歪み



「じゃあ、俺はこっちだから」
 仲間たちにそう言って、菊丸は割り当てられた部屋の中へ入った。
 襖に寄り掛かり耳を澄ますと、彼らの笑い声が聞こえ、少しずつ遠くなっていく。聞こえなくなると背を離し、前を向くと、既に戻っていた同室の人間と目が合った。
「なにやってんのね?」
 きょとんとして樹は瞬きさせる。あらかじめ敷かれていた布団の上に乗り、見上げている。二人ともタンクトップにハーフパンツというラフな格好であった。
「別に……」
 なんとなく目を逸らして答えた。
 なにげない言葉、仕種のはずなのに、鼓動は試合とは異なる別の忙しなさで脈打つ。


 どうして部屋もビーチバレーと同じ組み合わせなんだよ。
 理性は心の中で割り当てを決めた、賛成をした人間たちへ突っ込みを入れるが、本心は異様に踊っていた。
 こんなチャンス、二度とない。
 思い出作りをするなら、今この夜しかない。
 調子の良い事ばかりを並べ立て、期待ばかりをしているのだ。


「菊丸?」
 樹がもう一度、声をかける。襖の前に立ちっぱなしの姿は十分に怪しい。
「いや、その」
 口籠ってしまう。さっきまで仲間たちに見せていた明るさは、どこかで置いてきてしまったように抜け落ちていた。
「電気、消しても良いのね?」
「待てって」
 慌てて布団に横になる。そんな彼の様子を眺めながら、樹は電気を消す。豆球がついているので、真っ暗ではない。
 薄暗い中、樹が横になると布擦れの音が菊丸の耳に届いた。ぞわぞわと、肌の表面をくすぐられるようであった。
「どうしたのね?」
 樹は喉で笑う。
「いやらしい事でも考えているんですか」
「そうだよ、悪いか」
 からかわれ、拗ねたように菊丸は樹に背を向けて寝返りを打つ。
 身体の中は下心でいっぱいだった。抱きたくて仕方が無い。こんな考えは汚れているんだろうか、間違っているんだろうか。不純とでも言うんだろうか。じゃあ純愛とはなんだ?心だけが純愛なのか?身体が付いていっては駄目なのか?
 頭の中へ考えが入り込み、急速に流れてぐしゃぐしゃに絡まる。
「お前は、どうなんだよ」
 唇を尖らせて問う。口がどうしても尖がってしまう。いじけたような、置いてかれたような、子供っぽい衝動であった。
「俺、ですか?考えてるのね」
 さらりと、樹は答える。
 そう答えられてしまえば、逆に怯んでしまう。
 俺をどうしたいのか、俺にどうされたいのか、わからない事だらけの彼の心中。
「どうします?」
 背中に投げられる声が焦りを与える。
「馬っ鹿じゃん。そんな事する為に来たんじゃねーよ」
 馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿!言ってしまった後で自分を心中で罵倒した。
「そうですね。ではお休みなさい」
 樹は言うと、会話がぴたりと止まった。
 待て、待て待て待て。菊丸の焦りはさらに加速する。
 お前も考えていたんじゃないの?そこで普通、寝る?
 心の中ではいくらでも言えるが、実際には何を言うべきか、それは見つからない。
「…………………………」
 菊丸はぎゅっと目を瞑る。唇は尖ったままであった。
 もう駄目だ。諦めるしかない。しくじった。
 腑に落ちない事ばかりだが、眠るしかない。




 静寂が訪れて、どこからか虫の鳴き声も聞こえた。目を瞑った顔も穏やかになって、意識を夢の中へと誘い込んでいく。
 夢の一歩前、今日あった事が脳裏で回想されていく。
 練習や、仲間の顔、声、合宿所での食事、風呂。風呂は青学と六角で一緒だった。素知らぬ振りをしていたが、樹の事ばかりが気になっていた。じろじろ見すぎたら、変な趣味みたいだ。実際、変な趣味なのかもしれないが、彼の濡れた肌が焼きついていた。
 眠れない!眠れる訳がない!
 菊丸は瞼を開ける。そうして、半身を起こした。
「…………………………」
 眠いのか、目が据わっている。むすっとした表情で、四つんばいになって樹の布団へ近付いた。
 樹は背を向けて、動かない。ひょっとしたら狸寝入りなんじゃないのか。顔を見ない事には確認のしようが無い。狸寝入りだったらタダじゃおかねえ。どうしてくれようかという企みは、血液を中心に集めてしまい、それが余計に腹立たしかった。
 薄闇の中で浮かぶ樹の白い腕。回想と重なって、艶めかしさが漂っている。呻くように小さく咳払いをして、菊丸は手を伸ばした。


