彼には内緒
【 2 】



 塾の帰り、樹は1人夜道を歩いていた。道の先は暗くて良く見えない。自分の足音だけがやたらと響く。凍えるような寒さに、夏の暑さがどうだったのかを思い出そうとする。そういえば彼と、暗い夜道を踏みしめた事があったと、道の先を見据えた。懐かしくも、どこかが寂しい。思い出せば思い出すほど、2人の恋はこの暗闇のようだと思う。先が見えない、誰にも見えない、この目を凝らしても僅かにしか見えない。だが、確かにある存在。


 彼との恋は、秘密という毒を含んで花を開かせて行った。


 2人闇の中を、手を繋いで走った。
 誰にも見られずに、誰にも知られる事無く駆け抜けた。








 夏の青学、六角の合同合宿の夜。菊丸と樹は宿舎を出て、コートはずれの用具倉庫へと忍び込んだ。
 前もって開けてあった窓から侵入する。床に降り立つと、声を出して笑った。想いは深まるごとに秘密が増える。アイツもコイツも誰も知らない2人の恋。性質の悪い悪戯をしているようで、何故だか無性に可笑しくなった。こんな大声を出しても誰も知らないのだと、そう思えばもっと可笑しくなる。


 ぽっかりと空に浮かぶ月の輝きが、唯一の光であった。
 笑い声は、まだ治まらない。
 菊丸が樹に抱きついて、マットの上に押し倒す。埃が舞って、くしゃみをして、それがまた可笑しく、抱き合ったまま、一回転がった。


「はは……」
「……………は」
 笑い過ぎて息が続かない。
 マットに手をつき、菊丸が上半身を起こして樹を見下ろした。樹も菊丸の顔を見上げた。
 息切れをして、腹で息をする僅かに開いた口の形は官能的で、言葉を交わす事無く見惚れてしまう。そのまま何も言わず、固く抱き締めあった。
 闇の中で息づく存在を確かめるように、体に引き寄せる。その引力に惹かれるままに、唇と唇が触れた。肌の中に流れる血と熱が、ゆっくりと、確かに、体の中に伝わって溶けていく。


 ちゅ、と樹の首元に菊丸が口を付けると、笑いが込み上げた。
「あはっ」
 この行為が可笑しいのか、愛されて体に触れてくれる事が嬉しいのか、笑ってしまう。
「なんだよ」
 笑われて、怪訝そうな表情をする菊丸にも笑みがこぼれる。罪の意識やわだかまりの全てから抜け出して、愛し合えることがこの上なく幸せな事であった。


「ふふ……あは……あははは……」
「はは……はは」
 口付けされる度に、樹はくすぐったそうに身を捩じらせて笑う。反応を楽しむように菊丸も笑う。お返しにと樹も菊丸に短い口付けを何度もする。口付けをし合ってじゃれ合った。ここには2人しかいない。声を出す事に躊躇わなくても良い。
「はー…」
 笑い声を出していた口から、やがて熱を帯びた吐息が吐かれる。


 体の形を確かめるように、樹の指が菊丸の鎖骨の上をなぞる。鎖骨から腕、腕から背中、背中から背骨を伝って下りていく。布が擦れて、線を描くかのような真っ直ぐな音を立てる。窓から差し込む月の光が反射して、生白く浮かんだ。音が止んで、指を上着の裾に引っ掛ける。その隙間に差し込むように手を入れて、持ち上げるように捲し上げていく。ゆっくりと、焦らすように捲し上げていく。


 菊丸が辛抱出来ず、樹の首元に甘噛みをした。しかし空いた手は荒々しく、衣服を剥いでいく。外気に晒された肌寒さがくすぐったい。樹は喉で笑おうとするが絡まり、息を吐くのみであった。その吐息は、心地よさそうに聞こえた。
 べったりと菊丸は樹の体に張り付く。胸と胸が合わさり、相手の心音が聞こえる。ドクドクとした、生きている音がした。共にいれば共にいるほど、愛おしいと心が言う。触れ合えば触れ合うほど、もう止められないのだと心が言う。血潮が急き立てる、今この時が全てなのだと。他はいらない、今この時が全てなのだと。


 2人を阻む衣服が鬱陶しく、乱暴に脱ぎ払い、裸になった。肌は見る事無く、2人ただ見詰め合っていた。指は体を弄り合うが、見詰め合ったままであった。この時が全てなのだと。目を逸らす事は出来なかった。体を馴染ませ、腰を引き寄せて、菊丸は樹の中に自身を押し込んだ。
「………あ………」
 薄く開かれた口から、切ない声が漏れた。
「………あ………」
 痛みにしかめた目元に涙が浮かぶ。
「…あはっ………」
 しかめたまま、心地よさそうに笑った。
「はー………」
 腰を沈め終わると、菊丸は息を吐く。汗で額に張り付いた髪を、樹が除けてやる。視線はそのまま合わさった部分へ動いていった。口元は上がったままであった。
「凄い。入ってます」
「入ってるだろ」
 当然のように菊丸は言ってみせる。2人は何度も体を重ねて来た。
「ええ」
 暗くて見辛いので、細めている目は笑っているようであった。
「なに笑っているの」
「幸せですから」
「そう」
 菊丸も口元を綻ばせる。
「お前も笑っているのね」
 そう言って、噴出した後、声を上げて笑い合う。
 幸せの、絶頂であった。








 北風が頬の横を通る。夜道の先を見据えたまま、立ち尽くしてしまったようで、樹は我に返り歩き始めた。なぜよりにもよって夏の事、しかも合宿の事を思い出すのか、自分で自分に呆れてしまう。いや、なぜ思い出すことを避けてしまうのだろうと考える。ただ会わないと決めただけで、別れた訳では無いのに。
「そんなに寂しいんですか」
 呟くと、淡い白が闇の中に浮かんで溶けていく。


 まだほんの少ししか経っていないのに。自ら離れたのに。
 バカですね。


 そう思うと、目の奥が酷く染みた。







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