はわからなかった。
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