 その時。


 何かを引き摺る音がして、振り向けば襖が開いている。見えるのは素足。見上げれば知った顔がそこにはあった。
「…………………………」
「…………………………」
 目が合い、空気が一気に苦しくなる。
 立っていたのは佐伯であった。彼もタンクトップにハーフパンツの格好であった。
 爽やかな笑顔が、そのまま張り付いている。ひくひくと、顔半分が痙攣を起こしていた。相当、怒っているのだろう。
 佐伯から見れば、今この状況は菊丸が眠っている樹に、夜這いをかけている以外の何ものにも見えない。
 最低最悪の瞬間に見られてしまったものだ。
 それに佐伯は、樹と菊丸の関係に友情とは別のものが絡んでいる事に、薄々感付いている。菊丸が樹にするであろう悪戯が、ただの悪戯ではない事ぐらい、容易に予想できるだろう。
「菊丸、お前……」
 笑顔とは裏腹に、底冷えのするような重い声が吐かれる。樹を起こさぬように、潜めてはいるが、様々な感情も押し込めているように見え、恐怖を感じた。
「なにやってんの…………?」
「お、お前こそ」
 菊丸も声を潜めて聞き返す。
「俺はただ、樹ちゃんを誘おうと」
「ホントかー?」
 疑いの眼差しを向けた。菊丸は佐伯が樹に抱いている感情に、友情以外のものが混じっている事を知っていた。同じ感情を抱く者の臭覚とでもいうのか、ピンと来ていたのだ。
「当たり前だろ。菊丸じゃないんだから」
 心を見透かされているような気分に、頬に赤みがさす。だが、暗いのだからわかりはしないと高をくくっていた。
「どうだか」
 呟くように言われた一言に、カチンと来る。
 どうしてこんな奴が。憎らしい気持ちが心の蓋を開かせる。
 樹の想いが菊丸へある事への嫉妬、羨望、後悔……隙間から零れて溢れてしまう。
「とにかく」
 佐伯は前に歩み出た。
「樹ちゃんに変な事しないで」
 樹と菊丸の距離を離そうと、間に入るつもりだった。
 ところが暗さが災いして足に布団が引っ掛かり、躓いてしまう。


「わっ」
 均衡を崩して倒れ込んだ。
 しかも最低最悪、樹の上に乗りかかり、抱え込むように。こんな偶然の位置に倒れ込むはずが無い。下心が無ければ、の話である。
「てて……」
 顔を上げて菊丸を見れば、彼も先ほどの佐伯のように表情を硬直させて、顔の半分をひくひくと痙攣させていた。
「お前こそ、なにやってんだよ」
 呆れ果てたような口調には温度を感じない。


「ん」
 樹が呻き、身体を動かそうとするが動けず、何事かと目を覚ました。
 本当に、眠っていたようだ。
 菊丸と佐伯の視線が樹に集中する。
 彼は眼をこすって、寝惚けた一言を呟く。
「菊丸……なにやってんのね?」
「俺じゃねーしっ」
 反射的に否定した。
「はぁ?」
 ゆっくりと顔を動かすと、圧し掛かっているのが佐伯だと気付く。
「サエ?」
「い、い、いいい、いや、これはね、その」
 佐伯の顔がカッと熱くなる。混乱して口走る言葉は意味を成さない。
「ごめん、違う、これは違うんだよっ。信じてよ。お願いだよ、樹ちゃん」
 身体を離し、布団の上に座り直る。両手を前で振り、必死で無実を訴える。泣きたくなった。
「わかってるのね、サエ。菊丸がたぶらかしたんですか。サエを巻き込まないで欲しいのね」
 あっさりと佐伯を信じ、菊丸を疑う発言に、彼らは複雑な心境を抱き、気まずい空気が漂う。
「樹……お前結局、佐伯なのな」
 搾り出すように言う。今度は菊丸が泣きたくなった。佐伯に目で合図をして、開いたままの襖を閉めさせる。
「え……菊丸……」
 菊丸の様子に樹は身を起こし、悪い事をしたと彼に手を伸ばす。だが今にも触れそうな時、佐伯が制止をかけた。


「やめてよ、樹ちゃん」
「サエ?」
 一歩遅く、樹の指先が菊丸の肩に触れる。樹と菊丸の視線が佐伯に集まった。
「樹ちゃん、コイツはね、菊丸はさ、樹ちゃんが眠っている間にやらしい事しようとしていたんだよ」
「………………あ、はい……」
 僅かの間を空けて、樹は相槌を打つ。反応の薄さに慣れた行為なのだと察する。
「…………………………」
 視線を彷徨わせ、佐伯へかける言葉を探す。菊丸との関係を知られぬよう、佐伯を傷付けずに済む言葉を。そんなものは無いのに、彼は探した。
 困る樹に菊丸は痺れを切らす。
「良いだろ別に。初めてじゃないんだし」
「菊丸っ」
 菊丸を咎め、樹は佐伯に下手な弁解をした。
「サエ、違うのね。菊丸の悪乗りなのね。お願いです、信じて欲しいのね」
「また俺が悪役かよ」
「菊丸」
「…………………………」
 二度目の咎めに、菊丸は苦い顔で口を閉ざす。
「ほら、樹ちゃんは違うって言ってる」
 佐伯は逆手に取って、追い討ちをかけた。
「だからそれは」
 黙っていられず、口を開く。
「じゃあ、じゃあさ」
 頭に血が上っていた。でなければ、とても言えない一言を佐伯は放ってしまう。


「証拠見せてよ」


「……は…………?」
 菊丸と樹は口をぽかんと開けた。
「キスぐらい、してみせてよ」
「…………………………」
 菊丸の頬がみるみると赤く染まっていく。面白いぐらいの反応だった。一方、樹は呆然としたままであった。
「んな事出来るかよ」
 樹と口付けぐらい、交わした経験はある。だがそれを人前で出来るかと言えば、断じて否であった。秘められた想いも、行為も、二人だけのもので誰にも知られたくも見られたくも無い。
「やっぱり菊丸の思い込みなんだ」
「佐伯…………」
 佐伯の言動が尋常では無いのを指摘してやりたいが、冷静を保つだけで精一杯であった。
「俺なら出来るよ」
「サエ?」
 こればかりはさすがに樹も動揺せずにはいられない。
 佐伯自身、何を言い出しているのかと理性は歯止めをかけようとしている。けれども菊丸には負けたくない闘争心と劣等感が引き下がるのを拒む。
「樹ちゃん」
 佐伯はじりじりと樹に近付き、肩にそっと手を回した。
「良いよね?」
 樹の返事は返ってこない。相手の都合を考えない一方的な想いが突っ走る。
 今までの関係を壊そうとしている。壁を越え先は見えない、拒絶をされたらという恐怖は全身をガチガチに固める。だがやるしかない、やれ、やれ、と心が急かし、強引に進めようとする。
「…………………………」
 樹はただ、困惑した表情を佐伯に向けるだけであった。菊丸は止める術がわからず、眺めるしか出来ない。
「樹ちゃん」
 佐伯は口をつぐみ、震える唇を樹の唇に近づける。触れたような、気がした。緊張で感触を感じるまでに至らない。終えて身体を離そうとすると、後ろから菊丸が引っ張って剥がされた。
「早く離れろっ」
 佐伯を押し退け、樹の肩を掴んで揺らす。
「樹」
「…………………………」
「樹っ。なんで黙っている訳?黙ってされてんなよ。わかってんの?」
「わかってますけど」
「けど?」
「……………………………………………………」
「あ―――っ、畜生っ」
 菊丸が引き寄せると、そのまま樹の身体が吸い付けられ、噛み付くように口を塞いだ。簡単に身体が動かされ、佐伯は“あっ”と思わず声を漏らす。


「ん……………う……」
「………ん……………」
 引き寄せた後に密着させ、身体を傾けていく。菊丸は何度も角度を変えるが、隙を与えない。息苦しさが襲う。舌を挿れられ、応じるように絡めると音が濡れて、それは佐伯の耳にも微かに届く。
 布団に倒れ、素足が素足をなぞるように絡まった。自然か、誘導されたのか、樹の手が菊丸の上着を掴むと、彼は解放させた。
「……は…………はぁっ……」
「はー……………………」
 空気を取り込もうと大きく開いた口の間を銀糸が繋ぎ、それを菊丸は舌を覗かせて唇をなぞり、切った。
 頭を上げ、高揚させた顔で彼は佐伯を見る。
「これでわかったろ?な」
 佐伯は口をパクパクとさせていたが、何を狂ったのかさらに難題を出した。
「そんなんじゃ、全っ然わかんない。そんな、キスぐらいでさ」
 え……………ちょっと…………何を言っているんだ………?
 菊丸と樹は高まった情すらも停止させて、呆気に取られる。佐伯自身も何がなんだかわからない。理性も何もあったものではない。
「これ以上どうすりゃ」
「菊丸」
 言葉を遮り、樹はわざとらしい咳払いをした。
「よくこんな時に」
 佐伯もいるのに、と言わんばかりに小声でぶつぶつと言う。
 布越しに菊丸自身が反応を示しているのを、密着しているので感じていた。
「お互い様だろ」
 樹自身も反応を示していた。


「なにこそこそ話しているの?」
 ぬっ。佐伯が顔を突っ込んでくる。
 もはや恐怖であった。
「二人がそういった関係なら、そのままにはしておかないよね?」
 ひょっとして脅されているのか?
 もはや言い返そうとするような気にはならなかった。
「そうですね」
 樹は頷いてみせる。
「そうじゃないだろっ」
 ただ一人冷静であると思い込んでいる菊丸は樹を諭そうとした。
「だってそうしないと、サエは納得しないのね」
 樹は菊丸の身体を支えながら共に身を起こす。
「だからって」
「しょうがない」
 布越しに菊丸自身へ手を当て、包むように掴んだ。
 不意をつかれ、前屈みになった顔が樹の肩口に乗った。
「おい、ちょっと。待って、待てって」
 弱気を見せる菊丸の声を聞き入れず、樹の指が慣れたようにハーフパンツの中へ入り、下着を滑り込んで直に指先が自身に触れる。
「なんなんだよ」
 菊丸も折れて、同じように樹の下腹部へ手を伸ばす。肩口に顔を埋めたままだが、触れる場所は手探りでもすぐに到達できた。
「おいおい」
 樹自身に触れると、菊丸の口元が艶めかしい弧を描く。
「ペース速いじゃん。見られて興奮してんのかよ」
「菊丸のペースの速さは相変わらずなのね」
「ほっとけ」
 足を引き摺らせて、近い身体をより近付けていく。
 互いに片方の足を相手の足へ乗せ、下着を下ろして自身を取り出して擦り合わせた。菊丸の手が二人を包み、樹が手を重ねて指の隙間に指を滑らす。
「……………は…………」
「……んん……………っ………」
 濡れた水音は卑猥で、情欲を高まらせていく。高まれば自身も形を変えて、快楽の海へと脳と身体を沈み込ませる。
「…………………………」
 佐伯は二人の情事を呆然と眺めていた。どうしてこんな事になってしまったのだろう。全ては自分の発言のせいなのだが、目の前で始めるなんて思いもしなかった。何をさせたかったのかも、少し前の思考がわからない。
 交わっている場所は影になって見えない。だが高まっていく様子は十分にわかり、ヴェールに隠される行為が想像力をかき立たせ、佐伯の情をも高まらせていく。
「あ」
 樹が熱い息を吐いた。音だけで佐伯の心音をドクドクと鳴らせる。
 まるで目の前に餌を吊られて焦らされるように。膨張する自身を手で隠すが、解決にはならない。
「…………ふっ………う…」
 快感に流され、とろけそうになる樹の頬を、菊丸が舌で舐め上げる。樹はお返しをするように彼の頬へついばむような口付けを落とす。
「あ……………」
 口付けを交互に交わし、やがては唇同士を重ねだす。静かに、だが確実に限界は近付き、菊丸が先に果てると僅かに遅れて樹も欲望を吐き出す。
「はぁ、はぁ、は………」
 吐き出してしまった後も惜しむように口付けを交し合う。菊丸は樹の首元へ甘噛みすると心地良さそうに喉を鳴らしていた。




「さて」
 菊丸の瞳がきょろりと動き、佐伯を捉えた。佐伯はぎくりと肩を竦める。
「なーにやってんのかなー」
 ズボンを上げながら菊丸は佐伯の後ろへ周り、座り込む。樹も自身を戻して四つんばいで佐伯に近付いた。そのまま上がった手が、ひたりと佐伯の腿に下りる。
「佐伯さんも、随分溜まってらっしゃるようですね」
「菊丸、サエをからかわないで下さい」
 樹は菊丸を咎めるが、腿に乗った手が撫でるように動いたのを佐伯は見逃さなかった。
 脇から菊丸の腕が伸びて組まれ、押さえ込まれる。
「え…………その………」
 佐伯はキョロキョロと左右を見回すが、助けてくれる人など誰もいない。その動きは樹のもう一方の手が佐伯の手の上に乗った時に固まった。
 優しく触れられ、優しく手を剥がされて、隠したものを暴かれる。
 ぎこちない動きで前を向き、見下ろすと、樹の眼と合う。自身は布越しに樹の手に触れられている。情事を見て、反応してしまった自身をだ。羞恥が脳と身体、心を襲い、変な汗が滲み出る。
「サエ」
 樹の唇が佐伯のあだ名の形を作り、声は脳に刻まれ一音一音、頭の中で再生される。
「ごめんね」
 指が、ズボンの中へと入り込んだ。指が、腹を伝って下腹部へと降りていく。
 もう、駄目だ。
 隠された想いが、欲望が、暴かれてしまう。


 そこへ触れても。吐き出されても。君は俺の事、どれくらいわかってくれるのだろうか。
 菊丸の腕が圧迫させて、きつさと息苦しさを味わっていた。
「……は………」
 吐いた息は熱く、喉には切なさが残る。


 朝が明けたら元に戻れるのだろうか。まだ夜は長く、朝は遠い。







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